TM MAGAZINE 2026年5月26日
成瀬巳喜男はなぜ研究されないのか|コンテを見せず87本を撮った職人
63歳で死去するまでに87本を製作した成瀬巳喜男は、ほとんど研究対象になっていない。最重要のコンテと撮影の段取りを、人に見せなかったからだ。頭の中にある完成イメージを逆算し、納期・予算・労働時間を守り続けた職人だった。
SCENE5は、成瀬巳喜男です。
SCENE4で、良い映画の条件に挙げた「最後まで見続けられること」。この文脈で見た時、学ぶことが多いのは成瀬巳喜男です。
黒澤明、溝口健二、小津安二郎など、同時期には巨匠の存在が際立っていたため、あまり注目されませんが、職人と言えば成瀬です。
1920年に松竹蒲田撮影所に入社後、小道具係から助監督、そして監督になった成瀬は、63歳で死去するまでの間に87本も製作しています。
この本数は、群を抜いています。有名な黒澤明は30本ですから、いかに成瀬が多作だったかが分かります。
しかも、彼は遅咲きの映画監督でした。一方で、成瀬の評価はまともに扱われてきたとは言い難く、ほとんど研究対象にもなっていません。一体、なぜなのでしょうか?
その理由は、彼独自の製作手法にあります。
映画製作は、大所帯を指揮する必要があるため、準備が作品の質を左右します。特に重要となるプリプロダクションと呼ばれる準備段階では、脚本を練り上げ、監督が視覚的イメージをスタッフに共有するための「コンテ」を作成します。
コンテは絵で描かれることが多いため、元々画家志望だった黒澤明の絵コンテは、それ自体で展示会が行われたほど芸術的なのですが、この最重要のコンテと撮影の段取りを、何と成瀬は人に見せませんでした。
この事情から、87本もの映画製作を行なった成瀬ですが、資料がほとんど残っていません。ゆえに、資料不足で研究対象にならないのです。
しかし、成瀬は怠惰だったのではなく、ある意味で天才的でした。彼は自らが製作する映画のイメージを、すべて頭の中で完璧に構成することができたからです。
一般的には、いくら映像イメージが頭の中に存在しても、映画製作には大勢の職人が関わるため、コンテや段取りとして共有しなければ、一貫した作品は描けません。ですが、成瀬はそうした慣例に捉われずとも、自らの頭の中にある完成イメージを逆算し、そこから製作日数・段取り・予算配分を決定し、予算内で納期までに納め、撮影も朝から17時前には必ず終わっていました。
当時の映画製作は、現在のブラック企業どころではなく、何日も徹夜は当たり前で、労働環境は過酷を極めていました。そのため、納期が遅れることは度々であり、途中で頓挫することも多かったのです。そうした状況の中、たった一人だけ淡々と映画を作り続けたのが成瀬です。
「納期厳守」「予算厳守」「労働時間厳守」、さらに監督本人の頭の中で設計が完璧に完成している成瀬が率いた製作部隊は成瀬組と呼ばれますが、この成瀬組は会社から最も重宝され、荒くれ者の多かった現場の職人たちにとっても、グウの音も出ない親方と呼べる存在でした。
寡黙で、余計なことを一切口にせず、それでいて圧倒的な存在。それが成瀬であり、彼最大の魅力です。
成瀬作品を好む人は、自らも職人気質である傾向があり、その完璧な設計に芸術を見出すことができる人々です。
そこで、成瀬作品の入り口としてオススメしたいのは、『放浪記』(1962年)です。林芙美子の自伝を綴ったデビュー作が、成瀬の頭の中で完璧に設計され、登場する俳優も高峰秀子、田中絹代を筆頭に、素晴らしい構成になっています。
他作品は若干癖があり、慣れるには時間がかかるため、『放浪記』(1962年)、高峰秀子が銀座のマダムを演じた『女が階段を上る時』(1960年)、友人の妻殺しをモチーフにした『女の中にいる他人』(1966年)がオススメです。
ここで成瀬の作風に慣れてから、膨大な他作品に入るとスムーズです。
かつての日本映画が、職人の静かな熱に支えられていたことを感じ取ることができるでしょう。