<内省>意味の生成: 絶望なき世界を生きる思索エッセイThe Generation of Meaning: A Meditative Essay on Living in a World Without Despair
ここ数年、世界で同じ気配が広がっています。それは特定の不景気でも、特定の戦争でもありません。もっと根の深い、足場そのものが静かに消えていくような感覚です。むしろ経済状況や地政学の問題は、そうした感覚が世界に広がった結果、一斉に表面化し始めた現象に見えます。つまり、私たちは今、「本当に問題を解決するための手段」を持っていないのです。その状態で現代の複雑な問題に対処しようとするから、余計に問題をややこしくしてしまっているのではないでしょうか。
既に表面化した問題を抑え込む力を失った世界では、根本的な原因や本質を探り、国や民族それぞれの悩みに応じた問題解決に向かわなければならないはずです。ですが、この発想がない。毎朝起きてニュースを目にする度、嫌な気分で一日が始まる繰り返しのように思える人は私に限らず多いでしょうし、人によっては絶望しているかもしれません。しかし、今回私が問いたいことはここにあります。
「それは本当に、絶望なのか?」
「もう私たちにできることはない」というような世界に蔓延する空虚で無力な感覚は、実際には私たちの能力が足りないことによって生まれたものではない。私はこれを二つの枠組みが同時に失効した時代に起きる、必然の感覚だと考えます。つまり、今の状況を生きる私たちにとって、こうした感覚は時代の必然であり、自らの意思によって回避することはできない。ゆえに、その感覚を自ら受け入れて、責任を引き受けた上で行動しなければならないのです。
ここで語る二つの枠組みとは、ひとつは前近代の枠組である「場所・祭祀・共同体」が、人に生きる意味を与えていた世界。もうひとつは近代の枠組みである「労働・進歩・キャリア」が、未来を約束していた世界です。非常に簡略化しましたが、時代性格はここに集約できます。そして、問題はここに潜んでいます。なぜか?
この二つの枠組みが、いま同時に崩れたからです。
特に近代の行き詰まりに到達した国に生まれ育った人々は、誰もがこの問題に直面しています。この問題は、本当は特定の国と人々に限定的に起きていることですが、あたかも世界規模、あるいは人類規模で同時多発的に発生しているように人々は錯覚しています。ここは慎重な注意深さが要求されます。なぜなら、二つの枠組みのいずれかを保持できている国や人々の場合、実は多くの人々が「誰もが同じ」と考えたがるこの空虚や無力を、同じように感じていないからです。つまり、共有していない。この弁別を自覚することが重要です。「世界はひとつではない」ことを理解することから、本当の問いは始まるからです。
要素を並べると、場所・祭祀・共同体、労働・進歩・キャリアです。この中のいずれか一つでも強く保持する生活を営む人であれば、実は現代最大の問題と呼べる絶望には陥りません。なぜなら、本質的な問題は「二つの枠組みが、いま同時に崩れた」ことですが、これらを保持できている人々にとっては、この問題は無効だからです。特にこの無効は、前近代の性格を保持する強度に比例します。つまり、彼らは寄りかかるところがある。一方で、多くの人々は今、この寄りかかるところを完全に失ったのです。
前近代の枠組みは、近代化が容赦無く破壊し、蹂躙してきました。私は日本で生まれ育ち、日本の研究を行ってきた経緯があるため、この近代化の破壊に関しては、おそらくどの国の人よりも理解しています。それほど近代化は、「場所・祭祀・共同体」を全て破壊したからです。その代替として、「労働・進歩・キャリア」を近代の枠組みは設計しましたが、この到達点が、皮肉なことに「労働・進歩・キャリア」を担ってきた労働者の一括代替に帰結しました。AIや無人化については、昨年まで多くの人々が嘲笑する余裕をまだ持っていましたが、もはや過去の話。つまり、近代の極地は人間が社会生活を行うことの無効であり、社会というフレームにおいて、人間を無用にすることだったのです。
ここで多くの人が不安や焦り、あるいは苛立ちや怒りから、この問題を安易な方向に転倒させてしまいます。確かにAIや無人化、あるいはアルゴリズムは問題なのでしょうが、本当の問題は、二つの枠組みが崩れ去った今もなお、多くの人々が「社会」を前提に人生を設計していることです。誰も語りませんが、本当の問題はここにあります。
近代以降、「場所・祭祀・共同体」を破壊してしまったため、中々私たちにはイメージできませんが、社会は前近代には存在しなかったものであり、近代に生まれた新しい統治の空間です。近代の枠組みである「労働・進歩・キャリア」は、社会でしか生存できない諸要素であり、実は社会には前近代の枠組みである「場所・祭祀・共同体」は存在しません。ここが、要点です。もしもあなたがこの弁別を混同していると感じるならば、それがあなたが社会化されている強度を表しています。現代のテクノロジーは、「社会の枠組み」を占有し始めているのであって、場所・祭祀・共同体までを占有する力はありません。
ここで私は、前近代に戻ろうなどという、古びたことを語りたいのではない。日本でも都会生活に疲弊した人々が、田舎生活を送るトレンドが2011年東日本大震災以降に進みましたが、私が考えたいのはそこではない。それを思考し続けるためにも、一体、私たちが何を失い、本当に大切なものは何であり、どうすれば二つの枠組みが崩れ去った今、その中から次の萌芽を見つけて育むことができるかを考えたい。より明確に言えば、私たちが失ったものの中で、「最も大切なものは何だったのか?」という問いです。この一点を徹底的に考え続けることが重要です。
その一歩として、先に改める必要があることは、私たちは絶望などしていないということ。絶望を装っているだけであって、二つの枠組みが崩れ去った世界に生きる人々には、本当の意味での絶望という余地さえないのです。
この意味を考えたい理由は、ここで多くの人が見誤るからです。実は、私たちはこの二つの枠組みから「脱落」して苦しんでいるのではない。なぜなら、本来であれば、脱落した先にはまだ別の枠組みが残っているはずだからです。二十世紀を振り返っても、脱落の先には必ず別の枠組みを形成する「余白」が世界に多数残っていたことは、誰もが同意できるはずです。この脱落先の余白が世界から消えたのは、もしかするとこの十年程度の話かもしれません。人間はどうしても、自分たちが今苦しい状況が続くと、あたかもその状況がずっと前から続いていたかのように錯覚してしまいますが、実際にはそうではない。この観点から私は、本当の問題は脱落することにあるのではなく、脱落先に別の枠組みを作る余白が世界から消えてしまったことにあると提起します。
つまり、脱落自体は問題ではない。しかし、それが近代の枠組みである「社会」(労働・進歩・キャリア)となると話が異なります。なぜなら、社会からの脱落は第二次世界大戦後は可能でしたが、今では不可能だからです。それほど社会が世界の余白を埋め尽くしてしまったからです。そして、本当の問題はここにあります。世界の余白を埋め尽くしたのは、社会です。改めて考えてみてほしいのは、なぜ、「ソーシャル」メディアと呼ぶのかです。
脱落という問題は多様に考えることができ、今こそ様々な視点で多くの人々が考えるべきものです。今回は一例を挙げますが、私がその典型例として考えてきたのは日本のヤクザです。現在、ヤクザは半世紀近くかけて行われた消滅作戦により、構成員数が激減し、ほとんどの組織は事実上、壊滅しました。そして彼らは「社会」に属することを許されず、銀行口座も作れない、ローンも組めないなど、すべての社会活動から除去されています。
私は元々、言葉の微妙な使用の変化が、時代を反映していると読む癖があります。例えば日本では、ある時期から「ヤクザ」と呼ばなくなり、「反社会勢力」と呼ぶようになりました。今ではメディアはヤクザという用語自体を使わず、必ず反社会勢力と呼びます。ここで疑問となるのは、「反社会」とは何かです。もちろん、メディアの人々がこうした問いを持つことはなく、好き勝手に拡散し、その影響や効果を彼らが反省することはありません。ですが、「反社会」という用語自体に、日本の余白が社会によって埋められていった歴史が表れています。
一体、「反社会という世界」には、何が圧縮されているのか?
それを考えることが、「社会ではない世界」を考えるために必要です。
まず、ヤクザは撲滅すべき存在ではない。一方的に悪だと決めつけることは、本来の日本になかった二元論の方法であり、こちらも近代化がもたらした「見えない破壊」です。事実、第二次世界大戦に敗戦し、日本各地が焦土となった時、占領軍と外国人ギャングが組織的に展開した無数のレイプ、恐喝、強奪、殺人などから市民を守ったのは、その場所に生きたヤクザでした。ここではヤクザを美化したいのではなく、彼らの存在自体に、本記事で問うている問題が現れているということを掴みたいのです。なぜなら、それが未来への萌芽の予感を秘めているからです。
なぜ、ヤクザを見ることが重要なのか?
それは戦後初期のヤクザは、焦土から復興に加速する日本各地で、前近代の枠組みである「場所・祭祀・共同体」を強く保持する重要な存在として登場し、彼らの存在が近代の枠組みである社会の発生を抑止する力として働いたからです。
なぜ、ヤクザはそのようなことができたのかという問いへの答えは明白です。一言で言えば、彼らが場所に生きていたからです。戦後初期のヤクザは場所に生きていたのであって、彼らは社会に生きてはいなかった。ここをしっかりと掴むことは、私たちが次の未来を描くためのヒントになります。例えば、ヤクザの場所は縄張りとして翻訳できますが、各地に無数の組織が存在しました。戦後初期では、まだヤクザは近代的な組織化に至っていないため、明確に彼らは共同体でした。つまり、無数の共同体が場所ごとに点在する状態だったのです。この場所の共同体という分散された存在が、実は社会の形成を抑止する作用となって効果的に働いていました。ちなみにこの時、反社会という言葉は使われていません。
実際、戦後初期の占領軍、外国人ギャングの横暴に対して、「社会を守る」ために組織された警察は無力を極めており、何もできませんでした。ゆえに、「警察(社会組織)」が自ら「ヤクザ(場所共同体)」に援助を要請し、「市民(場所に生きる人々)」を守る時代が始まったのです。これは同時に、当時の市民が「社会に生きる人々」ではなかったことを示しています。つまり、戦後初期の時点で日本には社会などなかったのです。ここは、あたかも社会が昔からあったかのように勘違いされていますが、そのように勘違いさせているのが社会の作用です。社会は自らを普遍として演じますが、日本には社会などなかった。この事実の徹底が、近代の枠組み以降を思案する前提条件です。
現在、世界最大のヤクザ組織として知られる山口組でさえ、始まったのは戦後初期の1946年に、兵庫県神戸市兵庫区の西出町から新開地周辺という小さな場所で、共同体を引き受けた田岡一雄が、たった33人で始めたルーツがあります。この時代は組織ではなく共同体ですが、この場所共同体の存在は、すべてが焼けてしまって家族を殺され、仕事を失った人々や、戦場から引き上げてきて身寄りのない人々が、脱落して生きるための「別の枠組み」として機能したのです。
そしてヤクザは戦後に始まったわけではなく、かなり古い起源を持っており、統制の観点では文化的に成熟していました。ヤクザ共同体に属するためには、「盃」という厳格な祭祀の通過儀礼が行われ、その祭祀が彼らを共同体に紐帯する力となります。以降、彼らは好き勝手に暴れ回ることは許されず、極めて強い紐帯のもとで統制が取られます。そして彼らは常に縄張りという場所に生き、その場所の問題を解決し、その場所の人々を守り、他のヤクザ共同体が自らの場所を侵せば反撃しました。場所において、共同体のヤクザと人々は共生していたのです。理由は、市民が社会に生きる以前だったからです。
この時代を見れば明白ですが、既存の枠組みが崩れ去った時代に、社会でしか存在意義を持たない警察は完全に無力です。事実、戦後初期の日本各地で治安維持を担い、市民を守ったのはヤクザであり、警察でも政治家でもなかった。もちろん、その後はヤクザも近代化が必要だという自覚が芽生え、肥大化する過程で社会化していきました。実際、ヤクザは1950年代中期から1960年代にかけて、近代組織への転換を自ら主張していました。これは自らを社会化、つまり近代の枠組みに隷属するための主張です。
この社会化過程の背後には、社会の肥大に伴う警察権力の増大が関与しており、ヤクザは生き残るために統廃合を繰り返しながら、あらゆる社会的なビジネスに手を染めていき、やがてかつての前近代の枠組みを失いました。ここがヤクザが敗北した理由です。ヤクザが悪だから敗北したのではなく、彼らが自らの根差す存在意義を自ら放棄し、社会に隷属したから敗北したのです。彼らの存在意義は、近代の枠組みが前近代の枠組みを容赦無く蹂躙する過程に対する反抗にあったのですが、自らその存在意義を放棄し、社会化する道を選びました。これは敗戦から今日までの80年程度かけて起きました。
そして今、この前近代の枠組みを失い、反社会という奇妙なレッテルを貼られたヤクザの末路が、現代の複雑な問題を象徴しています。彼らは時間をかけて組織、あるいは会社化していったことにより、近代の枠組みによって自らの共同体を破壊されてしまい、その影響として共同体の紐帯を失い、かつての統制力を失いました。その結果、2010年代頃からヤクザではないが、ヤクザのように振る舞う人々が都市部で台頭し、市民とヤクザの中間のような存在が次々と現れて、犯罪をグレーゾーンで行いながら、勢力を拡大させました。
この延長に位置するのが、現在の匿名・流動的な国際的犯罪集団です。日本国内では「トクリュウ」と呼ばれますが、彼らは昨今問題になっているアジア諸国に詐欺拠点を持つscamで中国マフィアと結託し、日本市場をターゲットにした組織犯罪に関わるまで落ちぶれたヤクザです。最近だけでも、scamをベースとする強盗事件が日本国内で毎日のように多発しており、今月栃木県で起きた強盗殺人事件では、実行犯の4人が全員16歳の少年という衝撃的な事件が起きています。
仮に、場所共同体であったヤクザが存在していれば、このような事件に対する抑止力になりました。しかし、場所共同体のヤクザが自らを社会化(近代の枠組みに隷属)した結果、この抑止力が失われてしまい、むしろ自分たちが守るべき場所の人々を、金儲けのために利用する状態に陥ったのです。これは同時に、市民が場所を喪失し、社会化したことを意味しています。つまり、問題はヤクザにあるのではなく、社会化にあるということです。この論点を誤ると、綺麗事の机上の空論に陥ります。
初期の山口組では、田岡組長のもとで麻薬撲滅、麻薬売買禁止令が組員に強く敷かれたように、人格者でもあった当時のヤクザの親分は、こうした犯罪行為に組員が手を染めることを許容しませんでした。同時に、日本国内では現在、外国人移民による犯罪が多発しています。こちらも場所共同体としてのヤクザを失った代償です。こうした犯罪は、既に特定の社会の範疇を超えているため、当然、警察は無力です。この警察の無力こそ、まさにヤクザが場所共同体だった事実を表しています。現在、警察の無力に苛立ちを抱えた人々の間では、徐々に自警団の要求が高まっていますが、これは社会化された警察にはできない汚れ仕事を、自警団に引き受けさせるためです。
つまり、司令塔が日本国外を転々としている顔の見えないトクリュウと、日本社会に入れなかった移民による犯罪は、社会内でしか効果を有たない警察の無力を見事に暴きました。これらを抑止する力が警察にあると今も勘違いされていますが、ここはヤクザが本来持っていたものです。社会と場所を混同すると、ここが見えてきません。
ここでは、ヤクザを例に前近代と近代の枠組みを「脱落」という観点で簡単に示しましたが、あらゆる例を用いてここは実証することができます。このことが意味しているのは、かつての人々は、信仰を失うときや共同体から弾き出されるときであっても、その人はなお「失われた意味」を惜しむことができたということに尽きます。なぜなら、「惜しむべき意味」がまだそこに記憶として存在していたからです。ここが非常に重要です。つまり、脱落できる余白のあった世界は幸せだったのですが、これが今、完全になくなったのです。なぜなら、私たちが直面している本当の問題は、脱落すること自体にあるのではなく、脱落する先の枠組みそのものが存在しないことだからです。言い換えれば、すべてが社会化されてしまい、世界から余白が消え去った。この場合、余白とは場所・祭祀・共同体だということが見えてきます。
別の例で言えば、欧州がムスリム移民をなぜ問題視するか、より明確に脅威と見做すかと言えば、それは彼らが宗教をベースに場所・祭祀・共同体という前近代を極めて強く保持しながら、同時に欧州側が用意した近代の枠組みを利用し、そこで生きることができるからです。つまり、ムスリム移民は自分たちの前近代を近代によって破壊されずに、欧州側が犠牲を払って形成した近代に便乗し、自らの前近代は保持するということをやっている。ここが、人々に言語化されていないが、得体のしれない脅威や不安、あるいは怒りとなって表れているのです。
同じように、なぜ西洋がロシアやイランを悪魔と見なすかと言えば、彼らが場所・祭祀・共同体という前近代を極めて強く保持しながら、同時に、自分たちの力で形成した近代の枠組みを生きることができるからです。ロシアやイランのように、二つの枠組みを両立して生きる姿は、実は西洋にはない。ここが、西洋に得体の知れない不安や恐怖となり、無意味なまでに敵視する動因となっています。日本側から見れば、ロシアもイランも何の脅威でもない。ですが、西洋は彼らを脅威と見做し、常に怯えている。この根源には、自分たちができなかった世界の実現を、彼らが現実にやっている事実があるからです。
つまり、欧州は近代の枠組みに一辺倒となり、自分たちの前近代の枠組みを既に失ってしまったため、移民を含めた外部の人々が前近代の枠組みを持って入り込んでしまうと、抗う術を持っていません。ここが移民問題の本質であり、特にフランスとドイツで顕著です。おそらく、今の欧州と日本で相互に自国民を移民として大量に流し合っても、こうした問題は起きません。なぜなら、皮肉なことに両者はともに、二つの枠組みを失った共通項があるからです。
欧州、英国、米国、日本に限定すれば、冒頭で述べたように、前近代と近代の二つの枠組みが、今、崩れました。この二つの枠組みの崩壊は、近代を徹底してしまったこれら国々に特有の現象であり、その他の国々には程度の差はありますが、同じレベルの深刻な被害をもたらしません。だから、そうした影響を自分たちと同じように被っていない国や人々に対する不安を抱え、勝手に脅威だと妄信するようになるのです。ただし欧州とは言っても、この崩壊の影響を最も受けているのはフランスとドイツであり、一方でスペイン、特にバルセロナを擁するカタルーニャ州などは、この影響が他地域ほど深刻にはなりません。なぜなら、彼らは場所・祭祀・共同体という前近代を極めて強く保持しながら、今も近代に対抗し続けているからです。だから唯一スペインは、今もあらゆる国際問題の過ちに対して、屈することなく先頭で声をあげる力を持っています。私は西洋世界に限定して見る場合、スペインが未来のヒントを示していると思っており、スペインから学んだ方が良いと思います。
ここを踏まえれば見えてきますが、私たちは意味から疎外されているのではなく、意味が成立しうる地平そのものが消えているのです。だから私たちの多くは、惜しむべき意味の記憶さえ持てずに苦しんでいます。つまり、これは絶望ではなく、もっと悲惨な事態です。なぜなら、絶望は失われたものを惜しむ感情ですが、ここでは惜しむ対象すら持てないからです。こうして行き場のない不安と怒りを抱えた人々は、大衆形成の原理の餌食となり、徐々に、着実に過激化していきます。
これは人類が一度も通ったことのない世界であり、近代の行き詰まりに行き当たった一部の国々と人々において、最も深刻に直面している問題です。「生きる意味」を失ったというよりも、本当の問題は、意味が成立する地平自体が消えているということです。ここに近代特有の問題が潜みます。なぜなら、個人の主体が意味を作り出すという信念は、近代の枠組みでしか通用しない、特異な限定性を抱えたものだからです。なぜなら「意味」というものは、個人の主体が作り出すものではないからです。意味は場所において、人と人、あるいは人と物、物と物の関係から生成するのであって、その生成する場所がなければなりません。この点は、哲学者・西田幾多郎が徹底的に主張した論点ですが、今、極めて重要なヒントとして私たちに浮上しています。そこで、自分なりに西田を踏まえて進めます。
まず、場所とは近代の枠組みでは勘違いされていますが、地理に基づいたものではありません。場所と言うと、東京や京都などと思われるでしょうが、そうではなく、西田の言うように、「関係が生成される場所」ということです。つまり、その場所は地理に限定性を持っておらず、ある意味ではノマドです。関係が生成されるために必要となるのが場所ですから、この観点を思考に適用すれば、あらゆる場所を生成する可能性が開けてきます。ここが、私が最も主張したいことです。ここまで私は、前近代の枠組みとして場所を語ってきたため、どうしても地理と結びつけてしまうでしょうが、実は場所とは地理に規制されていません。つまり、ここに未来の萌芽がある。同じように、前近代の場所・祭祀・共同体は、この観点で新たな解釈が可能です。
ただし、この解釈を近代の枠組みで行わないことが原則です。実は人々が行き詰まり、終わりない苦しみを感じている原因は、まさにこの近代の枠組みを、未だ無自覚に持ち続けていることにあります。つまり、真っ先にやらなければならないことは、自らが無自覚に実装している近代の枠組みの自覚です。それは除去することはできずとも、最低限、自覚しなければならないものです。そうしなければ、先に進むことはできないし、何も始まらない。
特に現代は、近代の枠組みがAIと無人化によって、完全に代替されることはほぼ確実です。抗うよりも、むしろこの近代の枠組み自体を積極的に委譲した方が良い。なぜなら、欧州、米国、英国、日本が明確に証明したように、近代の枠組みは人々を幸せにすることはないからです。ここが、私の論点です。システムの優劣を問いたいのではなく、人々が幸せになったのかという点が本当の問題です。例えば、今も米国首脳部は「安全」をスローガンに軍事費を増加させ続けていますが、彼らが語る「安全」によって、米国の人々は幸せになったのでしょうか?もし、その結果として米国の人々が幸せになったなら、何も問題はない。だが、事実は反対になっている。ここに、本当に問うべき問題が潜んでいます。そして彼らが言う「安全」とは、いつ完成されるのでしょうか?
ここが私の基本的な考え方です。その理由は、近代の枠組みを委譲したとしても、それは人々が語るように恐怖ではなく、単なる社会の枠組みでしかないことを理解しているからです。おそらく大勢の人々が勘違いしているのはこの点です。社会の枠組みでしかないにも関わらず、あたかもそれが人生それ自体の全てに影響を及ぼすように錯覚している。悪い場合は、生命を脅かすとさえ錯誤している。この感覚こそ、既にその人々がアルゴリズム化されている証拠です。だからこそ、私は近代の枠組みなど委譲してしまい、場所を生成するために人間は労力を注ぐべきだと提唱したい。ただ現実的には、私たちの意思とは無縁に加速するテクノロジーによる近代の枠組みの委譲により、人々が極限の不安に陥った時、はじめて「場所を生成するための活力」が湧いてくるというパターンになるでしょう。いや、その大切さに気づくと言った方が正確かもしれない。そこまで行かなければ、おそらく人々は変わりません。
その時、前近代に戻ろうとするのではなく、前近代の枠組みを見直しながら、確かな感覚として自らに取り込む設計を日常に行うこと。日本では「肌触り」という言葉を用いますが、この感覚の有無が今後、人々の将来を分けるように思います。場所・祭祀・共同体は、かつての意味である必要はない。むしろ前近代の定住民を見てしまうと、必ず転落します。なぜなら、私たちを含めた読者が生きる世界では、既に前近代を殺したからです。一方、私たちは前近代と近代の二つの枠組みを知っている唯一と言える存在です。確かに今、この二つの枠組みは私たちから崩れ去りましたが、その感覚は僅かながらも記憶として心身に残っています。ここを掴み取るために内省に励み、そして関係を生成するために行動する。
ノマドの本質は関係の生成にあり、自由を演じることではない。その関係の生成が起きる場所においては、必然的に意味が生成されます。その瞬間、私たちは「生きる意味」という現代ではあまりに無力な問いへの向き合い方において、実は枠組みが間違っていただけということに気づくでしょう。近代の枠組みの中で考える「生きる意味」は、必ず社会の条件である労働・進歩・キャリアに影響されます。ここが代替されて無効になった今、同じ枠組みの中で意味を問うこと自体が根本的に間違っている。そうではなく、前近代の枠組みを参照しながら、同時に自分自身の中にある「肌触り」を掘り起こして、次の萌芽を探るための内省の時代が始まったということです。「肌触り」は、必ず一人ひとりの記憶の中にあります。
それを掘り起こすことは、未来の萌芽を探究することであり、少しでも世界を良くしたいと願う人々にとっての責任です。そのために移動して人に会い、話を伺い、できれば師匠を見つけて共に精神を探究し、その場所の歴史を探究して文化に触れる。この蓄積が関係を生成するのであって、頭で考えても何も実現しない。
かつて人は、意味を問う前に生きていたからです。
私は日本の研究で各地を巡っていて悟りましたが、先祖にとって意味は問うものではなく、日常の生という営みの中に空気のように埋め込まれていて、自明なものだったのです。つまり、彼らは問う必要などなかった。朝が来れば畑に出て、季節が巡れば祭りを支度し、人が生まれれば祝い、亡くなれば送る。その一つひとつに、なぜそうするのかという問いは差し挟まれませんでした。生きることと、生きる意味とが分かれていなかったからです。
近代を徹底してしまった私たちに、これを取り戻すことはできません。ですが、それは限界に至らなければ見えない次の地平の萌芽でもあるため、この問題と徹底的に向き合うことは必要です。なぜなら、それが未来に対する現代を生きる私たちの責任だからです。私が提案したいことは、答えのない世界を問い続けることです。
その鍵は、内的世界にあります。現在、地球を社会で埋め尽くした挙句、宇宙進出を宣言する人々ばかりですが、結局、社会化されている彼らが宇宙進出を実現したところで、地球で余白を失った社会の肥大化を、宇宙に押し付ける以外の何の成果も効果もありません。つまり、明確な意味での侵略です。宇宙進出は人類の希望でも夢でもなく、単なる社会の肥大化を宇宙にまで押し付けようとする傲慢で、利己的な暴力です。そして外的世界の探索は、実は人間にとって重要なことではない。地球自体を考えることもできない種族が、一体何をしに外的世界の宇宙に進出するのか。それこそ植民地主義の延命でしょう。
私たちに残された唯一かつ最後の秘境は、外的世界ではなく、内的世界以外に存在しません。ここが脱落先を失った今、私たちに残された最後の脱落先であり、しかもこの内的世界は近代の枠組みにまだ破壊されていません。もちろん、生理現象次元では近代の枠組みが既に脳などをハッキングし始めていますが、真の内的世界はそうした次元にはありません。脳は「ソーシャル」メディアなどで人々の社会次元をハッキングできても、場所をハッキングすることはできないからです。身体的な体感の回帰として、フィルム写真、アナログレコード、編み物などが復古している根源的な理由は、それらが社会以前の「肌触り」を持っているからです。単なるトレンドではない。
つまり、今のうちに内的世界に到達するために修行をしておけば、いざ、近代の枠組みが進出してきても、影響を被らない。ここが人類に残された最後の自由であり、霊的な場所・祭祀・共同体を無限に生成できる唯一の世界です。そしてここが、未来です。なぜなら、そこで生じる関係は、無限であり、今の私たちにはまだ想像できない世界だからです。
答えのない世界で、問い続けること。
ここが、その内的世界へ潜っていくためのパスポートになるでしょう。