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東映ヤクザ映画と山口組Toei's Yakuza Film Revolution and Rise of the Yamaguchi-gumi

日本のヤクザ映画と言えば、この30年は北野武が有名ですが、この源流となる文化を形成したのは間違いなく東映です。東映は1963年から1972年のヤクザ映画黄金期の立役者ですが、この10年だけで235本ものヤクザ映画を量産し、それまでの侍を主役にした時代劇の波を置き換えました。そして東映は単にヤクザ映画を量産しただけではなく、1960年代から1970年代にかけて日本映画界を席巻した上、その内容と人気は当時の社会情勢と深く結びついていました。単にヤクザ映画を見て楽しむのは娯楽ですが、東映がヤクザ映画を大量にシリーズ化して次々と発表した時代背景を理解することで、誰よりも日本映画を深く楽しめることができます。そこで今回は、東映ヤクザ映画が勃興する直接的な社会背景となった、日本最大のヤクザ組織・山口組の全国制覇と、高度経済成長期の学生運動を絡めて独自の視点で見ていきます。

まず、東映ヤクザ映画を当時の東映は『任侠映画』と位置付けています。この『任侠』と『ヤクザ』は同義ですが、実際には性格が異なる概念のため理解が難しいと思います。一応、そこを理解する前提としてShitsuraeではヤクザに連なる歴史過程を部分的に事前に示しましたが、この任侠映画の根底にある思想は『任侠道: 弱きを助け強きを挫く』の美学です。東映黄金期を支えた脚本家・高田宏治は「法で裁けぬ悪を、自ら死を覚悟して成敗することこそ真のヤクザ」と述べていますが、これが任侠性格を持った真のヤクザだということです。要するに金銭的利益や政治ばかり気にする現代ヤクザではない、元々の理想的な姿だということです。

つまり、法の網をすり抜ける権力者に庶民が泣き寝入りせざるを得ない現実に対し、自分なりの正義を貫く侠客像が理想化されていたのですが、こうした『正義のヤクザ』は、1960年代初頭に観客の喝采を浴びる英雄となります。これは戦後復古から高度経済成長に入る時代、まだ豊かではなかった日本人の多くがこの理想像を求めていたからです。この理想像として東映が目をつけ、1960年代前半の象徴となった俳優が鶴田浩二です。1963年に東映はヤクザ映画の狼煙として『人生劇場 飛車角』を鶴田浩二主演で発表、これが絶大な人気を博し、東映はビジネスチャンスを見抜いてスター俳優を固定し、シリーズ化して量産する手法を編み出します。

しかし時代が進むにつれ、鶴田浩二の象徴するヒロイズムと現実社会との乖離が問題視され始めるようになります 。特に日米安保条約を巡って勃発した第一次安保闘争(1959-1960)、さらにはその後の世相やヤクザ組織の実態が徐々に明らかになる中で、東映の「任侠映画はヤクザを理想化し過ぎではないか」という疑念が観客や作り手の間にも生じてきたのです 。戦後日本社会では、敗戦直後の混乱の中で治安が大きく乱れ、占領下の制度の隙間で法の及ばない場面が各地に生じており、そこに国民は不満を抱えていました。警察も政治も戦後の混乱で力を落としており、生活を守る手立てが足りない状態でした。

そこで治安維持のために登場したのが戦後ヤクザです。戦後ヤクザは各地で縄張りを持ち、その地域の治安維持、市民の生活を庇護する役割を果たし、混乱期の無法を力によって抑え込んでいきます。当時は警察・役人はヤクザを頼りにしており、この時代は結託して戦後復古を行います。しかし敗戦の影響を徐々に脱し始めた1950年代頃からヤクザは勢力を拡大して各地で衝突を繰り返し、徐々に肥大化の傾向に向かいます。中でも筆頭となったのが神戸を本拠地にする山口組でした。この時、山口組を率いたのが田岡一雄です。

田岡は戦後、神戸で小さな組織を立ち上げ、市民生活を脅かす混乱から街を守った人物として慕われたのですが、1946年に山口組の3代目組長を襲名します。実はこの当時、山口組の組員はたった30人程度に過ぎず、まだ神戸の小さな組織でしかありませんでした。先を見る目があった田岡は、山口組構成員に対して賭博と麻薬を禁止、さらに社会的職業を持つことを主張し、賭場や麻薬を収益源とする従来のヤクザとは異なる路線を打ち出します。これ以降、山口組は古いヤクザ像を脱して、「芸能」や「湾岸事業」などに進出していきます。この流れがあったことことから、山口組は資金だけでなく、政治家と懇意になり、急速に拡大していきます。

この過程で組員が増大して徐々に下部組織の統制が乱れ、田岡の禁じた賭場や麻薬に手を出す組も現れ、さらに下部組織は新たな稼ぎを求めて山口組の縄張りを全国規模に広げ始めます。これが1950年代中期から60年代にかけて起きました。全国制覇を掲げた山口組構成員は各地で他のヤクザ組織と抗争次元を次々と起こしたため、徐々に市民からの反発を招くようになります。時代状況から見ても、1952-1953年まで衆議院議長を務めた大野伴睦や要職を務めた河野一郎は山口組に好意的でしたが、バックアップになっていた両政治家が1964-65年に相次いで死去したことで、日本の政治が大きく変動します。

ここで1960-1964年まで首相を務めた官僚出身の池田勇人、さらには続く1964-72年まで首相を務めた官僚出身の佐藤栄作と、第58-63代首相を官僚出身者が務めたことから事態が急転換します。戦後崩壊した官僚の権力が再び増大するこの時代には、警察権力が息を吹き返して強力となり、やがてヤクザよりも警察の方が権力を獲得する時代となります。これが直接的なヤクザ衰退の契機となりました。官僚の牛耳る政界は警察を総動員してヤクザ壊滅を主張して強硬策を継続、当時既に全国制覇を成し遂げた山口組は苦境に追い込まれます。なぜなら1963年の山口組全盛期には、何と組員の数は184,100人も居たからです。

こうした複雑な状況の中、東映ヤクザ映画は始まりました。初期の英雄となった鶴田浩二は伝統的な任侠精神の象徴となりますが、戦前以来の官僚による統治権力が強まる1960年代中期に入る頃になると人々は時代に適した新たな英雄像を求めます。ここで東映が送り出した俳優が、高倉健です。特に高倉健を用いた『日本侠客伝』シリーズが1964-1971年まで全11作品、『昭和残侠伝』シリーズが1965-1972年まで全9作品、『網走番外地』シリーズが1965-1972年までに18作品が制作され、ここで高倉健は日本映画の象徴としてトップスターになります。これはちょうど1970年に安保条約延長を巡って起きた激しい学生運動の空気と絡まり、当時の権力に対抗する若者や労働者の鬱憤を高倉健が映画で晴らしたことが大きな要因です。

しかし安保闘争が学生運動側の敗北に終わったことから、ヤクザを理想化した鶴田浩二・高倉健ではない、次の新たな理想像が要求され、そこに登場したのが俳優・菅原文太でした。こうして東映は1973-1974年に全5部作となる菅原文太主演の『仁義なき戦い』シリーズを発表、こちらも絶大な影響を与えます。注目点はこのシリーズは1960年代的なヤクザ組織美化から、むしろ批判的な角度でヤクザ組織が捉えられている点です。こうして東映ヤクザ映画時代は1963年から1972年の黄金時代を終えて、最後の仁義なき戦いシリーズで幕を閉じますが、実は最後に重要な作品を残しています。それが1977年1月に公開された『やくざ戦争 日本の首領』です。

この映画は第一弾が大人気となったことから、1978年までに全3部作となりますが、フィクションも多いものの基本は山口組の田岡一雄に焦点をあてた第一部、山口組の全国進出時代に起きた関西ー関東の闘いを描いた第二部、そしてその山口組進出と関東系ヤクザ組織の争いに政財界のフィクサーが関わる第三部から構成されます。戦前から戦後の有名俳優のオールスターで制作された本シリーズの注目点は、プロデューサーに田岡一雄の長男・田岡満が起用されている点です。

田岡満はヤクザではありませんでしたが、日本最大のヤクザ組織を率いる田岡一雄の長男であり、映画界に進出してからはプロデューサーとして、田岡一雄の半生を映画化した高倉健主演の『山口組三代目』(1973)、同様に田岡一雄をモデルにした『三代目襲名』(1974)になります。これは当時の東映社長の岡田茂が元々田岡一雄と懇意だったことと、映画化の許諾を取り付ける代わりに、息子の田岡満をプロデューサーにする約束が交わされたとも言えます。実際、当時のヤクザ映画は各地の組織からの圧力などを抑制するため、ヤクザ組織が出入りしており、ここでプロデューサーに山口組組長の長男の名前を掲げることによって、他のヤクザ組織が無抵抗にならざるを得ない観点も影響しました。

こうして一時代を築いた東映でしたが、徐々に警察権力の高まりとヤクザ組織の腐敗によって、時代に比例するように衰退してしまったのです。