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日本民俗学の芽生えThe Dawn of Japanese Folklore Studies

今日は宮崎県の山間部奥地にある椎葉村に来ています。椎葉村は古くからの村落文化を独自に継承しながら、現代社会を生き延びてきた日本でも稀有な存在であり、古くから注目を集めてきました。

もともと決して利便性の高い場所とは言えないこの村落の起源には、壇ノ浦の合戦で敗れた平家の人々が追討を逃れて山深い地へ落ち延びたという伝承があります。古文書『椎葉山由来記』によれば、源頼朝は那須与一に追討を命じましたが、病のため弟の那須大八郎が代わって椎葉へ向かったと伝えられます。大八郎は隠れ住む落人を見つけたものの、ひっそりと農耕し暮らす姿に哀れを覚え、追討を断念して幕府には討伐成就と報告しました。その後、当地に留まり屋敷を構え、平家の守護神である厳島神社を建て、農耕法を教えるなど人々と協力して暮らしたとされます。やがて平清盛の末裔・鶴富姫との間に恋が芽生えたこと、逢瀬の合図として山椒の木に鈴を掛けた逸話が「ひえつき節」にも歌われること、そして帰還命令を受けた大八郎が別れの印に名刀「天国丸」を託し、「男子なら下野へ、女子なら当地で育てよ」と言い残して去ったことまでが語り継がれています。生まれた子は女児で、後に婿を迎え「那須下野守」と愛する人の名を名乗らせたとも伝わります。

このように椎葉村には平家由来の習俗や信仰が持ち込まれ、独自に発展してきましたが、私が特に関心を持ったのは、ここから日本民俗学の歴史が始まったことです。それが柳田國男の存在です。

柳田が椎葉村を訪れたのは33歳の頃でした。当時、彼は政府官僚(法制局参事官)で、民俗記録の専門研究者ではありませんでした。そもそも当時の日本にはまだ「民俗学」という学問は存在せず、各地で分散的に人々が調査していたにすぎません。

しかし柳田は官僚として九州に出向いた際、椎葉の習俗の話に触れて予定を大幅に変更し、6泊7日で滞在して見聞を重ねました。その最初の成果が、自費でわずか50部のみ刊行された『後狩詞記』です。のちに初期三部作『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』を発表し、欧米の“Folklore”を学問として位置づける手法を参照しつつ、日本民俗学の創始へと至りました。

当時の学界では民俗学は学問として認められず、柳田はその重要性を説き、自ら実地調査を重視する姿勢を打ち出しました。方法論が確立する前の名ばかりの体系化を良しとせず、長らく自らの営みを「民間伝承の学」と呼び、50代に入ってようやく「民俗学」の名で執筆や講演を行うようになりました。

柳田は日本列島全体を歩き、可能な限り多くの民俗事例を記録することを第一としましたが、この方針は机上研究や論文中心で学会承認を目指す立場とは相容れませんでした。庶民の日常を記録する民俗学が「野蛮学」と非難されることもありましたが、柳田は形式よりも実地を選び、その意義を説き続けたのです。

椎葉村は、柳田が官僚の道を離れて民俗学研究者として踏み出す転機となった場所であり、その後も民俗学に関心を持つ人々の聖地となりました。今も豊富な資料が残り、実地に触れることができます。

もっとも椎葉村も不便さゆえに高齢化や人口減少に悩まされてきましたが、近年は移住者を引きつける魅力的な村として注目され、地元の暮らしと融合しながら、日本有数の移住成功モデルとして評価されています。

さらに椎葉村には、かつて日本各地で見られたものの今ではほとんど残らない光景があります。それが焼畑農業です。現在は焼畑後に蕎麦や穀物を播きますが、かつては焼畑跡に自生する茶を各家が採取し、家ごとに伝わる釜炒りの技法で加工して独自の茶文化を継承してきました。今では焼畑自体が限られ、茶の自生も狭まり、釜炒り技法も高齢化や後継者不足で途絶えつつありますが、移住者たちの協力で継続の努力が続けられています。

今回、椎葉村を訪れて思ったのは、なぜ人々はこのような山奥で暮らさねばならなかったのかということです。平家の落人伝説をはじめ、歴史的に似た事情で山深く逃れた人々がいたとすれば、そこにはどのような歴史があったのでしょうか。椎葉村に残る伝承や風習、祭りは、その古層を多様な形で今に伝え続け、多くの日本人の心を惹きつけています。

The Birth of Japanese Folklore Studies