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日本論1On Japan, Part 1

日本とは何か。この問い自体は1868年に明治維新が終わり、約300年続いた江戸時代の終焉と共に始まった近代の明治以降、西洋という新たな存在との接触・摩擦によって高まった問題です。明治という新時代の始動と共に、世界という大きな軸の中で自らの位置付けをいかに作っていくかという新たな潮流に入ったのです。それから現在まで約160年が経ち、私たちは猛烈な速度で数えきれない時代の転換点を生きてここまで来ました。ですが、果たしてこの160年程度の歳月によって、今、私たちは「日本とは何か」という問いに適切に答えることができるのでしょうか。そう問われると、誰もが言葉に窮するはずです。

一般的な認識では、日本は一億人規模の単一民族を有する世界的に見ても稀有な国家だと見られる傾向は根強く、その島国の土壌で育まれてきた独創的な文化は、複合的な外来の影響を受けながらも、独自の心で昇華されているというような評価が目立ちます。実際、こうした評価は未だに氾濫していますし、誰もが頻繁に目にすることでしょう。確かに、それらは一定の事実を含んでいるとは思いますが、同時に現代においてこのような軽薄な考え方は時間潰しには役立っても、真に生命力を感激させるには至らない。ゆえに、これまで8年間、日本各地を動き回り、インディペンデント・リサーチャーとして分野を問わずに探求してきた私にとって、この問いに答えることは非常に重要になってきました。もちろん、私が提示する回答とて、所詮は暫定的でしかない。しかし、もうじき35歳を迎えようとしている私にとっては、この問いに今後15年程度かけて真摯に向き合っていくことは、これまで以上に重要になってきたことを感じます。

そこでShitsurae側で新たな連載セクションとしてCommunal Illusionを設置し、そこに「日本とは何か」というテーマに、独自に迫るエッセイをリリースすることにしました。ここでCommunal Illusionと題したのには、一つの決定的な問題意識があります。それは「日本とは何か」という問いに対する探究は、これまで膨大に行われてきましたが、中でも私に最も強烈な影響を与えたのは哲学者・山本哲士です。その山本を経由して直面するに至ったのが、戦後最高の思想家と称された吉本隆明です。実際、吉本が登場する以前の日本論は、基本的に戦前に構築されたイデオロギーとしての国家論が前提となっており、そこから脱却できていませんでした。この国家論とは、要するに天皇を頂点と設置し、その存在を2000年以上に及ぶ万世一系と単一民族の国家像という観点から日本は論じられてきました。個人的な解釈では、万世一系とは血筋の統一化。単一民族とは部族の統一化です。この双方向の動きを近代国家・日本において統一することによって、起源自体を国家が回収し、そこにおいて日本を論じていく構造を打ち立てたということです。

実際、明治に入って西洋から輸入したアカデミックシステムは、日本は特定の国との関係を重視するというよりも、むしろ複数の国のシステムを同時に日本において習合するようなことを行なっており、極めて複雑なのですが、少なくとも当時、学問を日本で創始する場合には、ほぼ例外なくこのイデオロギーの影響下にあったということです。むしろ、この新時代のイデオロギーに学問や学者が迎合していくこと。つまり、それまで曖昧でしか語られてこなかった日本という実像を、西洋的なアカデミック技術を援用して補強していく建築作業に入ったということです。

この場合に注意が要されるのは、この時代にリリースされる成果などの大半は、天皇を頂点とする新たな近代イデオロギーを前提に思考されているということです。言い換えれば、天皇を頂点とする近代イデオロギーを建造することを前提に、思考が行われているため、必然的に全ての学者はこの規定から逸脱できません。こうしたイデオロギー構造の建造に集中するがあまり、思考が持つ作用を軽視してしまったため、やがて天皇を中心とする日本という新たな国家像が当初の目論みとは異なる形のイデオロギーとして生産されていくズレをきたします。このズレを巡る闘争は、特に明治ー大正ー昭和初期の三つの領域において展開されていますが、とにかく次々と無数の政治団体や活動団体が立ち上がっており、その数は数百を超えるため、一元的に論じることはできません。ただここで掴み取ることは、それだけ当時は日本という実像が強度を持っていなかったという事実です。どうしても現在、日本という強固な国家像が歴史的に通底していると誤った前提が持たれてしまっているため、この観点は見過ごされているように感じます。当時、日本なる実像は成立していません。

しかし、1930年代に入ると状況が転移を始めます。転換点となったのは、軍人の質の変化です。従来の軍人と言えば、あまり政治的発言力を持たなかったのですが、ここで蓄積された国家イデオロギーの波に煽られる形で、政治的軍人と呼ばれる新たな存在が登場します。要するに軍人でありながら、政治に積極的に関与する人々で、この政治的軍人の力が高まる過程で、陸軍が覇権を握ります。こうして陸軍の政治的軍人の発言力が、従来の官僚や政治家を上回るようになり、やがて天皇そのものを最高統治者に位置付ける軍国主義的イデオロギーが樹立。これを国家統治の技術として採用していきます。こうして第二次世界大戦という激動の時代を経て、1945年の敗戦後になると、多くの人々は当時喧伝されていた「日本とは何だったのか」などを総括して考える余裕もなく、全てが焼けてしまった以上、ゼロから全てを始めることに精一杯となります。生きることが最優先される状況下では、イデオロギーは何の意味も持ちません。この結果、「日本とは何か」という戦前から戦時に激化した問いの結論は先送りにされてしまい、しかもそこに戦勝国側から移植されたデモクラシーという新たなイデオロギーが介入してしまったため、さらに問題への回答は延長されてしまいます。

この時代は長く続くのですが、気運が変わり始めたのが60年代に激化した左翼運動の高まります。既に物資が何もない状況を脱し、新世代が意気揚々と戦争の脅威もなく生きる時代を迎えていましたから、ここで「そう言えば、あの時の日本とは何だったのか」という問いが、戦争の影を受けて生まれ育った世代に発現します。この場合、最初の1960年の安保闘争では、この社会運動に参加した人々は直接軍隊に入って戦う経験を持たずとも、戦争が起きていた時代に生まれ育っていたため、比較的この問いが生じやすい状況にあったのですが、一方で第二次安保闘争の1960年代後半になると、もはや戦後生まれの新世代が主軸であったため、直接的な戦争体験を持ちません。ただ後期の彼ら若者の心情には、一つの決定的な不具合があった。それは、「親世代を含めた年長の世代は、あの戦争を実行していながら、誰一人として総括していないではないか」というものです。この問いは年長者に対する苛立ちとなり、戦争によって大勢の自国民を死去させ、国を荒廃させながら、反省することもなく新たな時代を築いている国家システムに強烈な疑念を呈したということです。

この時、特に彼らが反動的立場を取ったのが、アカデミック・システムでした。当時の若者で大学に行くことのできる人々は特権的な側面があり、大半の同世代はそのような機会がありません。ゆえに彼らは同世代の多くの友人たちが大学に行けない状況にありながら、幸運にも自らは大学に進学できているという状況に対して、優越感よりも劣等感を抱きます。なぜならば、自分よりも優秀な友人が、親の資金事情から大学に行けないことは普通だったからです。「あの友人よりも自分の方が劣っているにも関わらず、大学に行けているのだから、彼らの分まで自分は勉強しなければならない」という信念は、当時の都市部の若者には比較的一般的な感情でした。もう一つ重要なことは、当時の彼らは戦勝国側のデモクラシーの影響下を受けて生まれ育っていますから、「日本は再び戦争を起こしてはならない」という態度はかなり強かったということです。ただし、同時にそれは後に左翼運動へと分断されていき、一方で「日本は再び軍備を充足させて立ち上がるべきだ」とする態度の人々も反動的に強まっていきます。

ここまで本気で学ぶわけですから、学問は一層、彼らにとって実用的に現実の問題に対峙しなければ、無意味だと映ります。もちろん、全ての学生がそうだったわけではありませんが、一定数はそうした態度を持っていたということです。しかし、ここに問題がありました。当時彼らが学ぶ大学教授は例外なく戦時を経験している人ですし、中には学問を戦時体制に援用したような学者も多く残っていました。ですが、彼らは学問の詭弁を述べるだけで、軍人や政治家は国際法で裁かれる中、自らの責任が殆ど問われず、そのまま戦後も大学の教授職などに留まる者が多かったのです。これに対して、当時の学生は「お前は私たちを教えるような素質が本当にあるのか?」と強烈に迫り始めたのです。ここで問われているのは、社会的権利とかそういう愚行ではなく、その人自身が戦争をどう総括して生きてきたのかということです。この論点は極めて重要です。

あまり考えられていませんが、実は戦後システムに真っ先に自己家畜化したのは、この大学教授などの学者です。この不都合な事実を当時の学生は見抜いたのですが、学者はシステムに自己家畜化していますから、デモクラシーの権利などを盾にして、一向に学生の問いに答えません。学生はその人自身を問うているが、学者はシステムの規制・規範・権利で回答するからです。これに学生は激昂し、このような教授に教わったところで、何の役にも立たないではないかと暴発し始めます。事実、当時高まっていた左翼運動において、流行に便乗してマルクスを教える教授がマルクスの資本論を読んでいなかったなどは横行していました。要するに、マルクス主義者の関連書物は目を通していたが、マルクス自体の著作は読んでいないということです。これに意欲的な学生は反発します。彼らは新たな時代を築くことへ飢えていましたから、当時は学者よりも学生の方が本を読んでおり、その本から得た知識が如何に現実問題と繋がるかを思案していました。ただ、ここに厄介な問題が潜んでいます。それが私がShitsuraeで頻繁に扱う知識偏重で知識主義を絶対視する朱子学の残存がシステムに介在していたことを、彼らは見抜けなかったことです。

真剣に当時の現実に向き合おうとする若者に対して、言葉にし難いシステムの建造物に自己家畜化した学者や政治家はまともに応対できない。自分たちの主張は、全てコンクリートの密室に反響するだけで、どこにも届かないという強烈な得体のしれない不安。若者はその正体を対象化できない鬱積を抱えていたため、これを暫定的に権力などと呼称していましたが、実は彼らが対峙していた相手は権力などとして片付けられる代物ではなかった。だからと言って、若者が熱狂する左翼イデオロギーも、何の解決にもならない。彼らは大学闘争でも次々と敗北していたため、自分たちも1960年の左翼運動の敗北者のように、敗北し、やがて年長者同様にシステムへの自己家畜化によって生涯が終わってしまうのではないかという危機感に押し潰されそうになります。この絶望的な精神的危機において、若者の最後の糸が切れそうになった1968年暮れ、突如衝撃的な一冊の著作が登場します。それが、吉本隆明の『共同幻想論』でした。

『共同幻想論』は分量としては多くないのですが、そこに記されている一つ一つの言葉が深淵な洞察に満ちており、思想家ならではの直感によって高度な思考が宇宙のように展開されています。また吉本隆明は、自ら大学教授などの学者になる道を選ばず、孤独に自らの思想を論考と共に実行する「生きた人間」の象徴的存在であり、当時の日本思想界ではカリスマとなっていました。当時、学生運動の主戦場であった東京の学生は、自分たちが教わっている教授の無力に直面していたため、吉本の『共同幻想論』に熱中します。当時の逸話では、学生運動に参加する人々は男女問わず、誰もがこの『共同幻想論』を手に抱えて歩いていたと言われているほどです。当時は、マルクスの『資本論』と吉本隆明の『共同幻想論』の二冊は、読まなければならない本として若者たちに見なされていたのです。しかし、持っているからといって読めたわけではありません。実際、短いながらも深淵に世界それ自体を論じている洞察において、『共同幻想論』は結局解されないまま激動の1960年代は終わってしまいます。そしてこの時も、結局この時代の学生は己の敗北を自己肯定化し、システムに自己家畜化するという道を選んだのです。これによって大規模な労働者の母体数を抱えることができた日本は、1970年代の劇的な高度経済成長期に突入します。この瞬間、理念や信念よりも金の方が重要だと転移し、以後、50年以上の日本混迷の動因となりました。

結果は結果としても、ここで彼らが問うた問題と、さらになぜ彼らが『共同幻想論』に熱中したのかは考える必要があります。私の視方を提示すると、この1960年代後半に「日本」という何かしらの実像が完成する決定的な転換点があった。その決定的な時代を彼らは生きていたからこそ、『共同幻想論』の言葉にできない感覚に感激したのだろうと考えています。つまり、当時の若者は吉本の言葉を頭で理解しようと読んだのではなく、言葉それ自体の宇宙に合一して読んだということです。ゆえに、言語化し難く、さらに理論化が極めて難解だということです。ですが、私が1968年後半以降に日本という実像が完成したと見る態度は、この連載を通じて徹底するので頭の片隅に入れておいてください。

日本はそれまでの歴史観においては、紀元前660年に初代天皇として即位した神武天皇を起源として、天皇の統治する日本建国が始まったと位置づけられてきました。ゆえに、戦前までは「皇紀何年」というように、神武天皇即位の紀元前660年2月11日を起点として、年代測定するということを一般的にやっていました。こうした観点から天皇イデオロギーが盛んになるわけですが、重要なことは、この天皇に対するイデオロギーは見極めなければならない問題が多いということです。簡潔に示せば、「天皇イデオロギー」と「天皇自身の存在」とは全く別物です。これをイコールにしてしまった時に様々なズレが起きてくるのですが、これらは本来、全く別物として考えなければならない問題設定の次元です。例えば、第二次世界大戦時の戦争責任において、昭和天皇の責任が問われるという場合でも、この天皇イデオロギーと天皇自身の存在自体をしっかりと分けて考えないといけないのですが、これを混同してしまうと、天皇にもそのイデオロギー的な責任があるというように論理が立てられてしまうため、責任の所在が曖昧になってしまいます。

つまり、この掴み難い日本なる世界の中で、一体何が機能しているのかを見抜くことです。そして私は、戦前の日本、あるいは第二次世界大戦時の日本や戦後初期の日本でさえ、現在語られる意味での「日本」なる国家像の強度は持っていなかったと考えています。むしろ日本が初めて成立したのは、私の目では1968年の学生運動で彼らが敗北した時です。間違ってはならないことは、彼らが主張していた国家権力に負けたから、日本が成立したのではないということ。この論点が非常に重要となります。なぜ、この瞬間に日本が成立したと個人的に見ているのかというと、この学生運動で反体制の動きを持ち、自分たち自身で国家を作るという強い意志を持って現実と対峙した若者たちが、学生運動に敗北するなり、即座にシステムへの自己家畜化へと切り替えたからです。私が言いたいことは、ここで歴史的に起きたことではなく、ここでの「彼ら自体の態度」が日本成立の根源になったということです。つまり、文献や憲法などが日本成立の根拠になるのではないということです。

実際、日本成立のターニングポイントを1968年に設定した場合、それ以後は現在私たちが考えている意味での日本という実像は通用しますが、それ以前はぼやけてくるはずです。このピントのフォーカスが当たっているところと、ボケているところを同一視することが戦前的なイデオロギーであって、しっかりとここは分けなければならない。ただ、これが非常に難しいのは、ここには私たちの目に見えない幻想の形態が常時蠢き、変容し続けているからです。これを指摘したのが、吉本隆明でした。吉本隆明の『共同幻想論』は、前提としてこの幻想の様態は「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」という3つの層から構成されていますが、要点はこれらが分離しているのではないということです。そして重要なことは、吉本が自己幻想、対幻想、共同幻想の視点を打ち立てる根源となったのは、一冊の書物の存在があったからです。それが『古事記』です。

712年に成立した神話・伝承・伝説・史実などを編纂した『古事記』は、現存日本最古の書物として位置づけられています。しかし一方で、『古事記』といってもあくまでも8世紀前半の書物であるため、隣国の中国で見られるような紀元前数千年前頃から文字文化、さらには書物という文献という文化を持っていた文明国から見ると、この大きなタイムラグが問題になります。例えば中国側では『史記』という膨大な歴史書が早くも紀元前1世紀に成立していますが、そこを起点に考えても、少なくとも800年程度は日本側で能動的に歴史書の編纂が国家事業として行われることはなかったということになります。ゆえに空白の期間が膨大に広がるのですが、それは日本の初期的な歴史である旧石器時代から考えると数万年に及ぶ時間軸となります。さらにこの「文献的空白期」は、隣国の中国側で動乱が起きていた時代などの日本側の実情なども文献的には全く不明という状態になりますから、この数世紀、数千年、数万年をどのように捉えていくかということが「日本とは何か」に応えるための問題になります。何しろ、気候変動から大陸側の戦乱に至るまで、複合的な大陸側の動乱を契機に日本に逃れてきた難民の存在は日本史において切断できず、また公的に移民として入ってきた層もかなり多いことが考えられます。しかし、これらは例外なく文献的空白期に起きたことであるため、実態が極めて掴み難いのです。

ある意味では、ここが曖昧で確たる根拠がないからこそ、戦前のイデオロギーにおいては、紀元前660年に神武天皇が即位したということを前提とした日本のイデオロギーが成立し得たのですが、大前提に誰もが気づかなければならないのは、これが西暦で算出されているということです。そもそも日本が西暦を使い始めたのは明治5年の1872年に入って以降の話ですから、それ以前の時代に西暦は使っていません。ゆえに、この西暦を物差しにして紀元前660年を神武天皇即位の年と設定すること自体が奇妙なことなのです。そしてこの紀元前660年問題について、極めて重要な発言をしていたのが、戦前の東洋史学者である飯島忠夫です。個人的に最も優れた東洋史学者だと思っていますが、飯島の存在は今では完全に忘れられています。しかし、彼は天皇イデオロギーが国家化される1930年代頃から中国の天文学である暦法などの計算を駆使して活動しており、神武即位が明治頃に西暦で紀元前660年と設定されたことに対して、その根拠を複雑な計算方法によって算定しています。

彼は東洋史学の深淵な知見、暦法、易などを駆使した独自の計算を駆使して一つの重要な事実を解明します。それが古事記から遅れて8年後の720年に成立した『日本書紀』の年代設定は、実際の史実に基づいて算定されたのではなく、編纂時に影響を受けていた中国思想に基づき、「作為的に逆算されたもの」だと論証したのです。特に重点を置いたのが、中国の『緯書』という予言的な書物の思想に見られる大革命には周期が存在するという考え方です。これは「辛酉革命説」と呼ばれるのですが、緯書によると「干支の辛酉の年には革命が起きる」という考え方があり、さらにこの辛酉が21回巡る(60年×21回=1260年)と、さらに巨大な大革命が起きると記されています(主に王朝交代や聖人の登場説です)。この中国伝統思想の影響を日本書紀の編纂者は強く受けていたと見抜いた飯島は、彼らがこの思想を前提に自らの時代位置を1260年周期の大革命に合わせて設定し、政治的統治を正統化した姿を暴きます。それが顕著に現れているのが、601年の推古天皇の治世における影の支配者・蘇我馬子と表の指導者・聖徳太子のトライアングルによる新時代の覇権構造の成立です。ここで当時の為政者は辛酉革命説に基づいて、601年を大革命の年に設定し、それを根拠づけるためにそこから1260年遡った一つ前の大革命の年を紀元前660年に設定し、ここに初代・神武天皇即位の年を据えたということです(601年 - 1260年 = 紀元前660年)。

さらに神武天皇以降の長期間に及ぶ古い伝承の天文記録は、実際に日本側で観測された記録が反映されたのではなく、編纂当時の中国の暦法の計算式を用いて、官僚が机上で計算して編纂時に書き加えたものであることを指摘。飯島はこれら深淵な洞察を踏まえて、紀元前660年という日本建国の年は歴史的事実ではなく、中国の暦法と神秘思想の辛酉革命説をベースに構築されたフィクションだと断定したのです。

個人的には飯島の説に出会って以来、もはや紀元前660年を問う必要はないと考えてきたのですが、逆に言えば、それほど当時の政治的為政者は中国と近かったということです。実際、この編纂事業には中国側の学者もかなり入っていた可能性は知られています。ただし、ここで厄介な問題が浮上します。だとすれば、普通に考えれば日本書紀の編纂だけで済むはずなのに、なぜ古事記というもう一つの書物を制作する必要があったのかということです。またこの二つの書物は現存最古に位置付けられていますが、同著の記載から、それ以前に既にそれなりに日本側に書物はあったことが示されています。実際、古事記も日本書紀も記載されている内容自体は独創的なものではなく、編纂時にある書物をベースに構築されたものです。つまり、ここが肝心ですが、古事記も日本書紀もベースとなる書物自体に基本的な相違はなかったが、目的が全く違ったということです。だとすれば、その目的とは何だったのか?

実は、この8世紀前半に成立した二つの書物が創造した領域の力学が、今日の日本の実像を支えている見えない力なのです。