国譲りと出雲大社The Transfer of the Land and Izumo Taisha
日本神話に記される「国譲り」は、島根県出雲市に建立されている出雲大社を巡る物語であると同時に、古代日本で起きた出来事の記憶です。日本の神社の創建年代の大半は不詳で、中でも古い神社は「神々の時代」に起源を持っているため、神話が根拠とされます。出雲大社は古社の中のひとつで、創建は神話に基いており、今も宮司は神話に基づく氏族が務めています。しかし、これは非常に稀なことです。
1868年に明治時代に入ると、明治政府の新たな為政者は、暴力革命で徳川将軍家から略奪した覇権の正当性を印象付けるために、それ以前の江戸時代の全否定を始めます。この時、標的となったのは江戸時代に絶大な影響を及ぼしていた日本型儒教で、政府は代替となる新たな体制哲学を模索していました。歴史的に仏教は一時代を築いたものの、江戸時代に入ってからは急速に力を失っており、儒教は江戸時代の影響が強いことから採用しずらい。そんな時、明治政府が新たに目をつけたのが神道でした。ただ神道とは言っても、当時も今も明確な定義はなく、明治政府も理解していない状態で採用しています。言えることはただ一つ。明治政府が仏教や儒教以外を採用したということです。この新たな動きは、後に神社神道や国家神道へと変容し、複雑な近代神道史の幕開けとなります。
当時の明治政府は、新たな体制哲学に神道を採用する決断を行ったため、今度は中央政府が一元的に神道を管理することを要求し始めます。しかし、神道は起源が定かでないものの、日本に仏教が伝来する遥か以前から信仰の祖型を有していたものです。今でもヤオヨロズと呼ばれるように、無数の神々の信仰は、日本列島の場所の数だけ存在しており、自然や現象の数だけ存在するため、到底中央で一元的に統括できるようなものではありません。ですが、それでは新政府の面目が立たないため、ここで政府は二つの強硬策を実行します。それが1871年の「世襲神職禁止」と、1906年の「神社合祀令」です。
歴史的に神社の管理は、特定の一族が宮司を務めて神を奉祀したり、村落ごとに共同で奉祀するなど多様でしたが、地域を治める大きな神社になると、その影響力は強く、政府の意向であっても従うことはありません。特に起源が古い神社の宮司の一族は、ほとんどが千年以上の家系が想定され、天皇家との歴史的関係も関わってくることから、地域社会では絶大な影響力を保持していました。明治政府はこの神社が持つ地域の影響力を無効にし、中央政府で統括することを目論み、その方法として代々の世襲を禁じることで官僚機構に信仰を回収しようと考えたのです。これは近代国家に必要不可欠な国民創生の観点から行われました。これにより、大部分の神社は地域の影響力を失い、多くが神社運営から除外されていきます。
ここで大きな神社の影響力を瓦解させ、中央政府で一元的に管理する効果を確かめた明治政府は、続いて一気に信仰を国家に集中することに舵を切ります。それが、もう一つの神社合祀令でした。これは無数に分散していた多様な神社を強制的に国家のもとで統廃合し、中央政府が管理しやすい体系化を目論んだものですが、要するに官僚機構で管理するための措置です。重要なことは両方とも信仰や神道を建前にしていますが、実態は近代官僚システムの樹立にあったということです。
この二つの国家的な破壊政策によって、太古からの信仰は不穏を抱え始めますが、こうしなければ神道という定義不能なものを国家の体制哲学に配備することができなかったのです。一連の政策過程で大半の神社は神職の世襲を禁じられて追放されてしまい、その穴は中央政府の役人が埋めていったのですが、その挙げ句に神職になるには神道系の大学卒業資格が必要という状態に陥り、今や99%の神社の神職はそうした人々によって担われています。ですが、そのような時代にあっても、政府の要求を拒否する発言力を持つ強い神社がいくつかありました。その筆頭格が出雲大社です。出雲大社の一族は、明治政府の世襲禁止の影響を何とか生き延びており、古代からの風習に従って今も特定の一族が宮司を世襲しています。
単に歴史的な起源が古いだけでなく、地域社会の信仰を深く集め、人々から強い信頼を獲得していなければ、こうしたことはなし得ません。実際、私自身も日本中の無数の神社に来訪してきましたが、出雲大社ほど信仰が厚い神社は他になく、今も多くの日本人にとって心の支えになっています。場所的に見れば主要都市から離れた僻地ですが、私も一年に一度は参拝しています。
明治政府の圧力に屈さず、今も世襲を続ける神社がわずかに残った事実は、かつての日本人の信仰心の強さと逞しさを伝えています。では、それほどまでに強い信仰力を持つ出雲大社は、一体どのような起源を持っているのでしょうか? こうしたことは、残念ながらほとんど語られることはありません。そこで今回は、これまで調査してきた独自の観点で、神話と古代史を交差させながら紐解いていきます。
国譲り神話の舞台は出雲国です。かつての出雲国は、現在の島根県出雲市一帯とその周辺を含んだ大きな地域を指しますが、少し厄介なことに、古代出雲は日本列島を広範囲に治める巨大な圏域を形成していた時代がありました。私は「出雲圏域」と呼んでいますが、その連合の本拠地が出雲国にあったと考えてください。わかりやすく言えば、EUの中枢がブリュッセルに置かれているイメージです。出雲圏域は、軍事的な意味合いでの圏域や連合としての成立ではなく、祭祀を用いた緩やかな連帯というイメージで、服属ではなく同盟関係の締結によって拡張されたものです。
この神話を理解するために重要となるのが、[天つ神](Amatsukami)と[国つ神](Kunitsukami)です。まず、[天つ神]はAmatsukamiと訓み、現在はAmaを[天]の文字から連想する天上世界として考えますが、それは古代人の考え方とは異なります。漢字使用以前の古代日本でAmaという音は、海を指す一般的な言葉であり、海人族固有の言葉でした。日本神話が文献化される時代には、既に漢字使用が朝廷の有力者の間に広がっていましたから、こうした古い音が持つ意味は忘れられていたのです。特に古代の音は一つの意味に還元できず、このAmaでも海人族にとっては海ですが、同時にケースによって意味が変わっていたことが想定されます。
おもしろいことに、古事記や日本書紀の編纂時代でさえ忘れていた古語の意味を、日本は地名として今日まで残しています。これまで私自身が訪れただけでも、Amaを海に関連させている地名は多く、九州の離島・奄美大島が典型的で、他にも[海部][阿麻][海士]などの地名がAmaとして多様に残っています。すべて沿岸部の要所の呼称であることも見逃せません。
これは天つ神の起源が海に関係していたことを示唆しており、海を渡ってきた神々のことを伝える古い記憶です。ここに関連して、かつて民俗学者・折口信夫が興味深い発言をしています。彼は日本の神は「海からの来訪神」→「山からの来訪神」→「天からの来訪神」へと変容し、この三層構造の中で日本独自の信仰が育まれたと述べています。天つ神の変容もこうした過程を辿ったことが想定されますが、既に712年に古事記が成立する頃には、この信仰は天上世界を指すようになっていました。言い換えれば、この時代に古事記編纂に関わったヤマト朝廷の為政者によって、天つ神は海から天へと昇華されたと言えるでしょう。
そのため、国譲りでも天つ神側は天上世界のイメージから語られます。具体的には天つ神の宗主・アマテラスが、出雲圏域の土地を求めて国を譲ることを働きかけるという構図です。なぜ天つ神を平面的な海から天上世界に移したかと言えば、アマテラスを太陽神に結びつける政治的な意図があったからです。現在は[天照大神]と表記し、その意味は「天を照らす大いなる神」となります。しかし、古代の信仰でアマテラスは「海を照らす神」であり、海人族の信仰に起源を持っています。このアマテラスを天皇家の祖神に位置付ける動きが活発化したのは、まさに古事記編纂を命じた張本人の第40代・天武天皇(在位: 673-686)ですが、この辺りから海の守護神だったアマテラスが、天上世界の太陽神へと変容したと言えます。
同時に、天つ神に対して国つ神という概念が神話に配置されますが、Amaが海を指す時代を考えれば、国つ神とは外来の神ではない在来の神というイメージで、おそらく縄文時代に由来する日本列島の神々のことです。ここで天つ神側は国つ神側の土地を[葦原中国](Ashiharanakakuni)と呼称しますが、これは葦が生い茂る広大な原のことです。葦原中国という世界観の背後には、天つ神が農耕民の信仰から形成されていた姿が示唆されています。言い換えれば、国つ神は農耕民ではないということです。
アマテラスは、自らの系譜に位置する神々を葦原中国に降臨させるために、葦原中国が含まれる広大な国を譲ることを、諸々の国つ神を束ねる出雲の神・オオクニヌシに求めます。このオオクニヌシが現在の出雲大社の主祭神であり、日本最古の神のひとつです。[大国主]と表記しますが、「大いなる国を司る主」の称号であり、古代の大王と言った具合でしょう。
ただ、国譲りには複合的な歴史が絡み合っています。神話はそれ自体が歴史事実を伝えるものではありませんが、なにかしらの歴史の記憶を伝えています。ただし、「特定の時代」を超越しており、「過去→現在→未来」という線形的世界を持っていません。私は神話は非線形的世界であり、歴史自体を圧縮していると考えており、ひとつの物語には、数千年規模の歴史の記憶が圧縮されていると見ています。この観点を念頭に置いて進めていくと、大前提となるのは神話自体の呼称です。
非常に重要ですが、この物語は「国を譲る」ことであって、「国を奪う」ことではない。つまり、天つ神が国を奪った話ではなく、天つ神と国つ神の協議によって国を譲っているのです。しかも重要なことは、天つ神の宗主・アマテラス自らは一歩も動いておらず、交渉には天つ神側が選定した神々が派遣されていることです。日本神話の編纂時、アマテラス自身を動かすことのできない政治的な事情があった可能性が示唆されていますが、一体、これはどういうことなのか? ここで古代史に目を向けてみましょう。
古代日本は、現代日本人のルーツに関わる三つの祖先集団を有しています。ひとつは最初期の縄文時代、続いて弥生時代、最後に古墳時代です。これらすべては考古学からの時代呼称に基づいています。縄文時代とは、この時代の土器が特徴的な縄目紋様を持つことから名付けられたもので、弥生時代とは、東京の弥生町という地域で発見された特徴的な土器から名付けられたものです。古墳時代だけは、葬送習俗において古墳が築造されるようになった時代を指します。それぞれの時代は全く異なる信仰や習俗を持つ人々と言え、この三つが混交することによって日本・日本人の母体を形成していきました。今回注目するのは、縄文時代と弥生時代です。
理解が進むように、ここでは暫定的に国つ神を縄文人、天つ神を弥生人と考えます。その際の前提ですが、弥生人は起源を北東アジアの西遼河近郊に持っており、かつて紅山文化を形成した人々です。つまり、彼らは海を越えてきたのですが、注意点は、彼らが中国中南部で見られる水田稲作の農耕民ではなく、雑穀の農耕民だったことです。日本史は今もこの解釈を完全に誤っており、弥生人が水田稲作を持ち込んだと教えますが、それは間違いです。水田稲作を持ち込んだのは、その後に渡来してくる東アジア系にルーツを持つ古墳人です。
天つ神である弥生人は、中国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部一帯にかけて、紀元前4,700-紀元前2,900年頃に存在した紅山文化を形成した集団です。この地域は現在は大部分が砂漠地帯ですが、12,000年前から4,000年前にかけて限定的な期間のみ、豊かな水資源と湖沼や森林に恵まれており、大発展を遂げています。しかし、約4,200年前頃から始まった地球規模の気候変動により、再び砂漠化が始まったため、4,000年前辺りから新天地を求めて大移動を開始しています。この移動は大きく南と西へわかれたのですが、南へ向かった集団が最後に到達したのが日本列島で、西へ向かった集団が到達したのが北欧です。ゆえに、日本神話と北欧神話には共通点が多いことが昔から知られていますが、これらは北東アジアの共通祖先に起因します。この時、故郷を放棄した彼らが手にしていたのは、生活に欠かせない雑穀の種子でした。これが後の日本の神話や伝承に複雑に関係してきます。非常に重要なことですが、彼らは稲種を持っていません。
数百年程度かけて段階的に朝鮮半島に到達した彼らは、複雑に混交しながらも、自らの習俗を維持しながら最終的に日本列島へ渡ってきます。古代の一時期、日本列島と朝鮮半島南部が同一の文化圏にあったことが知られていますが、これはどちらかが征服したからではなく、日本海を挟んで共通祖先が居住していたからです。ゆえに、一時期はこの地域は言葉が通じていたのですが、後に朝鮮半島側の動乱でこの人々が姿を消し、日本列島側に移っていた人々が残る構図になります。この日本側に渡った人々の言葉が、現在の日本語のルーツです。
また、彼らは純粋な意味で紅山文化の祖先の遺伝子を持っていたわけではありません。既に故郷を離れてから相当の歳月が経っていましたから、紅山文化の記憶は彼らにとっての故郷として理想化されていました。ただし、気候変動によって逃れてきたのは彼らだけではありません。朝鮮半島は各地から逃れてきた無数の部族の集結地となっており、限られた土地ですから当然奪い合いが勃発します。
元々、紅山文化の人々は好戦的ではなかったため、逃れざるを得なくなったのですが、そうなると海を越えるしか選択肢はありません。ですが、彼らは海とは縁もゆかりもない人々です。私たちの祖先集団がアフリカから紅海を越える時を想像するとわかりますが、海に縁のない人々が海を越えることは一種の狂気であり、とてつもない覚悟を要します。逆に言えば、その狂気と覚悟から強い信仰が生まれます。
この時、彼らにひとつの信仰が生まれたのは偶然ではありません。それが渡り鳥です。特定の場所で暮らす定住型の農耕民は観察力に長けており、紅山文化時代の彼らも、渡り鳥が特定の時期になると土地に帰ってくることを知っていました。ですが、まさか海を越えていたとは思わなかったでしょう。朝鮮半島南部まで到達した彼らは、他部族との小競り合いから逃れるためにも、目の前の日本海を渡らなければなりません。この絶望的な状況に直面した時、生粋の農耕民だった彼らの心は、想像できないほどの不安に満ちていたでしょう。土地の海を知り尽くした部族が語る「この潮流に乗れば必ず新天地に着く」という言葉を信じるしかない状況下では、何の担保もありません。ですが、観察力に長けた彼らは、ここで海を渡る鳥に注目します。目の前に広がる海の彼方へ向かって飛び去る鳥の姿は、新天地があることを彼らに信じさせるには十分でした。こうして絶望的な状況下で、彼らは鳥が飛ぶ先には必ず新天地があると信じ始めたのです。
ここで「鳥が道を示す」という古い信仰が生まれます。神話でも、初代天皇として即位する神武天皇に関わる神武東征では、困難に陥って絶望する一行に、道を示す鳥が救世主として度々登場します。これらは海を越えてきた人々の記憶であり、その信仰を伝えた名残です。実際、海を渡って日本列島に到達した弥生人は、鳥の信仰を非常に強く持っていました。縄文人は土器に絵を描くことはなかったのですが、弥生人は土器に複数の絵を残しています。そこには鳥、船、海、太陽、祭祀など様々なモチーフなどがありますが、中でも船の帆先に鳥が止まり、行先を示す光景が描かれていることは象徴的です。乗員はその方向に従い、力が尽きるまで船を漕ぎ続けたのです。つまり、弥生人の土器絵画は彼らがルーツを大切にしていた証拠であり、海を渡ってきた祖先への深い敬意と畏怖が込められています。その祖先を無事に運んだ鳥は神格化されており、弥生時代の部族祭祀で祭主は鳥の装束を着用し、鳥になり切って神を奉祀する光景が土器に描かれています。
これが天つ神のひとつの起源です。同時に、日本神話には天つ神の聖地として[高天原](Takamagahara)が登場しますが、これは弥生人にとっては西遼河近郊の紅山文化の起源を表す聖地であり、理想化された故郷のことです。肝心なことは、弥生人たちがこの信仰を持つ頃には、既に失われた故郷だったことです。もちろん、高天原もどのルーツを持つ部族かによって聖地の位置は変わるのですが、少なくとも大部分の弥生人にとっては北東アジアであり、東アジア系の古墳人が登場する頃になると、今回は触れませんが西アジアに変移します。
ここまでで、天つ神である弥生人が雑穀の種子を持ち、海を越えてきた農耕民である姿が理解できます。ここで今一度、神話に戻ります。
神話によると、高天原の天つ神が葦原中国の平定を決議した時、大きく三段階に神々の派遣を分けたことが記されています。最初に派遣されたアメノホヒは、オオクニヌシに懐柔されてしまい、三年経っても復命せず、息子のタケヒラトリも同様に帰らなかったと記されています。そのため、第二としてアメノワカヒコに弓矢を持たせて派遣しますが、彼もオオクニヌシと九州北部の宗像大社の主祭神である女神との間に生まれたアヂスキタカヒコネの娘・シタテルヒメと婚姻し、やはり懐柔されています。8年間も音沙汰がないことに痺れを切らした天つ神は、様子を見るために雉に神格化した家臣を派遣するも、アメノワカヒコは天つ神から授かった弓矢でこれを撃ち殺してしまい、その矢は天まで届きます。ここで行き詰まった天つ神は、ついに武力を背景にした本格的な交渉使節団を派遣することを決議し、タケミカヅチとフツヌシという武神を派遣します。
さて、ここで武神が降臨する地が、古代日本の姿を伝えています。なぜならば、タケミカヅチが降臨した場所は、出雲大社近郊の稲佐の浜だからです。出雲大社は立地的に日本海沿岸の陸地に建立されており、古代神殿は高さが48mもあったことが伝えられています。ここで注目すべきことは、日本で旧暦10月を[神無月]と異称で呼ぶ古い慣わしがあることです。読み方は色々あったと想定されており、Kaminazuki, Kannazuki, Kamunazukiなどで、表記も歴史的に複数あります。ただ重要な点は、出雲国だけは[神無月]とは呼ばず、今も[神在月]と呼ぶ慣わしがあります。漢字の解釈から見ると、日本全国の神々が居なくなる月に、出雲だけ神々が居る月となるのです。要するに全国の神々が土地を留守にして出立し、出雲で集結する月ということです。そのため、来訪する神々を迎え、出雲大社で歓待する最古の神事である[神迎祭](Kamimukaesai)は、今も旧暦10月に行われます。
一度私も見たことがありますが、神迎祭は日が暮れた19時に真っ暗な稲佐の浜に、出雲大社の神職が焚く篝火だけが揺らめく古代の世界から始まります。文字通り周囲は真っ暗で、不気味な炎が立ち上り、その周囲に正装した神職が並び、静寂の中、波の音と祝詞だけが響き渡ります。この幻想的な世界の中で、神々は「海から来訪」します。神々は「天から降臨する」のではなく、「海から降臨する」のです。その降臨地が稲佐の浜であることは、相当古い時代の記憶を伝えています。上陸した神々を神職は迎え、ひっそりと出雲大社に案内されて、諸々の祭祀が行われていきます。出雲大社に限らず、古い神社で神々が移動するのは常に夜であり、神々は日の光を浴びません。話を聞いたある神社では、移築のために一時的に神々を別の場所に移す際にも、必ず夜に行う風習を今も行なっています。
稲佐の浜に降臨したタケミカヅチの姿は、海を渡って現れた人々を示唆しています。神話では、タケミカヅチは剣を逆さに立ててオオクニヌシに国譲りを迫っており、オオクニヌシは二人の息子が了承するなら構わないと返事します。ここで息子として登場するのが、コトシロヌシとタケミナカタという神です。コトシロヌシはこれまで相当調査していますが、既に起源が失われてしまっていることから実態が掴めず、おそらく奈良盆地中南部の古代ヤマトか、阿波国と呼ばれた徳島の在来の神です。タケミナカタは長野県諏訪市にある古社・諏訪大社の主祭神ですから、諏訪の神です。
この時、神話ではコトシロヌシは了承するも、タケミナカタがタケミカヅチに挑戦し、ここで初めて天つ神と国つ神側で衝突が起きています。結果、タケミナカタが敗北して敗走し、諏訪に逃れて幽閉されたと記されます。こうして国譲りは成功しますが、ここでオオクニヌシが隠れ籠るために天つ神が造営したのが、現在の出雲大社の起源です。古くは杵築大社と呼ばれており、出雲大社とは後世の呼称です。さらに出雲大社の造営が始まる時、天つ神は最初に派遣したアメノホヒを祭祀を担う責任者に任命しており、これが後に氏族の祖神となって現在の出雲大社宮司の一族へと繋がっていきます。このように、途方もない起源を古い神社は持っているのです。
ですが、前述の通り神話は数千年の歴史を圧縮しています。この一連の物語もそうした性質を持っており、複数時代の出来事が一つに圧縮され、複雑で多元的な世界を一つの物語として伝えています。これは私自身の調査で確信したことですが、海を渡って来訪してきた弥生人は、先住の縄文人との間に土地を巡る小競り合いは起きておらず、縄文人と弥生人は共生していました。実際、縄文人は部分的に定住していますが、基本的には季節ごとに動く狩猟採集民であり、生活範囲は山と海でした。季節の恵みを存分に生活に取り入れる縄文人にとっては、自然の実りがない広大な日本列島の葦原は、大部分が湿地環境でもあったため、生活に適した場所ではありませんでした。しかし、雑穀・芋・野菜の畑作を生活基盤に持ち、開拓技術を有する弥生人は異なります。むしろ縄文人にとっての非生活圏は、弥生人にとっての生活圏であり、故郷を失って移動してきた弥生人にとっては、縄文人が手をつけていなかった葦原は新天地に相応しい土地でした。
だから「国譲り」なのであって、奪ったのではないと神話はちゃんと伝えているのです。部分的に諏訪の神との間に武力衝突が起きたのは、当時の諏訪に固有の事情があったからですが、これは別の機会に書きます。
幾つかの考古学データを概観すると、縄文人の生活圏の空白を縫うように、弥生人が日本列島に進出した様子が伺え、彼らが葦原の使用を巡って協議したかはわかりませんが、少なくとも平穏な共生を実現した姿が見えてきます。この過程で互いに習俗の影響を与え合っており、縄文人が部分的に農耕を取り入れたり、逆に弥生人に山や海の幸を与えるようなことが起きています。また縄文人のような移動型の部族は、定住の弥生人にとっては特定の時期になると現れる神となります。
特に日本列島側で新たな部族であった弥生人は、縄文人が長年行ってきた土地の神々を鎮める祭祀を知りません。弥生人が新天地で豊かに長く暮らすためにも、その土地固有の自然の神々を奉祀し、祭祀を行うことは必須であったため、年に決まった時期だけ先住の縄文人に来訪してもらい、祭祀を行なってもらう代わりに、収穫物や酒で歓待したのです。私はこの時の両者の関係が、後に日本各地の鬼伝説や、来訪する神々の信仰として広がる起源だと考えています。
場所によっては縄文人と弥生人は混交しており、新たな時代を迎えています。この過程は数百年から数千年かけて起きたことですが、信仰や伝承も交差していったはずです。
このように、日本神話は単なる神道の根拠ではなく、遠い時代の日本人の祖先の記憶を伝えているように思えてなりません。なにより重要なことは、出雲国が繁栄を遂げた時代が縄文時代ではなく、弥生時代だったという考古学的事実です。実際、朝廷が編纂した古事記や日本書紀に限らず、他の文書などでも、元々出雲は繁栄に相応しい土地ではなく、悪の巣窟のように語られており、あまり人々が近寄るような場所ではなかったようです。このネガティブな印象だった出雲が転換点を迎えたのは、オオクニヌシが出雲国の指導者になった時ではなく、実はそれ以前の神話に遡ります。それがアマテラスの弟として登場するスサノヲです。
出雲の繁栄は、縄文と弥生の歴史的な交差が生み出した共同の産物ですが、同時に出雲が強力な王国にならざるを得ない、新時代の不穏な要因が背景にあった可能性があります。不穏な影は、やがてある時代に弥生人が日本列島から忽然と姿を消す直接的な原因となります。
一体、その不穏な出来事とは何だったのか?
そして出雲と深く関わるスサノヲとは何者なのか?
神話と古代史の交差には、未だ解明されていない先祖の記憶が宿っているのです。