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禅は正しく理解されたのか:言語構造の違いHas Zen Been Understood Correctly? The Difference in Language Structure

西洋で禅が知られるようになったのは、戦前から戦後にかけて、西洋諸国で活動した鈴木大拙(1870-1966)の功績です。当時は今のように禅が西洋で受容されている状況と異なり、禅に対する的外れな批判が多く向けられていました。

鈴木大拙は西洋人が禅に対して抱いていた様々な批判を解消するため、英語で語り、英語で本を書く普及活動に生涯を費やしました。彼の努力が、数十年を経て浸透してきたのが現在です。

ですが、果たして禅は正しく理解されたのでしょうか。

まず第一に、現在では禅が単純なライフスタイルの方法論になってしまい、形骸化したことが懸念されます。典型的な誤認として、未だに「禅=瞑想」という固定概念が広まっていることがあげられます。元々大拙が西洋で活動を始めた背景には、こうした視座から禅を批判する議論の誤りを解消する目的がありました。

そのため、彼は禅が方法論ではなく、決して瞑想することがイコールで禅ではないことを幾度も力説しています。またそうした誤った認識が広まることで、禅に魅了された人々の人生を深く理解する可能性が妨げられてしまうことに危機感を持っていました。

禅は本来、溌剌とした生命力を誰もが持っていることを人々に気付かせる優れた哲学です。その人の人生を深く理解する内省のツールとなり、各々が豊かな生活を送るサポートになります。これは様々な現代のノイズによって、多くの人々が人生の意義を喪失している現在において、改めて重要なことです。

瞑想(坐禅)は、そのことを知るための一つのツールに過ぎず、それ自体が目的ではありません。

では一体、どうして禅がここまで多くの人々を魅了しながらも、鈴木大拙の意図が正確に伝わらなかったのでしょうか。それを知る重要な鍵が、実は言語構造の違いにあります。

まず、鈴木大拙が英語で活動したことを考える時に重要なことは、彼自身がこの問題にほとんど注意を払わなかったことです。仮に近代の英語を「主語制言語」(主語・コプラ・述語)を基本に有する言語様式だとすれば、日本語は同じ様式ではなく、全く異なる言語構造を有しています。

特に日本語の特徴は、言語構造において「主語」を持たず、ゆえに「コプラ」も存在しません。ある意味、完全な「述語制言語」だと言えます。ここは外国人が日本語を学ぶ時、最大の障壁となる点です。

ただ一方で、今日では日本語を英語などと同様の「主語制言語」だと捉える認識は、日本人にとっても自然になっています。実際、学校では「日本語に主語がある」「日本語にコプラがある」と教えており、私もそのように教わってきました。

この間違った認識が普及した背景には、西洋化の潮流が加速した明治時代(1868-1912)が関係しています。当時の日本の知識人は、西洋の学問を崇拝する傾向が極めて強く、過度な西洋崇拝に陥ったことから、反動的に日本の文化などを「未熟」とみなして攻撃を始めます。こうして、日本語が持つ性格を正しく研究しない状態で、安易に英語やドイツ語の言語学の視座を日本語に適用しました。

こうして明治以降、日本語が「主語を持つ言語」だという認識が徐々に広まり、やがて誰も疑うことのない事実となっていったのです。鈴木大拙もまた、この点が見えていません。ここは非常に厄介なので、別途記事を書きます。

しかし、日本語が「主語制言語」だと主張する言語学の動きが国民教育に影響を及ぼす過程で、日本語には主語もコプラもないと主張する正しい批判があったことも事実です。ただ残念なことに、本当の日本語を理解する人々の声は、完全に無視されました。例えば言語学者で言えば、松下大三郎(1878-1935)、佐久間鼎(1888-1970)、三上章(1903-1971)が代表的です。

鈴木大拙は彼らと同時代を生きていますが、多くの日本人同様に、これらの視座を踏まえることができませんでした。そこを認識しない状態で、彼自身が日常的に述語制言語の日本語で思考し、話している「禅」であるにも関わらず、平然と主語制の英語に置き換えて広めてしまったのです。

これは一見するだけでは小さな差異に思えるでしょうが、言語構造が異なることは、思考過程自体が異なることとイコールです。この点が及ぼす影響は絶大です。

つまり、日本の歴史的な「禅」と、鈴木大拙を経由して西洋に広まった「Zen」は、似て非なるものであると言えます。ここは非常に厄介な問題ですが、だからこそ「禅=瞑想」などの誤った固定概念が、未だに払拭されないように思えます。

ある意味、日本の「禅」が真価を発揮して、禅に魅了される西洋人に正しく伝わるようになるためには、禅という哲学を学ぶこと以前に、日本語の言語構造が持つ異なる性質を日本人が開示し、そこを深く理解していくことが最短の過程となります。

このことから、今日のように禅が一般的に普及した時代は、まだ最初の壁を乗り越えた「始まりの時」と言えるでしょう。今後、私も読者の方々に向けて、多くの関心を集める禅を深く理解できるように多角的に日本哲学を開示していきます。