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鳥取と縄文から弥生への転換点Tottori's Forgotten Role in Ancient Japanese History: Rethinking the Jomon-Yayoi Shift

今日は鳥取に来ています。現在では急速に過疎化が進む地域の一つとして知られる鳥取は、日本海側の山陰と呼ばれる地域に属しています。今では面影はありませんが、かつての山陰は出雲大社が建立されている出雲を含めて、古代日本の要所として中心を担った地域でした。

私が鳥取に来訪した目的は古代日本史の探究ですが、実は古代日本を探求していると、縄文時代から弥生時代の転換点の謎に誰もが突き当たります。これまでの説では、縄文は移動型の狩猟採集生活とみなされる傾向が強く、そこから弥生の定住型の水田稲作生活に変わったと言われてきましたが、個人的な調査を踏まえて、従来の定説に大きな疑問を抱いており、その自説の可能性を探るために今回は鳥取を訪れました。

しかし、この「謎の転換点」を知ることは容易ではありません。まず、縄文人も弥生人も文字文化を有していなかったことから、記録という形で伝わるものが何もないからです。そのため、考古学の膨大な資料を踏まえながら、土地に残る生活習俗や土地環境を考慮して、そこから神話を紐解く多角的な視座が必要となります。

そこで近年、「謎の転換点」を解明する鍵として急浮上しているのが鳥取です。地理的にも日本海側に面した鳥取は、古くから中国や朝鮮経由で日本に渡来してくる人々の玄関口として機能していました。彼らの主な渡来先は九州北部ですが、それ以外にも日本海側各地の伝承や神話を調査していると、直接何者かが九州を経由せずに渡来してきたことを考える必要があります。

一例を挙げるなら、日本神話の中でも日本人に最も知られている「因幡の白兎」があります。これは因幡(現在の鳥取東部)と島根県の出雲との古い関係を伝える神話ですが、神話によると、白兎は元々は島根県の離島・隠岐島に居り、ワニの手を借りて因幡まで海を渡って来たと述べています。

古事記の神話に登場する動物や虫は、日本独自の特徴があり、基本的に縄文時代の部族を後世の人々が神話表象したものです。この神話を端的に言うと、白兎に表象される隠岐島の縄文人が、ワニに表象された別の縄文人の力を借りて海を渡り、因幡に本拠を構えていたということです。この「隠岐島ー因幡」の深い関係性が、古代日本を読み解く一つの重要なファクターとなります。

ここで考えたいことは、なぜ隠岐島の縄文人は、郷里を離れて海を渡らなければならなかったのかです。そこで考えられる可能性の一つが、異なる渡来の人々が流入してきたことです。つまり、中国・朝鮮を経由して直接隠岐島に到来した新たな人々との関わりのなかで、隠岐島の縄文の人々の暮らしの場が変わり、海を渡って新たな地へ向かったと考えられます。

そして注目すべきことに、神話ではこの白兎の一声で因幡国の姫が誰と結婚するかが決まった話が語られることから、因幡地域で隠岐島の縄文人はかなりの力を有していたことが分かります。さらに新たな渡来人の存在を裏付けるように、鳥取は弥生時代にかけて無数の集落が形成、拡大しています。これは隠岐島に上陸した新たな渡来人が、続いて海を渡って因幡に到達したことを示唆しています。

例えば、鳥取県米子市東部にある淀江町の山麓地域に、弥生人の集落が分散的に形成されており、100年ほどかけて一帯に拡大した痕跡が発見されています。また現在は消失しましたが、縄文時代の山麓の側には日本海の入江が形成されており、弥生時代になると日本海側との繋がりが自然に堰き止められて、大きな潟湖が存在したことが確認されています。

この潟湖周辺の山麓一帯が陸海路の交差点となり、東西南北への交易の要所を担っていた可能性が高まっています。そして特筆すべき点として、この地域では縄文時代の初期から、既に隠岐島の縄文部族との間で交易が活発に行われており、海を隔てた海上交易がかなりの規模で行われていたことが出土品から推定されています。

その主な交易品が、隠岐島産出の黒曜石です。淀江町の遺跡からは隠岐島産の黒曜石が大量に出土しており、形成品に加えて加工前の状態も多いことから、鳥取側に黒曜石の加工拠点があり、そこで生産された黒曜石製品が各地に運ばれた可能性が指摘されています。また仮にこの隠岐島の黒曜石採掘と交易を主導していたのが白兎(隠岐島の縄文人)であったならば、早くから鳥取(因幡)側に強い影響力を行使できたことも理解できます。

さらに、米子市から東に進むと青谷上寺地遺跡があります。ここには大規模な弥生時代の集落遺跡があり、高度な木工技術を駆使した日用品などが出土しています。中でも、弥生人が水と木に関わる深い知恵を持っていた痕跡が示されています。その代表的な遺物が、今も使われるカゴです。この地域からは複数の弥生時代のカゴが出土していますが、どれも非常に高度な技術で編まれており、驚くべきことに一つのカゴの部分ごとに編み方を変え、それぞれ素材を変えて実用性を高めています。

特にこの地域特有のカゴの素材として用いられたのが、マタタビです。カゴには複数の木素材が同時に使用されていますが、鳥取の弥生人はマタタビの特性を理解して、巧みに使用しています。これに関する調査が以前行われたのですが、その時に在命するカゴ職人に弥生時代のカゴの複製を依頼し、製作してもらっています。その時に判明したことは、マタタビは水に浸けても性能が弱まらないことから、同地の弥生人が積極的に使用したことです。

この「水に浸ける」ことを前提とするカゴの用途としてこれまで考えられてきたのは、米などの穀物を研ぐ用途です。これにマタタビが最適だったのではないかと考えられており、この地域で弥生人が新たな日本での生活環境に順応するために、膨大な時間と労力を捧げた痕跡が見えてきます。

そして興味深いことに、この地域では今も伝統工芸としてマタタビを使ったカゴが編まれています。このことから、この技術は弥生人が発明したものであり、以後、2000年以上も継承されていたことが判明したのです。古い時代の知恵が、気付かないうちに文化になっていた代表的な事例といえます。

そして何よりも重要なことは、この青谷上寺地遺跡で発掘された弥生時代の建物跡から、驚くべきことが次々と判明して、従来の古代日本史を揺るがしていることです。何と、朝鮮半島北部の文化を携えた人々が同地に渡来していた可能性が高まっており、しかもその人々が3世紀頃に大和(奈良県南部)にまで移動して、大規模な政治の中心を形づくった可能性があるのです。

この点に関しては、また別途書くことにします。

Tottori’s Forgotten Role in Ancient Japanese History

Rethinking the Jōmon-Yayoi Cultural Shift