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現代のノマドロジー:「現実」の痛みを受け入れるとき世界は変わるModern Nomadology: Everything Changes When You Accept the Pain of the Real

人類規模とも言える大移動時代が様々な形で進むことによって、今、世界各地で巨大でしかし着実なリプレイスメントが進行しています。この地殻変動は、単なる人の物理的な移動や、経済的な再配置といった表層的な現象ではありません。私たちがこれまで信奉し、無条件に寄りかかってきた近代というプロジェクト自体、そしてそれを管理統制してきた巨大な国家システムそのものが、その耐用年数を迎え、音を立てて崩壊し始めていることの決定的な証左です。

かつて私たちを支えていた数々の概念である正義や人権、あるいは社会システムにおける最適解といったものの類は、今や急速にその実効性を失い、単なるお題目に成り下がっています。なぜなら、それらは安定した気候と右肩上がりの経済成長という、二度と戻らない過去の前提条件の上でしか成立しない仮構だったからです。その土台が完全に崩れ去った今、あらゆる価値観は曖昧に抽象化され、形骸化し、再定義どころか破棄を迫られています。ですが、この急激な変動に人々は耐え切れず、どうしてもかつての世界の土台を引き摺ったままです。

こうした激動の時代において、私は今こそ直視すべき最大の問題は、母国という存在論的な基盤の消失ではないかと考えています。

現代人が密かに、しかし深刻に懸念しながらも目を背けていることは、人間がどこにも属さない根無し草へと変質してしまったことへの恐怖です。既に変質しているのであって、変質の途上ではない。逆説的に言えば、私たち現世代は、母国という概念を、単なる質感のない言葉としてではなく、確かな身体感覚として保持できる最後の世代になるでしょう。かつては当たり前のようにそこにあった土台、そこから世界を思考でき、かつ固有の思考形態として現出していたものが、今、根こそぎ消滅に向かっているのです。個人的には、この消滅は避けられず、また避けるべきではないと捉えており、この苛烈な現実と直面することによって、未来の世界像が見えてくると確信しています。

日本の戦後史を振り返れば、そのプロセスは残酷なほど明白です。第二次世界大戦における焼け野原からの急激な復興、そして目紛しい速度で実現された高度経済成長の時代。その過程で日本人は、経済合理性を戦後日本の核部に位置付け、徹底的にシステム優位の構造実現を先鋭化してきました。かつて生活の場所であった土地を、単なる利益を生むための空間へと書き換えるなど、それは様々な形で行われました。その区画整理されたシステムの内部空間の中で、私たちは根を奪われ、システムに従順な、常時交換可能な労働力へと還元されました。ただし、この還元はマルクス主義的な支配者を想定した搾取という視座ではなく、人々自体が自ら従属したということが肝心です。いわば、現代日本の日常となっているシステムへの自己家畜化の姿は、何も国家による搾取や支配ではない、双方向の微細な動きを察知しなければ、歴史は見えてきません。高度経済成長期の日本人は、自らその道を選んだ。そこに世界で最高レベルの相互監視システムが日本国家として成立しているということです。

そして当時は母国という抽象化された概念よりも、さらに場所に根差した故郷という概念が残っていました。しかし故郷の共同体は着実に毀損されていき、今日に至るまでの約60年程度の時間をかけて、その精神的機能を完全に壊死させています。もう、故郷は私たちには存在しない、架空のものとなっているのです。その結論は、現在のあまりに歪な人口動態として浮上しています。

特筆すべき事実として、現在日本で生まれる子供たちの実に約3分の1が、東京、神奈川、埼玉、千葉を中心とする首都圏という、コンクリートに覆われた過密地帯で出生しています。本来、国家の持続可能性とは、国土全体での文化や生命のアップデートにあるはずですが、もはや日本は首都圏一極集中という、巨大かつ異常な人口吸着装置と化しました。こうした傾向は、何も日本に限ったことではなく、先進国において進行していますが、これこそが母国喪失の力点になっているという視座です。

この国家システムの中枢、つまり最も密度の高い用意された空間内で生まれ育つ彼らは、土着的な故郷を持たず、帰るべき場所を知らない根無し草としての運命を背負わされています。何よりも鮮烈なのは、土の手触りを知らず、風の音を知らず、木々の静寂を知らないことです。そして極端な一極集中という先進国が直面する問題においては、残りの地方出身者たちもまた、壊滅しつつある地方都市から逃れるように都市部へ流出せざるを得ない状況も用意されています。事実、民間有識者グループ人口戦略会議の2024年の発表によれば、日本全国の自治体の4割にあたる744もの自治体が、将来的(2050年頃)に消滅する可能性があるとされています。

今度、日本の地方自治体の財政破綻は、ドミノ倒しのように連鎖し、日本の姿を一変するでしょう。それを先に理解しておくためにも、私はこの数年間、都道府県レベルの財政破綻が一番最初に起きると想定されている秋田県や、幾つもの消滅可能性の自治体に幾度も来訪し、定点観測を続けてきましたが、そこで理解したことは、最悪の未来は加速して迫っているということでした。つまり、政府関係者の試算は甘い。実際は、もっと前倒しで起きるだろうというのが私の体感です。

こうした光景を見ていると、私は生存不能な国家レベルにまで達したシステムの末期症状だと捉えています。そしてそれは、地方に限らない。大阪や東京の都市部を歩くだけでも、その現実は残酷なほど可視化されています。そこには、まともに歩くことさえままならない高齢者たちが、よたよたと徘徊している光景が日常にあるからです。日々こうした光景を目にしている私自身、これのどこが先進国なのかと疑念を抱いており、実際に日本は既に先進国ではないことを強く実感しています。肝心なことは、彼らがかつて高度経済成長を支え、このシステムを作り上げた当事者たちだということです。しかし、今やそのシステム自体が彼らを支えきれず、機能不全を起こしており、単なるシステム構築・維持の歯車でしかなかった彼らには、このシステムを動かす力はない。つまり、システム優位の国家作りを推し進めてきた日本では、国民や市民という存在における個人を無視してきたため、今更何をどうしたところで、どうにもならないということです。

つまり、日本は既に終わっているのです。

そしてこの終わったことを覆い隠すために、現在急速に浮上しているのが日本の再軍備と、軍国化の推進問題です。ですが、私の目には現代日本人の速度は、世界に対して30年前のインターネット速度で対応しようとするようにしか見えないため、この致命的な遅さを考えると、実は日本の問題は軍国化するか否かではないことが見えてきます。そもそも、軍国化するにしても、敗戦後に戦争を知る者は誰もいないわけですから、軍備、策略などを立てることができる人材はいません。そして超高齢化という世界初の事態に突入している日本は、同時に少子化の先端を進んでおり、軍隊を持つにも人員が集まりません。そして日本が所有している武器といえば、米国が使用しない旧式の武器ばかりですから、当然、戦争を想定している中国などに対峙できるわけがない。さらには現代の戦争は言うまでもなく情報などのデジタルテクノロジーやドローンですが、この技術を日本は致命的に持っていません。

さらに老人政府を維持し続けている日本の現状から考慮しても、憲法改正から軍国への決断までそれなりの時間を要するでしょうから、軍隊や核武装は着実に実現するでしょうが、戦うという中身はないということです。例えば、日本の遅過ぎる速度感から考えて、この体制実現に20年掛かると想定しましょう。つまり、第二次世界大戦敗戦から100年を迎える2045年頃です。この間、日本が成長する可能性はゼロで、そもそもシステム維持すら不能となる上、最大のリスクが迫ります。そしてそれは地政学的リスクではない、自然災害です。

事実、今年に政府の地震調査研究推進本部が修正した新たなデータによれば、今後20年以内に東日本大震災以上の巨大地震が日本で発生する確率が60%程度に引き上げられています。この地震の想定は、東京など首都圏を壊滅する首都直下地震、さらに日本の経済の心臓とも言える東海道一帯から西日本を壊滅する南海トラフ巨大地震です。さらに過去の記録から、こうした巨大地震が太平洋側で起きると、富士山噴火が連動する可能性も高まります。これらは起きるかもしれないという確率論ではなく、統計学的に起きることがスケジューリングされていると捉えるべき数値です。私は現在34歳ですから、平均寿命まで生きるならば、この大災害に直面することは避けられないということです。

2045年に戦後100年の節目を迎える頃、維持できない老朽化したインフラに巨大地震が直撃し、物理的な国土が瓦解する光景こそ、日本が戦争以上に直面している厄介な近未来なのです。その時、私たちが「日本」だと信じていた世界は一瞬で消滅します。「一瞬」です。

そして日本の場合はこうしたリスクの観点で考察可能ですが、世界の不安定というファクターも影響するため、それぞれの人にとって異なる「母国」という概念が、突如、一瞬で消滅する事態に遭遇する可能性が人類規模で急速に高まっているというのが私の考えです。

戦争、自然災害など国によって異なるでしょうが、私たちが信じている「世界」が消滅するなど、一瞬です。その時、誰もが不可能な「現実」に直面します。なぜならば、彼らが信じてきたのは世界それ自体ではなく、現実から疎外された現実性において構築された幻想でしかなかったからです。つまり、現代を生き抜く人類の全員は、ある時、突然これまで信じてきた幻想が消滅する瞬間を経験するリスクがあるということです。正直、これこそが現代人類最大のリスクではないかと考えます。

では、これは絶望的な未来なのか。仮に絶望的な状況だとすれば、私たちはどう生きるべきか。ここで安易に日本を捨てて海外へといった、いわゆるグローバル市民的な逃避を選択することは、私にとっては二重の欺瞞であり、あまりに短絡的です。なぜならば、私はこの未来は人類にとっては通過儀礼として経験しなければならない痛みであると確信しているからです。大勢が勘違いしていますが、現実との直面は強烈な痛みを伴います。現実性はその痛みを人々が感じないように、管理することによってケアしているわけですが、だからこそ疎外された現実性の中に生きる近代以降の人々は、個人として疎外されたのです。

根本的に、私は、日本と日本政府(システム維持)を完全に切り離して考えています。この視座は、読者の母国それぞれにおいて通用します。米国と米国政府はイコールではないし、英国と英国政府もイコールではない。ゆえにこの視座を持って生きている人々こそ、私は人類の未来だと見ているのです。この根拠の背景には、世界や世界市民という既成概念の徹底した無化において実証されます。そして、現代人は既に気づいている。グローバル(Globe)という場所など、どこにも存在しなかったということに。

ここで重要となるのは、ドゥルーズ=ガタリ的な「ノマドロジー」を入り口に思考を開始することです。そして私は、このノマドロジーにおける致命的な分離を非分離にするべく、そこに民俗学者の折口信夫が提唱した「マレビト」という概念を配備し、私のもとで非分離にした近未来の世界・世界市民像について考察したいと最近考えています。そこで今回は示唆を行いますが、私が主張したいことは、上記で示した近未来は決して絶望的ではないということ。そして人類は逃避という名のもとで疎外されていた実態なき存在における個人から、現実において真に生きる力能を回復しなければ、先へ進むことはできないというラディカルな提唱です。

近代であろうが、ポスト近代であろうが、加速主義であろうが、何をやっても根源的な解決に至らないのは、思考している地盤と深度において、常にズレているからです。そしてそうした茶番を繰り広げている知識人と呼ばれる人々の問題は、頭が良いからこそ、自分たちで気付いていながら、現実について語ることを拒絶し、見て見ぬフリをして現実性を現実だとケアすることを担ってきたということです。

私はこの知識人の欺瞞に対して、現実の痛みを引き受け、それを表現してきたのが芸術家だと考えています。知識人の欺瞞とは、「現実を見せないようにして、疎外された現実性においてシステムを造営すること」です。ここにドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』で看破した「国家装置(State Apparatus)」と「戦争機械(War Machine)」と位置付けたノマドの本質的な対立構造を理解する必要があります。ゆえに私は、現代の民主化されたクリエイターやノマドが与える影響など全く信じていない。

なぜならば、実は現代ではクリエイターやノマドこそが、この強烈な痛みという不可能を抱えた現実に真っ向から対峙し、突き進む強靭な意志(生きる意志)を持った者以外にあり得ないと考えるからです。そしてこの時、非常に重要なことは現代の全てのクリエイターは、自らクリエイターを破棄(無化)しなければならないことです。クリエイターという存在は、現代の荷物であり、もはや彼らは知識人同様、既に終わっているシステムや概念をいじくり回して人々を混乱させる無意味な装置部品でしかない。そしてドゥルーズ=ガタリのノマドロジーにおいて、私はこの視座を貫通させたいのです。ここに最もラディカルな生き方があるからです。

まずは、彼らのノマドロジー論を私の観点で洞察していきます。

彼らの定義における国家装置(State Apparatus)とは、人間を土地に定住させ、境界線を引き、コード化し、すべてを内部に取り込もうとする巨大な管理システムの表象です。彼らは大地を碁盤の目のように区切る「条理空間」を見抜きましたが、それはシステム自体による空間の実現が、私たちをそこへピン留めする作用・働きを稼働させることです。つまり、システム管理者としての支配者なる主体を近代的に想定してしまった時、彼らの本質的な理解はズレるということです。要点となるのは、実は主体は「私」の側にあるのではない、システム側にあるということです。

この国家装置の作用・働きという動きに対し、彼らはノマド(Nomad)を位置付けましたが、それは現代的に理解されている単にPCを持ち運んで場所を移動する生活者を指すのではない。彼らにとってノマドとは、国家装置の外側で生きながら、その硬直したシステムに風穴を開け、多大な影響を与え続ける戦争機械(War Machine)のことです。ここで言う戦争とは、殺戮のことではなく、国家システムの固定化された秩序からの逃走であり、その管理システムを無化する抵抗のことですが、ここで個人的に最大の問題となるだろうと考えることは、この無化が生涯に渡って続くということです。いわば、現実という不可能に対峙する覚悟を持って生き始めた途端、誰もが強烈な痛ましさと向き合うことになる。しかもそれは一過性のものではなく、生きている限り常に続くということです。この強烈な性格を現実が持っているがゆえに、ある時点で人類は現実を逃避するために現実性を疎外させたのです。この疎外過程は、数千年規模、あるいは数十万年かけて起きたものです。

そしてノマドの本質は「中心なき速度と流動の主体」であることですが、それは彼らの流出入という動き自体が、死につつある都市を再構築する唯一の起爆剤となるからです。ですが一方で、本当にノマドの本質はそこにあるのか。それこそ私が本質的に問い抜きたいことです。というのも、如何にドゥルーズ=ガタリ的に「中心なき速度と流動の主体」をノマドと捉えても、そこには致命的な欠陥がある。なぜならば、私は現代のノマドは単に国家という檻から別の檻へ移るだけの観光旅行に過ぎないと見ているからです。そしてなぜこのようなズレが起きるかと言えば、幾つかの原因はあるにしても、一つは前述した母国という概念自体への洞察がないこと、いわば内省が欠落している致命的欠陥にあると考えます。ゆえに、現代ノマドは「外へ出る」という言葉を物理的な移動と捉えたしまっており、結果的にただの「逃避者」でしかないのです。これはノマドロジーの本質から致命的に乖離している姿だと問題視しているのですが、理由は現代ノマドも現実性に固執している観点では、別に定住民と何ら変わらないからです。要するに、「自分たちの母国(国家システムと同一視している欺瞞の現れ)が嫌だから、別の国に移った」という現代ノマドに多く見られる根拠こそが、この冷徹な誤認の蔓延として表れています。

なぜ、ドゥルーズ=ガタリの先鋭的な提唱は、このような形で本質を見失う事態となり、形だけに囚われたノマドの生産・再生産をシステム化する動因となっているのか。その鍵は、彼らが条理空間と対抗させた「平滑空間(Smooth Space)」において、根源的な認識にズレがあったからではないかと私は考えています。平滑空間とはノマドの空間であり、砂漠、海、氷原のように目印がなく、常に風や砂で地形が変わる空間として位置付けられており、前述の国家の空間である条理空間(Striated Space)とは異なります。しかし、この平滑空間の認識において違和感を感じるのは、「中心なき速度と流動の主体」としてのノマドにおいて、最も重大な前提がないということです。ゆえに現代ノマドは、ドゥルーズ=ガタリが見たように都市の再構築というよりも、単なる既成のシステムに基づく経済の動き以外に大した影響力を持っていない。つまり、彼らはそもそもノマドに相応しいのかを問うことです。

この時、浮上してくるのは、「内」と「外」などの二元論の残像です。この残像は、主語・主体・主観・自我などに由来しているため、こうした概念を前提に引き摺る運命を抱えている西洋の哲学者にとって最大の問題であり続けていますが、それは脱するのではなく、無化しなければ先は見えてこない地平です。つまり、彼らが到達しようとしたノマドロジーの真の境地を、現代的な誤読において読み続けるのではなく、よりラディカルな形で完成させるための動きを持つべきではないかということです。「外へ出る」という言葉を物理的な移動と捉えた瞬間、ノマドはただの逃避者に堕落します。そして外に気を取られているノマドが、内として内省に励んだところで、対症療法でしかない。こうした混乱と停滞に既にノマドは陥っていると個人的に見ているのですが、そこにノマドロジーをアップデートする上で極めて示唆的な概念の提唱が、かつて日本で行われていました。

それが、民俗学者・折口信夫が提唱した「マレビト」です。

続編に続きます。