神武天皇の紀元前660年即位説(2)Emperor Jimmu's 660 BCE Accession: How the Date Was Calculated
天皇の万世一系の根拠である「神武天皇の紀元前660年即位説」について、さらなる洞察を示していきます。
前回の記事で、私は戦前に高まった「天皇の万世一系」説は、歴史事実ではなく、近代に入って成立したイデオロギーの一種だと示唆しました。今回は、その部分をもう少し見ていきます。
万世一系という天皇のイメージは、戦前から今日まで、長らく日本を支配してきました。しかし、日本初の天皇として知られる神武天皇の即位年代を「紀元前660年」に比定した説は、歴史事実に即した根拠のあるものではありません。
これは602年頃に百済の僧侶を経由して輸入された中国の暦法技術を、日本側が習得した後で初めて算出可能となる高度な技術のため、個人的には7世紀前半ごろに算定された可能性が高いと考えています。
その背景に関与しているのが、第33代・推古天皇(在位: 593-628)です。ただ推古天皇自体は為政者の隠れ蓑に過ぎず、実際に実権を握っていたのはフィクサーの蘇我馬子と聖徳太子です。この三者によるトライアングルが、日本初の大規模な中国化を促進した原動力でした。日本における仏教の普及は、このトライアングルがなければ頓挫していたでしょう。
中国を崇拝する三者は、特に政治的実権を持続的に確保するため、中国の皇帝システムから深く学びます。中でも注目したのが古代中国の「歴史書」の制作技術と、それがもたらす統治の絶大な効果です。
実際、日本最古の書物の一つである日本書紀(720年成立)の記載では、古事記(712年成立)や日本書紀が天皇主導の国家プロジェクトとして制作される以前、既に歴史書に相当する書物が日本で制作されたことが記されています。そしてその最初のプロジェクトは、推古天皇-蘇我馬子-聖徳太子によって行われました。
このことから推察できるのは、7世紀に中国の様々な先端技術が日本に輸入され、同時にその技術を理解し、扱うことのできる帰化人や、中国や朝鮮から招かれた知識人の力を借りて、一大プロジェクトとして日本初の歴史書の制作が行われた可能性です。
特に中国の歴史書は、古くから獲得していた高度な天文学と暦法算出の知見を積極的に活用して、歴代皇帝をはじめとする詳細な歴史の年代を算出しています。中でも強烈な影響を受けたのは、司馬遷(紀元前145-前86?)の執筆した『史記』です。これが、当時の日本の為政者にとって非常に魅力的だったのです。
つまり、7世紀前半頃に、帰化人や中国・朝鮮の知識人の力を借りて、中国由来の年代算出の技術を活用して、古い伝承で語られていた初代天皇である神武天皇の即位年代を割り出したのです。
日本書紀では、神武天皇が即位したのは「辛酉」の年だと記されています。これが基礎となり、明治時代の1872年に西洋のグレゴリオ暦(太陽暦)を国家的に採用した際、これまでの太陰太陽暦の算出方法が見直され、やがて「紀元前660年」へと比定されます。
ただし、それ以前から千年以上も使用していた日本の太陰太陽暦の年代を、西洋のグレゴリオ暦へ換算する動きが起きていました。特に明治期の「紀元前660年」説には、強い影響を与えた江戸時代の人物が二人います。
一人は、徳川幕府の儒教の官僚として活躍した新井白石(1657-1725)です。新井白石自身は儒教の教養が深い人物ですが、同時に『西洋紀聞』という書物を発表しています。同著には、鎖国時代に唯一開かれていた長崎港で、貿易を許可されていたオランダ人を経由して、学んだ西洋の知識が紹介されています。
考えられることは、新井白石がオランダ人から得た知識(特にグレゴリオ暦)を踏まえて、当時の太陰太陽暦で比定されていた神武天皇の即位年代を、はじめて「紀元前660年」と提唱した可能性です。
もう1人は、国学者の賀茂真淵(1697-1769)です。しかし、賀茂真淵は生粋の国学の学者であったため、どのように「紀元前660年」説を提唱するに至ったのか、その背景は不詳です。ただ彼は広範囲に学問を学んでいたため、新井白石の主張に影響を受けた可能性は考えられます。
このように、日本史における暦法技術の流れを見ると、少なくとも神武天皇の「紀元前660年」説は認めらないことが朧げながら見えてきます。やがて万世一系のイデオロギーが高まる第二次世界大戦前に、ついに驚異的な研究成果を踏まえて、「紀元前660年という年代が単なる歴史的事実ではなく、中国の天文学的な計算によって導き出された可能性がある」と指摘する人物が登場します。
今後、この人物について見ていきます。