C:\SHITSURAE\> TYPE SJ197.TXT

SJ197.TXT2025-08-2216KB

古代の海の民の足跡Footprints of Ancient Maritime Tribes

午前中は、1830-1843年の江戸時代末期に宇治茶を販売していた時代から、激動の開国を経ていち早くコーヒー豆を輸入し、日本最古のコーヒー店を開いた歴史ある放香堂でコーヒーを飲み(後に復刻した店)、そこから旧居留地と呼ばれる明治期の神戸外国人区域を歩き、かつての面影を感じる時間を過ごしていました。しかしコーヒーを飲んでいると、昨日も弥生時代を象徴する銅鐸に関する調査を行っていたのですが、やはり縄文・弥生・古墳時代という日本古代史の三層、すなわち現代日本人の主要な祖先の層であるこれらを理解する上で、古代の海を行き来した人々の存在を見逃すことはできないと強く感じてきました。そこで現在進めている複数の調査の一環として、この海を行き来した人々の動きを理解するため、交通手段を船に変え、旅程を大幅変更しました。

現代では、高度経済成長以降のある意味で極端な大発展によって、大半の場所であれば新幹線、飛行機、高速道路を利用して高速で移動でき、かつて孤立していた島々の多くにも橋が架かったことで車での移動も可能となりました。実際に思い返すと、これまで7年の私の調査旅のほぼ全ては車移動でした。しかし、古代の人々の動きを追うという私の調査の観点からすると、どうもそれでは適していないように思えてきたのです。そこで調べてみると、神戸港から小豆島を経由して四国の高松までフェリーが運行していることがわかり、早速予定を変更し、そちらに乗り換えることにしました。

神戸から高松の航路は、かなり大型のフェリーで、およそ5時間近くの航路となります。この航路の素晴らしい点は、神戸港から大阪湾に出た後、淡路島と明石を結ぶ明石海峡を通って播磨灘へと進み、右手に旧・播磨国、左手に淡路島、そして遥か彼方に四国や岡山を望みながら瀬戸内海に入る旅ができることです。これにより、古代の人々の動き、さらには海の変化が非常によく理解できます。実際、潮の流れや変化などが随所にあり、かつて人々が海を移動する際に、どのようなルートを取ったのかを考えさせられます。

なぜなら、九州方面から瀬戸内を経由して複数の強い王たちが点在する大和に入るかつてのメインルートでは、必ず播磨灘を抜ける必要があり、その際には複雑な潮流の知識も考慮せねばならなかったからです。また、当時は現在のように沿岸部が大規模に開発されていなかったため、今の海から見える街並みを頭から消し去り、景色を古代に引き戻す想像力を働かせる必要があります。すると驚くべきことに、海から見ると、四方八方が山であることに気づきます。広く開けた大海の中にあっても、船から視野を巡らすと低い山から高い山まで連なり、さらに離島が無数に点在するという独特の環境が日本列島では広がっているのです。これこそが日本列島の最大の特徴であり、航海技術が人々の移動や文化の形成を左右した要因のひとつであったことは間違いありません。しかし、私たち島国の人々は、海外にでも出ない限り、この島国という性格を忘れてしまいます。

今回の航路で考えていたことは、一体、彼らはどのようにして理想の地を見つけたのかということです。私は5時間の航海の間、ずっと外の景色を眺めて変化を観察し、何度も古い地図を見返しながら考えていましたが、容易に理解できるものではありません。なぜ古代の人々は海を越えてある場所に到達し、そこに定住を始めたのか。その背景には何かしら彼らが共有していた指標があったはずですし、ルーツの異なる集団ごとに異なっていたかもしれません。また当時は現在よりも海面が高かったため、山が海から直接立ち上がるような壮大な風景が至るところに広がっていたと考えられます。

この独特の地形がもたらす感嘆は、古来より通底しているように感じます。実際、最古の日本を記述した中国側の歴史書『魏志倭人伝』の作者・陳寿は現在の四川省東部あたりの出身ですから、生涯で海を見たのはおそらくこの時が初めてだった可能性もあります。そのため日本に渡来した時の景観が故郷とは全く異なることに驚嘆し、その差異が記述にも強く反映されているとも言えます。また、四国の讃岐や播磨・備前・摂津といった古い沿岸地域では、海を活用した人の往来が想像以上に激しかったことが推測されます。事実、『古事記』や『日本書紀』に描かれるように、日向の国から東のユートピアを目指して神武東征が行われ、何世代、何十世代もの時を経て大和に到達し、最終的に天皇として権力を握りましたが、彼らも同じ海路を活用しています。

どうしても利便性の高い現代社会に生きていると、日本が島国であることを忘れてしまいそうになりますが、改めて海に出ることで私たち日本のルーツを再確認し、古代日本史の謎に迫ることができるように思います。今日も快晴で、海に照らされる眩い太陽光を見ていると、古代の祖先たちも同じ光に魅了されたのだろうかと想像します。同時に、広大な海の真ん中で四方を山に囲まれた日本の景色を見ると、まるで異界に迷い込んだように感じ、『魏志倭人伝』の調査を行った使者の気持ちがよく分かります。

神話から伝承に無数に登場する異界・冥界・黄泉の国などの神話の観念も、海から日本を眺めていると良く理解できることが今回の大きな収穫です。

さらに興味深いのは、民族学の研究から、古代日本の海洋民と山人は実は分離していなかったのではないかという説があり、私も強い関心を持っています。海を縄張りとする民と山を縄張りとする民という分離された区分は後世の解釈にすぎず、もとは海を拠点とした人々が山でも生活していた可能性があり、それらは循環していた可能性があります。その証拠に、山の民が丸木舟を作り、それを海の民に渡すという習慣が戦前まで残っていました。そして山を切り開いた木材を舟へと変え、海の民のもとで祭祀を経由して、山の神を離して海の神を舟に憑依するという古代習俗がありました。これらは、かなり古い時代の面影を伝えています。

また、山の民には「山の言葉」、海の民には「沖の言葉」と呼ばれる独自の言葉が存在していたとされており、里で使う言葉を山や海で用いることは神の領域を穢す不浄な行為として何千年も禁忌されてきました。これは古来、日本人が山や海(沖)を神聖な場所、神の御座所とみなしていたことを示唆しています。こうした観点から、神事や祭祀の多くが海・山を混淆しながら独自の風土・環境の中で成立していったのだと考えられます。

しかしさらに古い時代を遡れば、山も海も人々の生活圏であったはずです。なぜ、ある時点から山と海が神聖視され、人の出入り、言葉や習俗までが規制されるようになったのか。その謎を解き明かすことで、古代日本の古層と精神世界の一端が見えてくるのかもしれません。