三輪執斎と陽明学の日本への広がりMiwa Shissai and the Spread of Yangming Thought in Japan
明代の儒者・王陽明の精神が日本で広まる契機を作った江戸時代の儒者・三輪執斎。1603年に樹立した新時代における徳川将軍家による江戸幕府が、新時代の体制哲学を求めて官学に宋代の儒者・朱熹の朱子学を採用して以降、既に1世紀が経った頃に活動した三輪執斎。早熟の天才は、20代前半で朱子学の限界を見抜き、このまま幕府が朱子学一辺倒で突き進む時代が続けば、やがて統治が不安定となり、不安によって人心が揺らぎ、必ず反体制の動きが高まると予見します。こうして三輪執斎は、自らの時代に陽明学が広がることはないと判断し、先んじて未来のために陽明学の礎を築くために生涯を注ぎます。彼の功績がなければ、儒教の本場である中国以上に、日本でここまで王陽明が愛されることはなかったでしょう。
さて、安寧の時代であれば、無意味な知識拡充が万人に持て囃されることは、いつの時代も同じことです。現代はまさに、この知識拡充を主とする無意味な知識主義が、1990年代以降の大きなグローバリゼーションの潮流に乗って地球規模へ広がった結果、何も知らない人々が無意味に拡充した知識を以って、知識人として発言権を持つ始末に至りました。こうした無意味な声は、マスメディアやソーシャルメディアと相性が良いため、瞬時に拡散されていき、2026年を迎える頃には、まさに粗製乱雑の世紀を象徴する事態となります。
無意味な声が響き渡る虚無の空間では、全てが反転します。そこでは、何も言っていない人が金儲けを可能とし、何もしていない人が社会的地位を獲得します。こうして何も言っていないことが何かを言うことになり、何もしないことが何かをしていることになる逆作用の転倒した人々が、国際的発言力を獲得すると、当然、彼らは真の知識を知らないことは知っていますから、必然的に同じ人々と徒党を組み、社会的地位の保身と不相応な高額給料の維持を目的に世界を構築します。一体、いつまで私たち人間は、このような馬鹿げた演技に付き合っているつもりなのでしょうか。
そろそろ、こうした潮流の息の根を留めなければならない。第二次世界大戦に陸軍暴走という最悪な状況を経験した戦後初期の日本映画を牽引した小津安二郎は、映画の随所で日本の敗戦後の経験は嫌なことも多かったが、戦時と比べれば「馬鹿な奴が威張らなくなっただけマシ」というセリフを通じて批判を語ります。今は、グローバルで同じことです。馬鹿な奴が威張り散らし、そして重要なことですが、彼らは何一つ問題を解決できない。いや、解決する能力を持たない馬鹿な連中が、社会的地位と給料の維持のためだけに、システムに寄生して変化を拒んでいる。その結果、その他大勢の人々の暮らしが脅かされ、犠牲になっているということです。
愚者が集り、世界を舞台に演技を続けている滑稽な光景を見る度に、私がいつも思い出すのは王陽明が説いた一つの重要概念です。
王陽明は、「抜本塞源」という概念を唱えています。これは小手先の知識ばかりを外に追い求め、本質を見失った社会と人々への痛烈な批判なのですが、重要な点は、それでもなお人間本来が持つ光への希望は絶えることがないという視座です。この抜本塞源論で、王陽明は知識が悪のツールとして利用されている現状に対する痛切な批判を展開するのですが、現代と全く同じですから、読者に伝わるように私自身の観点で現代的文脈から述べていきます。
今や、知識の大本である先人の叡智を濃縮した経典を暗記・暗誦していることは、自らを内省して内面から世界をデザインし、他者を救うためのものではなくなってしまい、目的が他人を見下し、他人よりも自分が優れていると威張るためと転倒し、その自己承認欲求を満たすことが目的となって暗記・暗誦することが知識となってしまった。こうした社会では、知識が豊富であることの意味が転落し、悪事を行い、その悪事が露見しないように、うまく隠蔽するための狡猾な知恵として悪用される状態を作り出します。知識は人に騙されないためにあると捉えるわけですが、反転すれば人を騙すために知識を得るということです。これを積極的に推進しているのが世界規模の大学システムです。
また見聞が広く、そして経験があると自負することは、本来の見聞や経験を活かし、世界をより良くしようとするために使われることはなくなり、ただ単に、その人物の利己的な欲求を実現するためだけに、巧みな口先だけを伴う演説に利用されるに留まっています。演説は、既に自己承認欲求を満たすためだけに行われ、誰もその演説を聞く人々のことを何も考えない。演説は、人々が見えていない心の問題に光を照らす力も持たず、ましてや導くことも有り得ない。導くのは常に誤った未来なき未来であり、ただ感情を爆発することの推奨としかなっていません。彼らの演説は、フォロワー数やサブスクライブ数だけを求めたドーパミン中毒者によって建造された世界の社会的評価を前提とする優劣の競争でしかない。ゆえに、実は何もやっておらず、何も発言などしていません。一度、そうした人々の演説をYoutubeで音声を消してみれば、彼らが何も語っていないことは自明となります。
そして文章力があることは、嘘や誤魔化し、そして本当は何も理解していないという事実を本人が隠蔽するためだけに、ただ美しく飾り立てて人々を欺くために使われています。シニフィアンを見ることのできない愚者は、シニフィアンが連鎖しているからシニフィエが浮上することを知らない。ゆえに、真理は既にそこにあるのではなく、真理は常に作り出されるものであることを知らない。シニフィエに装飾を飾り、華美に仕立て上げることが文章力だと彼らは偽装し、それによって何も理解していないことが何かを理解していることになった世界。その結果、その文章は同じように何も理解していないが、何も理解していないと認めるのは自らのプライドが許さないため、何かを理解していると自負したい馬鹿な人々が群れ集まる動因として機能します。こうして、心ある人が「彼らは何も言っていない」と指摘しても、彼らは知識を自らの保身のために使うことだけに生涯を注いできたため、そうした人々が集合体となって、たった一人の真理を語る人間を総攻撃するのです。
人間には本来、それぞれに素養があり、適性があります。その適性に従って生きるからこそ、人間は短い生涯を集中して全うすることができます。誰もが感じるように、本気で生きる人間にとって、この人生はあまりにも短い。ゆえに、この短い人生を全うするためには、適性を本気で生き抜くこと以外にないことが分かります。というよりも、この各々が適性に従って本気で生きることの無限の継続・継承こそが、文明の発展、あるいは人類の発展の唯一の方法です。そして人類は、かなり長い歳月をかけてこれを邁進してきました。ただ一方で、この適性を利己的な欲求から無視した時、必ず文明は崩れ去ることも人類史は証明しています。現在はまさに、この過渡期でしょう。必ず、こうした文明は跡形もなく消え去ります。
実際、勘違いされ易いのですが、儒教において「聖人」として語られる先人は、何も万能で博学であったから聖人だったのではありません。儒教に限らず、世界で聖人として語られるあらゆる先人が同じです。つまり、聖人を超人と見て、万能で博学であることを信奉する傾向は全く聖人を見誤っているのですが、現代において最も過激となっています。
しかし、かつての聖人でさえ、一人が全てを兼ね備えることはできなかった。もっと言えば、たった一人が世界を変えることはなかった。例えば儒教では、幾つか優れた時代の基準とされる時代があるのですが、その中の伝説的な舜の御代において、彼に仕えた四人の賢人の話を王陽明も持ち出しています。四人の賢人とは、司法を司る皐陶、音楽・礼楽を司る夔、農業を司る后稷、教育を司る契ですが、彼らは各々の適性に準じた職制を恥じず、また他の職制を羨まず、ただ自らが為すことを全うします。ゆえに王陽明は、この時代は誰もが人生を全うできたと考えます。
司法は刑罰や法律を司るため、公正な判断力を持ち、社会の秩序を守る適性が要されます。音楽・礼楽は、音楽を通じて人々の心を和らげ、神仏や祖先を祀る儀礼を司る適性が要されます。農業は農耕を教え、食糧を確保し、民の生活の基盤を支える実務的な適性が要されます。教育は、倫理を教え、徳性を育む教育者としての適性が要されるという具合です。
言い換えれば、昔の聖人は「私は農業のプロだ(后稷)」「私は音楽のプロだ(夔)」という具合に、自分の適性に準じた役割に専念して生涯を全うしました。よって、農業のプロである后稷が音楽を知らなくても、あるいは音楽のプロである夔が農業に詳しくなくても、それは恥じることでも劣ることでもありませんでした。むしろ、自分自身の適性に従い、生涯を全うすることが古代では最も尊ばれることだったからです。ところが現代人は、「司法も音楽も農業も教育も、すべて知識として知っている」と触れ回らなければ自らのプライドが傷付くと妄信し、全てを知っているかの如く振る舞います。それは王陽明に言わせれば、知識を深く理解しているのではなく、単に自分を飾り、出世し、欲望を満たすための材料として外の知識を集めているに過ぎない。昔の偉大な賢人でさえ、一人がすべての役割を兼ねることはなかった。それにも関わらず、なぜ現代の若者は、すべてを自分が知っているかのように振る舞い、知識の量を自慢し合っているのか。
それは心が私欲に支配されているからですが、知識量と人格が比例しないのは、もはや私たちの誰もが知る通りです。しかも彼らの知識とは、所詮はアカデミックという強固に建造されながらも、既に20世紀後半の時点で役割を終えた形骸化した過去の産物に由来するものでしかない。インターネットやソーシャルメディアで何かを知ることは、知ったのではなく、何かを知ろうとする志を毀損しているだけなのです。
周囲を見ているだけでも一目瞭然ですが、難しい仕事であっても何であっても、現代では駆け出しの若者が、さも理論を極めたかのように語り、技術を習得したかのように振る舞っており、そうしなければ馬鹿だと思われると勝手に考えています。しかし、その姿こそ最も人間の滑稽であり、馬鹿であることを知る人は少ない。何と惨めな醜態が知識を形成し、知識人を形成していることか。彼らは「すべては世のため人のためだ」と表向きは綺麗事を言っているが、その本心を少しでも覗けば醜悪極まりない。何しろ知識を振りかざさなければ、自分の欲望を満たし、目的を達することができないような非人間が、威張り散らしているのが実情だからです。
こうして長年積み重なったこれら悪い習慣、卑しい根性、そして表面的で無意味な学問が偽装されながら社会に蔓延している以上、王陽明のような人物が「聖人の教え」を如何に説いたところで、即座にこの知識人やエリートと自称する人々から、「そのような古い知識は、複雑な現代では役に立たない」と、全てを知っているかのような語り口で攻撃的に切り捨てることは当然となります。彼らは「人間が本来持つ純粋な知恵だけでは、この世界を生き抜くためには不十分だ」と騙り、「聖人の学問は実用的ではない」と大声で主張する。大声で主張すれば何かを言ったことになり、そこに感情を露わにすれば、視聴回数は伸びて真実を語っていると偽装できるということまでを予め約束されて安全圏を作った上での発言は、まさに彼らが知識を詐欺のために使う手法だけは立派に獲得していることを象徴しています。この時代の流れからすれば、こうした衰亡は当然の結末なのです。確かに、これらを世界だと信じて疑わない層は、世界や人類の99%を占めているでしょうが、それでも1%未満であっても、僅かながらにこの方向が間違っていることを理解している心ある人々も居る。
このような濁り切った時代に生まれて、どうして真の学問を求めることができようか。どうして聖人の道を語れようかということが、王陽明の心中として幾度も語られていますが、今の時代に真の学問を志すことは、あまりに苦しく困難で、至るところに障害があり、真理を語ることが危険だという歴史を通じて見られることに一切の変動もないことは、本当に悲しいことです。そして今も、知識人は堂々と何も語っていないことによって人類の貴重な歳月を浪費し、世界を不安定にすることに余念がない。増えるのは彼らの給与明細だけだという茶番は、いつまで続くのか。
では一体、王陽明は当時の絶望的状況において、全てを諦めてしまったのかと言えば、そうではない。仮に、彼がこの絶望的状況に屈して諦めていたならば、それは馬鹿な連中と紙一重で何も変わりません。しかし王陽明は、その中を生き抜いた。そこには、時代が如何なる状況であっても、幸いなことに彼が「天理」と呼んだ宇宙の真理は、人の心の中から永遠に消え去ることはないと信じたからです。そして王陽明は「悪の根源を抜き、私欲の源を塞ぐ」という概念として「抜本塞源」を提唱し、この論を聞けば、必ずや心の底から感動し、現状を悲しみ、奮い立つ者が現れるはずだと信じて、必ずその勢いは堤防を決壊させて流れ出す大河の奔流のように、誰にも止められないものになると信じて疑わないと決意を以って過酷な生涯を生き抜きました。
王陽明の生涯、そして彼の重要概念の一つである抜本塞源を鑑みると、私たちが生きる現代は全く同じです。 抜本塞源の本義は大きく二つあり、一つは知識の肥大化への警鐘。もう一つは本質への回帰です。何しろ、知識が増えれば増えるほど、誰もがそれを自己正当化の武装化を目的に使い始め、本来の純粋な心から遠ざかり、遂にその人それぞれに付与されている天性の適性を無視した生き方を始めてしまうからです。そして、一度そうなれば最後。適性を無視した生き方は、必ず不具合を招き、人生は一時的に向上しても、必ず長期的に見れば反転して、一人ではどうすることもできない窮地に陥り、あっという間に淘汰されます。
現代社会では、適性を無視して、自分が何でも知っていることが有能だと思い込んでいる人々ばかりですが、それはそうした適性を持つ人にとっては正しいことであっても、そうした適性を持たない人が真似をするものではない。適性は人の数だけ存在するのだから、その適性をまずは知るために内省を行い、そこで適性を見極めた上で、そして如何に生きるかということを見出していく修練が要されるのです。それを無視して、安易に適性を求めるなど言語両断。如何なる状況であっても、他人から揶揄されるような不遇であっても、真に自らが為し遂げるものだと信じるのであれば、それを全うすることこそ人生です。そこで自らの私欲、あるいは無用なプライドや社会的批判や他人の評価を気にして逃げるならば、それはもはや人生ではない。あれこれと外側の知識を詰め込むのは無意味であり、そして外側の知識を如何に蓄積しても社会を救うことなどできない。誰もが第一に心の根源にある私欲という毒を抜き、清らかな生命を湧き出させることが、真に己の能力を以って社会を救う唯一の道なのです。