倭人考 2On the Wajin, Part 2
先週の記事では、ワジンとして語られる実在しない日本人の祖先集団を見る際、根幹として踏まえるべき諸事に焦点をあてて集中的に論じました。これによって基本的なワジンの姿を前提することが可能になるのですが、この民族的な基底に潜む重大な問題は、常に歴史の規制を被りながら極端な形へと変容を遂げてきました。実際、ワジンについて語られる時、現在から抽象化された一般存在としてのワジンなる日本固有民族として語られますが、この時点で既に私たちが生きている時代の規制を被って変容しているため、それは本来の姿ではありません。もちろん、こうしたズレは歴史を洞察する以上は引き受けていかなければならないことですが、すると問題は論者がここを徹底した自覚水準として持っているか否かに据えられます。
古代中国の国家側にワジンの住まう国として対象化された「倭国」の概念空間は、この問題を露呈しています。なぜならば、長らく中国側の官僚用語として一般使用されていた古代日本に対する「ワ」という言葉自体が、後に日本側から差別的で蔑視的だと意識されるようになり、この古めかしい呼称に対する反動運動が国家規模で生じるからです。ただし、言うまでもなくこの時点の国家概念とは、近代以降とイコールではなく、局所的な空間に留まります。そして中国側での文明を前提に配備した視座を持つ漢から魏の時代に見られた日本の姿は、文字も文献も統一システムも持たない異族の世界として映ります。実際、文献的に日本最古の姿を記録した『魏志倭人伝』の記述は、当時の魏の使者から見た時、それなりに異質な存在として映っていることが見えてきます。しかし、こうした古代の文献は、後に文字・文献技術を獲得して情報編纂などを武器に力をつけた日本側の朝廷勢力にとって、次第に厄介な問題になります。それは日本側が天皇を軸に朝廷を組み立てていく過程で、ある意味での民族意識が局所的に芽生えたからですが、この意識の発露は能働的には起き得ず、常に外部に想定される中国側の事情と連動しています。つまり、仮に中国側で内乱などが起きて体制が弱体化し、それによって日本に対する影響力が衰退すれば、反動的に日本側で民族意識が高まるという具合に展開されます。もちろん、ここではかなり単純化していますが、そうした力学は第二次世界大戦後の日米の力学の観点からも同質に理解できます。
よって、古代中国側の文献における日本の視方が、「差別的」「蔑視的」と朝廷内部で徐々に見做されていきます。特に天皇を軸として、ある程度の覇権の意識を獲得していた一部勢力にとって見れば、中国の影響を時に流入させ、時に緩衝することが当時の外交でしたから、天皇或いは氏族の政治的実権が高まる過程で、中国的影響からの自立が要求されるようになったことは妥当と言えます。そしてこの頃に始まった心情的な反発は、長大な歳月をかけて「ワ」という呼称を「倭人」「倭国」から棄却していく動きへと向かったのです。この動きは、やがて現在の「Nippon」という国の呼称や、「Nipponjin」という民族の呼称にまで到達しますが、その起源には心的な反発があったということです。ただし一つ付言しておく必要がありますが、この原動力を前述のように差別的・蔑視的だと捉えられるのは、あくまでも近代以降の私たち次元のことでしかなく、この感情を当時と結びつけてはなりません。言い換えれば、それは国家形成という限定的な範疇での中国からの疎外です。重要なことは、この疎外意識が現在の意味での日本・日本人において全体的に起きたのではなく、かなり限定的な政治中枢地である朝廷の閉ざされた場所で起きた現象に過ぎないということです。つまり、中国からの疎外を問題視したのは朝廷という場に閉ざされた為政者だけであり、朝廷の外に広大に広がる多元的世界の住人には全く無関係に起きたことです。ゆえにこの時代に日本人が中国からの影響を離脱して、自立を始めたと見る歴史洞察は完全な誤りです。こうした誤りは、これが幻想の問題だということが理解できていないことに起因します。ある意味、この意識が最初に自覚されたからこそ、天皇と取り巻きの氏族は覇権を握ることができたと言えるのですが、それも限定的な場での覇権でしかなく、到底一元的な統治とは言えません。
重要なのは、ここで「ワ」の呼称を差別的だと見做した古代日本の為政者が、即座にその代替に「Nippon」と呼んだのではないことです。実際、この古代的な「ワ」から近代的な「Nippon」への国家を指示する概念の変容には、あまりに複雑な変遷が起きています。しかも「ワ」は、あくまでも中国側の使者が日本側を「東夷」の一部として把握するための措置として実定された暫定的なものでしかないにも関わらず、日本側の為政者はこの排斥に集中するというズレを含有しています。この心的な要因は、当時の朝廷から見た外部に、前回触れた「ワン」という音に対する禁忌に近い感覚があったからです。この本義は、前代の覇者たちによる遺制への禁忌です。私は前回、Wanの音こそが中国側の漢字表記で「Wa/倭(委)」と宛てられた原型だと書きましたが、このWanの音は当時の倭国なる圏域に属する国々の人々にとっては、「自分たち」という程度の意味しかありません。そして仮にここでの問題を国号だと据えるならば、「ワ」から「Nippon」への経路は連続して繋がっているわけではなく、むしろ幻想の世界においては、無数の疎外や渾融を経て樹立した複雑な概念と言えます。つまり、国号から見て「ワ」から「Nippon」は一気に結び付いたのではなく、ましてや段階的に形成されたのでもないということです。そしてこの近代以降の人々にとって理解に苦しむ問題の本質を理解するためには、その「ワ」からの離床において、古代の為政者が選んだ言葉が「ヤマト」という国号だったことに注目すべきだと考えます。ただし、これはあくまでも音として採用されていることを前提してください。私たちが今考える意味での国号とは全く位相が異なります。
かなり複雑なので簡潔に示せば、次のようになります。概ね3世紀中期頃にかけて、日本列島に在住していた一部の部族集団が、限定的に使用していた非文字としての「ワン」という音が、文字文化を有する中国側の使者によって採集され、【倭】或いは【委】と漢字表記を宛てられて中国王朝側の官僚用語として使用される中で、音が「ワン」から「ワ」へと転移したということ。本来、日本側の一部の古代部族にとっては「私たち」という意味でしかなかった「ワン」の音が、中国側の異族の世界を実定して統一システムの安定を図る「四夷」に基づく意識の影響を受けて、一部の部族次元の言葉でしかなかった音が、抽象化されて中国側で「ワ」として日本自体へと拡張されたということです。この時、「ワン」ではなく「ワ」の音が文字化されて文献に国の措定としての「倭国」、さらに異族の措定としての「倭人」として中国側で官僚的或いは学問的に使用されたのです。これは海を超えた情報交通の古代的限界においては避け難いものであり、既に高度な文字・文献技術を持って国家システムも樹立していた中国側と、文字・文献技術を持たずに多元的世界を生きていた日本側との間に生まれたズレは、私たちの想像を絶するものであったことが想定されます。ただし、日本側には移民として流れ込んでいた部族によって、一定の通訳は可能だったことは自明です。
すると不思議な問いとしては、なぜ「倭国」や「倭人」と文献的に位置付けられた古い中国の用語に対して、日本側の為政者はヤマトを反動的位置に打ち立てたのか。実際、「ワ」から「ヤマト」という音の転移は、この観点だけを見れば、日本人の私から見ても理解不能です。ですが、漢字を見ることによってこの意図が見えてきます。私はShitsuraeの記事でヤマトという用語を出す際に、「奈良県南部」という注釈をつけて意図的に出しています。正確には奈良盆地の南部地域ですが、これは元々、天皇や氏族の初期的な歴史における朝廷が設置されていた次元が、ほぼ例外なくこの地域で展開されていたことに基づきます。ゆえに、この地域がヤマトと呼ばれていたからといって、当時の日本列島全てがヤマトだったということはイコールにはなりません。「日本」や「日本人」という統一国家や単一民族の虚像が成立したのは、所詮は1960年代後半の学生運動に敗北して以降の話です。つまり、それ以前の歴史においてヤマトを日本全体、日本人全体に一般化することはできない。なぜならば、そのような一般化は日本が存在していない領域に統一国家を据え、日本人が存在していない領域に単一民族を据えるという状態であり、存在しないものを存在するかのように打ち立てる学問的虚偽以外のなにものでもないからです。「大和民族」という戦前から戦時的な呼称も、軍部のイデオロギー的解釈によって打ち立てられた捏造概念でしかありません。ゆえに、「日本人が大和民族という単一民族である」という前提は事実に合いません。しかし、このような嘘が真理として蔓延している事実がある。一体、なぜこのようなことになるのか。
何かしら虚像が生まれてくる源泉であり、それらが複雑に絡まり渾融されながら、一方的に放置されているからです。逆に言えば、この放置というか無視という意識的かつ自覚的な態度がなければ、この虚像は実像として成立し得ないと言え、極めて近代的人間の態度に典型と言えます。かつて使用されていたヤマトなる概念は、実際に民族精神を示す【大和心】や【大和魂】、言葉を示す【大和言葉】、女性像を示す【大和撫子】、絵画様式としての【大和絵】など歴史的に多様に使用されていますが、これらヤマトなる音は、漢字では例外なく【大和】と宛てられます。しかし、この普通に使用されてきた用語自体に、気付かれていない問題の核心が潜んでいるのです。
日本人は平然と【大和】という漢字表記をヤマトと読むことができるのですが、実はこれが不思議なのです。もしもあなたの近くに日本人がいるならば、一旦冷静に固定概念を忘れて、この漢字を見た時にヤマトと読めるかを聞いてみればいい。おそらくほとんど全ての日本人は、そんなこと考えたこともないので、確かにこれをヤマトと読むのは変だということに気づくはずです。なぜならば、この漢字自体が「当て字」だからです。当て字を説明することはかなり難しいのですが、簡潔に言えば、中国側から輸入した漢字が、日本語特有の音や概念を示すには適さないと考えられた場合、漢字本来の読み方や意味を無視して日本側で創作されるものです。これは単なる表記の差異ではなく、概念自体を転移させる重要な技術です。その観点で見た場合、【大和】という漢字は通常の解義では【大いなる和】となり、これは「大いなるワ」という意味にはなりますが、絶対にこれをヤマトと読むことはできません。
ではなぜ、この通常では有り得ない【大】と【和】から構成される二つの文字が、当て字としてヤマトと呼ばれて今日まで持続したのか。ここにこれまで展開してきた「ワ」「ワジン」「倭国」の考察の本義が必要となるのです。漢字から分かるように、これは単純に考えれば「大いなるワ」ですが、古層には、古語のワンを大きく拡張した概念次元に設定されています。そしてこのワンの音は、実は古代日本とは言っても、あくまでも魏の使者が訪れた限定的範疇で使用された古代日本語でしかありません。そしてそれは、大体240年頃に魏の使者が女王・卑弥呼の元を訪れた際の見聞録や情報がベースとなり、後に西晋の歴史家・陳寿の手に渡って280年代に成立したものを起点としています。つまり問題の原初にあるのは、魏の使者が今の私たちが想定する意味での日本全土を調査したわけではなく、しかも魏の皇帝が派遣した使者の公的な訪問ですから、かなり限定された情報でしかないことが見えてきます。事実、魏志倭人伝には倭国は昔は100以上の国があったが、現在魏と交流がある国は30国だと記しており、その中の圏域を治めていた女王・卑弥呼は邪馬台国(Yamatai)という都に住んでいたと記されています。この時代は、私のこれまでの調査感覚では、日本の時代区分における古墳時代初期に相当しますが、前代の弥生時代的性格が強度に残存する捉え難い時代です。つまり、魏の使者が資料として採集した人々が発するワンという音は、この圏域に属する人々にとっての共通語だったと言える可能性はあっても、その意味は前述の通り高尚な国家概念を指示するものではなく、「私たち」を意味するものでしかない。しかも、各地は土着の言葉が相当根深かったことが想定されるため、この「ワン=私たち」に代表される諸々の言葉とは、あくまでも卑弥呼を擁立した諸国の複数勢力が、意思疎通を図るために使用していた「古代共通語の一つ」という姿が見えてくるのです。
序盤で当時の朝廷から見た外部に、「ワン」という音に対する禁忌に近い感覚があったと書いたのは、ここに通じてきます。つまり、後の朝廷を形成した天皇や氏族から見た場合、このワンの音を共通語としていた人々は、新勢力である彼らにとっては不都合な存在だったということです。ここは極めて重要となります。これについては別途書きますが、この卑弥呼の統治圏域の存在を、後に編纂された古事記も日本書紀も隠滅するために躍起になっているからです。これは実際に、中国側の資料には存在が記されているにも関わらず、古事記や日本書紀の日本側の資料に登場しないことによって明らかです。
ゆえに結論を言えば、ここで解義した「ワン=私たち」という起源をベースに持つ諸々の用語を、現在の日本全土や1億2000万人以上の日本人を指すと考えることは、断じて有り得ないということです。なぜならば、その用語は普遍ではなく、当時使用された場所や地域次元に限定的に留まっていたため、彼らによって語られた「ワン」は、現在の意味で日本列島全てに在住していた部族や民族の全てを指示するものではないからです。しかも彼らが「ワン」をベースに共通語を使っていた事実を考慮すると、起源的にはどこかの部族の言葉をベースにしていると言えるものの、大半の人々にとっては共通語でしかなく、土着の村落などでは別の言葉を使用していた多元的な姿が見えてきます。実際、卑弥呼の統治する倭国の次元は、既に高度に国家体制の段階を実現しているため、日本に対する最古の文献的記録ではあるが、所詮はこの高度に発展してしまっている段階である以上、それ以前の状態は全く異なるアプローチで斬り込むほかないという限界を有しています。ゆえに、起源を探究することは容易ではない。また、当時の魏と交流があった日本側の30国も極めて限定的であり、しかもそれは西日本に限定されており、魏は東日本との交流を全く持っていません。ゆえに魏志倭人伝でも、東日本の事情は記されていません。僅かに「女王の国の東にもまた国があり、そこも倭人が住む」と書かれているだけですが、これは使者が見聞したのではなく、倭国の人々の話として語られたものであるため、実はこの記録は極めて限定的な場所にしか通用しないことが分かります。しかも、ここで語られている倭人とは、何を持って指示されているのかが全く不明です。少なくとも私たちに理解できることは、こうした限定的な範疇を治めていた女王が卑弥呼ということくらいのもので、魏志倭人伝の記録から見ても、卑弥呼の統治する勢力でさえ、東日本については知見を持っていなかった可能性が高いと言えるのです。
来週はこれらをベースに据えて、卑弥呼の住まう都として登場するYamataiを見ていきます。