C:\SHITSURAE\> TYPE SJ173.TXT

SJ173.TXT2025-07-2220KB

天皇以前の古代史:物部氏とナガスネヒコAncient History Before the Emperor

日本の皇室に伝わるとされる『三種の神器』は、『八咫鏡』『草薙剣』『八尺瓊勾玉』から構成される宝物で、神話において皇祖神に位置付けられるアマテラスが孫・ニニギに授けたと伝えられます。この故事から、古来より天皇の神聖性と皇位継承の正統性を示す象徴と見做され、歴史を通じて三種の神器を巡る攻防などが繰り広げられてきました 。初代天皇とされる神武天皇も、皇孫の直系の末裔としてこの神器を継承し、その権威を正当化したと伝えられています。しかし、こうした説話はあくまでも皇室の権威を中心に考えるイデオロギー的な側面があることは事実で、歴史的には異なる神宝を伝える王統が存在した可能性も考慮しなければなりません。

中でも、古代から皇室の正統性に関わる別系統の神宝伝承を有する特定の氏族が存在しました。その筆頭格だったのが、物部氏です。物部氏は日本の古代史における最重要氏族でしたが、仏教伝来と共に朝廷の覇権を巡る抗争で新興氏族・蘇我氏との間に古代最大の戦乱とも言われる「丁未の乱(587)」が勃発し、新たな技術と人の結びつきを束ねた蘇我氏勢力に敗れたことで、歴史の舞台から退きます。一般的に、現在も日本史ではこの時に物部氏は滅亡したと伝えています。しかし、この『滅亡』という言葉がキーワードです。実際、物部氏の系譜が全てこの戦乱によって死去したわけではないのです。

確かに当時朝廷の主力勢力であった物部守屋率いる物部氏本流は、この戦乱で本拠地であった河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市付近)の館において、激しい攻撃を受けて最終的には敗北しています。しかし、物部氏は歴史的に天皇の祭祀を司る職責に限らず、朝廷の軍事を掌握する軍事力にも長けた氏族であり、この時の攻防は非常に激しかったことが伝えられています。物部守屋は『トミノイチ(迹見赤檮)』という人物によって射殺されたのですが、この迹見赤檮が何者であるかについても未だ確たる答えは出ていません。

日本の場合、神名に限らず人名も当時は中国側の影響を受けて日本語の音を漢字にあてることが行われていたのですが、つまりここでも漢字表記された『迹見赤檮』に惑わされず、音の観点から見ていくことによって部分的に姿を開示することができます。まず、『トミ』は迹見・登美・止美などと書き、こちらは「迹見氏」という氏族になったことが『新撰姓氏録』に記録されていますが、この著作は平安時代に入った815年に嵯峨天皇の命令で編纂された古代氏族の名鑑である性格から考えると、200数十年前に物部守屋を討伐した戦功が認められて以降、朝廷に近い氏族へと昇格した可能性があります。

新撰姓氏録によると、迹見氏は毛野氏という部族集団に由来する『皇別氏族』と位置付けられており、これは神武天皇以降に分岐した正統な系統の一種と見られていますが、迹見氏は渡来系氏族という説も根強いのが現実です。また興味深い説としては、この迹見赤檮が元々は物部氏の一族だったのではないかという説です。事実、『トミ』という音自体を遡ると、実はその起源は神武天皇が即位する以前、つまり彼がカムヤマトイワレヒコ(神倭伊波礼比古命)と称して、西の辺境・日向国(現・宮崎)からユートピアを求めて東へ進軍し、ちょうど現在の大阪・奈良の県境に聳える生駒山付近で激しい争いを展開した時代にまで遡ります。この時、カムヤマトイワレヒコが対峙した相手の名を、神話はナガスネヒコ(長脛彦)と伝えています。

当時は今のように大阪の大部分が陸地になっておらず、大部分は大阪湾がかなり内陸にまで広がっていたことから、主に彼らがユートピアと夢見たヤマト(奈良県南部)に入るためには、そのルートとして海路で生駒山付近まで向かう必要がありました。このヤマトの玄関口とも言える要所を守護していた最前線部隊こそ、ナガスネヒコが率いる部族集団だったのです。この名残はナガスネヒコの神話における呼称にも残っています。日本書紀は天皇崇拝の一元的神話空間を樹立する中国を参照した目論みがあったことから、ナガスネヒコは『長髄彦』と記されていますが、そうした一元的な神話空間という性格を持たない古事記では『トミノナガスネヒコ/登美能那賀須泥毗古』『トミヒコ/登美毘古』と記しています。日本の古い神名は極めて解釈することが難解ですが、この場合は『トミ/登美』がナガスネヒコの治めていた領地と考えて問題ありません。

そして興味深いことに、この記録に残る以前の古代の姿を伝える記憶は、場所の地名や信仰として残っています。それが生駒山を奈良側に越えたところにある『トミ』という地域です。現在の漢字表記では『トミオ/富雄』『トミガオカ/登美ヶ丘』となっており、おそらく前者は『トミの英雄部族』、後者は『トミの丘』を意味する名残です。この辺りから生駒山にかけては、この古代神話を伝える場所が数多く残っており、単純で統一的な皇統崇拝に関わる神話・伝承ではない、異なる系譜の神が各地に存在していた事実を伝えています。

何しろ、カムヤマトイワレヒコはこの生駒山越えを行い、ユートピアであるヤマトを掌握しようとしたのですが、ここで立ちはだかったトミのナガスネヒコによって無惨に大敗しており、この戦乱でカムヤマトイワレヒコの兄・イツセ(五瀬命)がナガスネヒコの放った矢で致命傷を受けて、進軍を諦めて一度戦力を大阪湾に戻し、和歌山方面に南下する事態となっています。これは単純に初代・神武天皇は簡単にヤマトを征服したわけではなかった記憶の一端を伝えており、この敗戦によってカムヤマトイワレヒコ勢力は消耗し、和歌山に到着するとイツセは死去します。それほどナガスネヒコなる神が強かったということですが、ここで注意が要されるのは、古代日本の神名は独立して存在した実体的な一つの神・人物ではなく、特定の部族集団を神として表象している性格を有しているということです。つまり、分かりやすくカムヤマトイワレヒコや、ナガスネヒコ、イツセとここでは言っていますが、個人ではありません。これは私が古代史を調査する過程で気付いて以降、徹底していることですが、中々理解することは難しいかもしれません。つまり、カムヤマトイワレヒコの兄・イツセという位置付けも、他部族間の同盟関係、あるいは服属によって肥大化した異なる複合部族集団を示しているということです。

事実、私は長らくナガスネヒコに関心を持って調査もしていたのですが、不思議なことにナガスネヒコの伝承はこのヤマトに限らず、日本の僻地にまで伝播しています。そこで気づいたことは、ナガスネヒコとは日本語の音の観点から見ると『長い脛を持つ男』を表す部族だということです。つまり、九州の日向という僻地に由来するカムヤマトイワレヒコ=神武天皇系の部族から見た時、この生駒山からヤマトへの入り口となるトミに存在した部族が、当時としては高身長で屈強だったことを示唆しており、それがそのまま『トミノナガスネヒコ/登美能那賀須泥毗古』として後に神格化されているということです。

普通に考えると、古代日本人の平均身長は縄文人で『男性: 158cm』『女性: 149cm』、北東アジアにルーツを持つ弥生人で『男性: 163cm』『女性: 151cm』と推定されているため、大体この平均値にカムヤマトイワレヒコ系勢力は属すると考えられます。つまり、この平均値しか知らない部族集団が見た時、かなり高身長に見え、かつ軍事力にも優れていた部族集団が先行的にヤマトの守護を担っていたということです。ナガスネヒコは皇統の外にある埋もれた古代日本史を開示する鍵であることから、このナガスネヒコを信仰する人々は一定数いますが、私はこのナガスネヒコの実像を求めて全国各地を調査する過程で、ある一つの説を耳にします。それがナガスネヒコの身長は2m近くあったという説です。これを確かめるために遠く離れた現地に向かって話を伺いましたが、面白いことにこれは事実であり、実際にその当時の古代遺跡からは2m近くあると推定される人骨が発見されています。

ここまで高身長とは流石に驚きましたが、全てではないにせよ、どうも古代日本には歴史で語られない謎の部族が存在したことは一定の事実のように考えています。ナガスネヒコはその典型ですが、もしかするとカムヤマトイワレヒコなる部族集団が勝てなかったのも無理はないかもしれません。

そしてこのナガスネヒコは既にある神の部族の元に服属していたことを神話は伝えています。その神こそ、物部氏の神として位置付けられる謎多きヤマトのニギハヤヒ(邇芸速日命)なのです。