述語制言語の思想:流れの中の自己Thought in Predicate Languages
日本語という言語は、「私」という自己を明確に打ち出さない傾向があると頻繁に考えられています。この要因は日本語には主語がないからだと言われていますが、会話では誰が「私」で誰が「あなた」なのかを文脈において自然と理解する日本語は、主語がないというネガティブな前提ではなく、その言語構造自体に注視しなければなりません。例えば簡単な例を出すと、子供のいる女性教師は家庭では「お母さん」、学校では「先生」、友人同士では「あなた」など、その場所に応じて他者から呼ばれ方が多様に変わるという具合です。
英語なら “you” の一語で済むところが、日本語では場所の状況に応じて呼称が変幻自在に移り変わります。このように外国人が日本語を学ぶと、日本語の会話では、相手との関係性(特に場所)に応じて、時々刻々と新しい「私」が立ち現れてくるかのように感じられるかもしれません 。自己も他者も日本では場所の関係性の中で姿を現す可変的な存在であり、出会いに先立って確立した不変の「私」など存在しない――言い換えれば、日本語における自己とは流動性そのものだと言えます。これはつまり、日本に自己はないということです。
個人的には、これを簡略的に英語圏で説明する際には『流れの中に存在する』と主語的な観点から説明していますが、主語・主体・自己・自我がない日本文化圏の精神の中では、この『存在』すらないと考えています。これは固定された存在などない、流れの中に存在する流動的な自己と言い得るでしょうが、ここで言うところの『自己』は西洋的な意味、つまり主語制言語圏で理解される意味での自己とは全く異なるということです。ここに関与しているのが前述の言語構造ですが、どうしても英語で説明する際には主語が必要となるため、日本思想が伝わらない傾向があることは事実です。
例えば西洋でも人気のある小説家の村上春樹を例に出すと、日本語原文と英語翻訳文では全く異なる作品になっています。これは事実上、日本語は村上春樹の作品ですが、英語は日本文学翻訳家で村上作品の多くを手掛けたジェイ・ルービンの作品だと言っても過言ではないということです。それほど世界観が異なります。翻訳とは単に辞書を用いた質ではない、言語構造の違い、すなわち思考方法の違いまでを包摂した知的作業であることから、翻訳時には元の思想の多くが失われる運命にあり、全く異なる印象を与えることを避けられません。
さらに仏教思想を見ると、徹底して『固定されない私』を説いてきたことが分かります。例えば、仏陀が悟ったとされる核心の一つが『縁起』の真理です。縁起とは、この世界の一切の物事は互いに依存し合う『因縁』によって生じ、独立不変の実体としての『我』は存在しないという考え方です 。ただし、こちらも傾向としては主語を前提した考え方であるため、純粋な日本思想の観点から見るとかなり不満足となります。
そこに対して違和感を抱き、強烈な内的格闘によって仏教を日本化してきたのが日本仏教の歴史です。これは何度かShitsuraeでも伝えたように、主に朝廷の覇権闘争として現れましたが、それ以上に精神性の側面が問題になるということです。単に外来宗教である仏教を受容するのではなく、徹底的に日本化して同化し、そこから外来性を巧みに受容しながら独自信仰へとミックスする辺りにも、日本人の気質が一貫して現れることが多々あります。そのため、仏教に親和性のあった古代の氏族に対して、土地に根ざした信仰を守ろうとする人々は抵抗を示してきたのです。この抵抗が反動的に神道を宗教的体系にまで押し上げる直接的な動因となりました(こちらは平安時代以降です)。
他にも、古い仏典には『諸行無常』や『諸法無我』という重要な教えがあります。すなわち、あらゆる現象は常に移ろい、どこにも不変の自己(我)はないという意味ですが、これは自分だと思っている心や身体でさえ、瞬間ごとに変化し続ける要素の集合に過ぎないという捉え方です。この永遠に同一性を保つ「私」はないという無常観は、決して虚無や喪失の感情ではなく、むしろ世界を大きな流れとして捉える洞察として現在では世界的に浸透しています。
この同一性に対する仏教哲学を、日本化して見事に昇華したのが哲学者の西田幾多郎でした。西田は『絶対矛盾的自己同一』という新たな概念を提唱し、世界を「多」と「一」の絶対的に矛盾する二つの要素で構成されていると捉え、これまで言語化の困難だった境地を突破して深い日本思想に到達します。「多」と「一」は互いに矛盾しつつも同一であり、その矛盾が自己同一的に映り合うことで世界が成立し、動いていると捉えた点に西田の優れた思索があります。
西田は時間の流れにも、この「矛盾」が深くかかわっていると捉え、これを『非連続の連続』と表現しています。時間の流れは、非連続の個々の「モナド」が相互に矛盾しつつ、同一であるというあり方で関係し合うことで連続的に進行すると考えたのですが、西田は『主観と客観』、『自己と他者』、『個と全体』などを分離して認識する明治以降盛んになった日本の西洋主義的傾向に反発し、真の実在においては、これらの対立項は矛盾的に同一化されていると喝破しています。
万物流転の流れに身を置く存在であり、その連関のダイナミズムこそが「私」の実相だと仏教は教えますが、西田は『矛盾』という根本的要素が仏教哲学には抜け落ちていると指摘し、『絶対矛盾的自己同一』の哲学に至ったということです。簡潔に言えば、日本人は仏教哲学を受容したとは言い難く、どうも哲学などを要さない実際生活の次元において、実際に行う行為の『非連続の連続』によって、日本化した仏教哲学を受容してきたという見方が正しいように思います。これは大陸的な仏教哲学とは、かなり異なる実態を日本では持っているということです。日本で仏教が受容された根本的な背景には、日本人自体が仏教を肯定的に受容したというよりも、むしろ仏教がインドから直接伝来せずに、一度中国を挟んで中国化された仏教が朝鮮経由でもたらされたこと、さらに古代日本の中枢地であった大和(奈良県南部)には仏教に親和性のある渡来系帰化人が多かったことなどが関係していたと私は考えています。
異なる視点から日本の伝統思想に目を向けると、人間の「私」は自然や社会など周囲の場所と不可分だと考えられてきました。キリスト教文化では「人間は神の似姿として万物を治める存在」と語られますが、神道の世界観は異なる位置から人間を見ており、人間は草花のように小さく弱く、常に周囲の大きな力に生かされている存在だと信じられてきました。『八百万の神』が森羅万象に宿ると捉える神道の世界観では、山や川など自然そのものが尊い場所であり、人もまたその一部として調和を重んじます。しかも、『川=特定の神とは捉えず、流れ方、清濁など『固定されない川』を多様に神として神格化してきたのです。これが日本では神が文字通り全てに存在すると言われる所以です。
ここには、各場面で自己を主張するよりも、「場の空気」を読み、状況に応じて柔軟に振る舞うことが美徳とされてきたことも関係します。こうした文脈では、固定した人格よりも環境との関係の中で絶えず自己が現れ続けることを尊ぶ日本的な『場の論理』があると言われますが、個人的に注意が要されるのは、日本には『場の論理』はなく、あるのは『場所の論理』だという点です。『場』という概念は主語を有する言語圏特有の概念であり、日本語のような述語制言語の思想には『場所』があるだけです。ここも西田は哲学的考察を行った末に『絶対無の場所』として提唱しています。
祭礼で興奮に身を任せる自分も、家族と安らぐ自分も、職場で責務を果たす自分も――そうした場ごとの「私」はいずれも仮面ではなく、場所(絶対無の場所)との共鳴から生まれる姿なのです。日本人は古くから、このように場所によって移ろう自己を肯定的に受け入れてきたため、様々な外来文化が流入しても、固着せずに緩やかに日本化して消化する高い文化力を持っています。繰り返しますが、この自己は固定された自己ではないため、同じ言葉であっても質が異なります。ここに日本人が他文化を受容してきたと思われる大きな特性があるのです。
「流れの中に存在する」という視点は、固定した自己を失う不安ではなく、絶えざる変化の中にこそ本当の自己を見いだす極めて能働的な態度です。もちろん、これは日本人であっても到達することは容易ではありませんが、仏教の受容、儒教の受容過程などを歴史的見地から洞察していると、そこに大陸的影響を見出すよりも、かなり日本的影響を発見することができることにはいつも驚かされます。そもそも、固定した自己を失う不安などというものを、かつての日本人は持っていなかったのです。この側面から、私は昨今、若い世代が向き合っている自己同一性の揺らぎとは、主語を立てて世界を読む構造の中で現れる問いの一つの姿ではないかと感じています。
日本でも、明治以降に西洋的思考が強く影響したことで、現在の日本人は自己を失う不安を抱いているとは思いますが、どうも主語を立てる構造の中で現れる自己の揺らぎとは、質が異なるように思えてなりません。ここで私は日本における西洋的思考の影響と言いましたが、これは西洋それぞれの場所が有する思考そのものとは別のものです。ここも日本化されており、そのまま西洋の思考と重ねることはできないからです。
このように、言語構造の違いは思考自体の差異を大きく生むことから、全てが完全に異なると言っても良いほど別質なのが現実です。逆に言えば、日本語の言語構造に準じた思考から離れたことで、結果的に文化や精神の拠りどころが薄れ、それが現代日本社会の様々な課題となって現れている段階に見えます。事実、現代日本人は日本語を主語制言語だと思い込んでおり、学校教育でも日本語には主語・コプラがあると本気で教え続けています。しかし、日本語には主語・コプラはないのです。この辺りに興味があれば、一度なぜ述語制言語の日本語が、主語制言語だと錯合されて今日に至るのかについての興味深い近代史について見ていくことにします。