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没自我と日本の力:偉大なものを探す社会Ego Dissolution and the Source of Japan's Strength: A Society in Search of Something Greater

この記事では、日本の社会が、自らの土壌に根ざした長所を、現在では発揮できなくなり、大きく衰退している事情について述べます。

細かいことを無視して大きく言うと、この列島の社会の力学の底にあるのは「没自我」です(*)。ここで前提としているのは、「個人」ではなく、「社会の場に働く力」についてです。

*「没自我」: This Japanese concept of botsujiga (没自我) is extremely difficult to translate into English. In this article, I have intentionally chosen to use the Buddhist term “ego dissolution” to convey its positive connotation. However, for many readers, it may also be perceived as something closer to “self-effacement” or “self-negation,” or even as a form of “collectivism.”Please keep in mind this inherent ambiguity as you read on—understanding this nuance will help deepen your comprehension of the concept.

では、没自我とは、一体どのような性質なのでしょうか。それは「ある偉大なもの (**)」に対する感激のうちに自我を忘れ、自我を投げ打ち、捧げていくことです。

「ある偉大なもの」: こちらも英訳不可能ですが、ここでは「a revered entity」と設定しておきます。読者に馴染みのある概念で言えば、a higher idealやa sacred purpose、或いはa transcendent causeなどが相当するでしょうが、どれも適しているとは言い難いです。この辺りの難儀さは、随時別の記事で解き明かしていきます。

この力学を根本に持つことの認識が重要です。つまりこの社会には、理想精神や偶像礼拝、「偉大なもの」に憧れて「生き甲斐」を覚えるという性質があるからです。「生きがい」は昨今、西洋でも紹介されています。

このことから、社会の動きとして「ある偉大なもの」に対する犠牲的・奉仕的な態度が完遂されます。より正確に言うならば、それは祭祀的です。

そして日本のどの時代にも、この「ある偉大なもの」が発見、あるいは提示されたとき、日本の社会は最大の長所を発揮して、驚くべき速度で新たな世界を創造し、実現していきます。

この「ある偉大なもの」は、抽象的に思えるでしょうが、実質的に何でも構いません。直近の歴史から事例を挙げると、戦前の天皇崇拝、敗戦直後の民主主義、そして50年代以降の拝金主義など、さまざまに移り変わってきました。

ここで注意が要されるのですが、天皇崇拝は、天皇が提示したものではありません。戦時までの国民は、天皇の姿を見る機会はありませんでした。また、一人のカリスマ指導者によって提示されたのでもありません。一部の国家主義的な傾向を持った人々によって打ち立てられた事実はありますが、最近の記事でも少しずつ触れているように、かなりの歳月をかけて提示されたものです。

第二次世界大戦の敗戦直後から始まった民主主義も、天皇が敗戦を認めた「玉音放送」(1945年8月15日)の直後から崇拝されています。

拝金主義も、数年にわたる敗戦の生活苦が続いていましたが、1950年の朝鮮動乱を契機に一転し、日本が敗戦期を乗り越えて、一気に生活水準を向上する過程で崇拝されます。当時のスローガンは、「(米国に)追いつけ追い越せ」でした。

この号令のもとで全国が一つに団結し、没自我となって、一つの目的に向かって突き進んでいったのです。

このわずかな事例から察せられる通り、この力の発揮は、内から湧き上がるものではなく、外からもたらされたものに対して起きています。そしてこの場合、特定の人物を崇拝するケースはほとんど見られず、むしろ、提唱される思想やスローガンに取り憑いています。

つまり、民族が共有する一つの目的が設定されると、その設定者が誰であれ、それは無関係となり、人々はそこに対して没自我的に生命を捧げるのです。

ここを鑑みると、現代の日本社会の極端な衰退は、次の「ある偉大なもの」を発見できないという、ただ一点の理由に由来するように思います。しかし、もし明日にでも「ある偉大なもの」を発見することができれば、日本の社会は一変するでしょう。