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三種の神器の起源と『古語拾遺』Sanshu-no-Jingi

昨日の記事では、天皇が二人存在するという奇妙な南北朝時代の背景について見ていきました。鎌倉時代において台頭した武家政権に対する不満から、それ以前の時代に由来する皇室・貴族の復古を画策した後醍醐天皇。革命に成功して新たな政権が誕生するも、即座に武家との対立に至り、有力な足利尊氏の離反によって京都は二分化し、たった二年で天皇による政権は崩壊します。こうして京都を追われた後醍醐天皇側が奈良県吉野で「朝廷(南朝)」を樹立し、京都では足利尊氏が光厳天皇ー光明天皇を擁立して「朝廷(北朝)」を樹立したことで、二つの朝廷・天皇が存在して互いに争う時代に突入しました。

しかし、政治・武力の観点からも圧倒的であったはずの北朝側には、南朝を撃破することのできない厄介な問題を抱えていました。それが天皇の正統性の証明に関わる『三種の神器』の保持です。後醍醐天皇は京都を逃れる際に三種の神器を持ち出したことから、当時北朝側には三種の神器がなく、正統性を示せないことが、結果的に南北朝時代が50年も続く要因となりました。ではこの三種の神器とは何なのか?今回はそこについて見ていきます。

三種の神器の起源は日本神話に遡ります。そのルーツは、天皇の皇祖神に位置付けられたアマテラス(天照大神)が、孫のニニギノミコト(邇邇芸命)に三種の神器を授けたことに始まります。三種の神器は、『八咫鏡』『草薙剣』『八尺瓊勾玉』からなる三つの神の宝物です。簡潔に言えば、鏡・剣・勾玉ですが、これこそが古代より皇室に伝承されてきた皇位継承の証と位置付けられてきました。中でも八咫鏡については、アマテラスがニニギに託す際に、「この鏡を見ることはすなわち私を見ることと同じである」と述べた逸話があり、最も重視されています。この神話起源により、神器は天皇がアマテラスから継承した統治権の象徴と位置付けられ、神器を受け継ぐこと自体が皇位の正統性を保証する観念が古代から培われたのです。

この三種の神器については古くから様々に議論されており、この象徴がどのような意味を持つかについての考察も無数に行われています。その解義は常に時代ごとの天皇と結びつく様々なイデオロギーが介入しており、それぞれ象徴解釈に影響を及ぼしていることから理解は容易ではありません。たとえば江戸時代の神道家は神器を天皇の徳の表徴と捉えており、当時実権を有していた儒教の考え方と結合させて論じたり、明治以降の国家神道では神器が強い神聖性を帯び、皇室の正統性を担保する政治的シンボルとして再定義されています。

また「鏡=太陽(天)」、「剣=武力(軍)」、「玉=豊穣」など、三つで宗教・政治・祭祀の権威を統合するシステムだとする主張も行われています。このように論者ごとに異なる解釈を持つ点が厄介ですが、それだけ三種の神器の解釈は時代の性格を露骨に受けてきたということです。ある意味、三種の神器自体が歴史性を反映していると私は考えています。

ただし、本当に古代から神器は三つだったのか?

今でこそ正統な皇位継承者の証拠と言われる三種の神器ですが、元々はこのような形式ではなかった可能性が歴史的に指摘されています。例えば20世紀に入っても、道教研究者の福永光司は日本における道教の影響を考察する過程で、中国の道教的シンボルとの関連から「鏡と剣の組み合わせ」に注目し、古代日本においては剣と鏡の二種が特別に重視されたと主張しています 。つまり、『八咫鏡』『草薙剣』が古代日本の象徴であり、『八尺瓊勾玉』を元々天皇家は継承していなかった、あるいは皇位継承とは直接的な関わりがなかったという見方です。

そして実は、この見方は福永の独創ではなく、かなり古い時代から行われてきた歴史文脈に基づきく考え方です。その筆頭格として今回紹介するのが『古語拾遺』です。712年の古事記、720年の日本書紀から少し先の807年に成立した古語拾遺は、斎部広成(生没年不詳)という人物によって著された書物です。古語拾遺によれば、八咫鏡と草薙剣の二種が『天璽(皇位のしるし)』とされており、八尺瓊勾玉は「天つ神/天皇に服属する」象徴と位置付けられています。

しかし、なぜ斎部広成は古事記や日本書紀が成立してから100年程度経った頃になって、異なる古代日本の神話・伝承を公表する必要があったのでしょうか?

この背景には、古語拾遺を書いた斎部広成の系譜が深く関わります。彼のルーツは、古代日本で天皇に関わる神事を担う有力氏族の筆頭格でした。それが忌部氏です。元々は『斎部』ではなく『忌部』でしたが、広成の時代に読み方はそのままに姓を変えています。忌部氏は古代日本の有力氏族として絶大な影響を持っていましたが、彼らは渡来系部族にルーツを持ちます。

彼らは、古代日本の主に西日本を拠点に分散しながら様々な大陸由来の文化を持ち込みます。こうして関西へ移動する中で、やがて古代大和に存在した天皇と密接になり、大和において深く政治にまで関与する存在となっていきます。そのため、彼らが起源に位置付ける神は古事記・日本書紀にも登場します。忌部氏は日本神話のアマテラスの『天岩戸隠れ』において重要な活躍をするフトダマ(布刀玉命)を起源としており、その正統性を強く有してきました。しかし歴史が進むにつれて、朝廷内の権力争いが激化する過程で影響力を失い、徐々に歴史の舞台から姿を消します。ここで忌部氏を追い出したのが、同じく古代日本より神事を担ってきたもう一つの氏族です。それがShitsuraeで何度か紹介した中臣氏です。

中臣氏が忌部氏を事実上滅亡させたことから、詳細は歴史の闇に消えてしまいましたが、私が調査する限り、主に645年の大化の改新で中臣氏の系譜が朝廷での地位を高めて以降、特に古事記編纂の主導者である第40代・天武天皇(在位673-686)の時代になって、忌部氏は中臣氏によって排撃されていき、既に斎部広成が在命したと考えられる8世紀から9世紀初頭の時点では、忌部氏の勢力はかなり弱体化していたと考えられます。実際、古語拾遺は忌部氏という古代に起源を持つ氏族の正統性を主張し、絶大な地位を獲得した中臣氏に対して復権を図る性格も含有しています。なぜならば古語拾遺が成立した9世紀初頭は、既に平安時代に入っていたからです。

平安時代はこれまで伝えてきたように、中臣氏にルーツを持つ藤原氏の台頭により、事実上は藤原氏の執政が続いた貴族時代です。この時代の状況は不明瞭な点が多いのですが、斎部広成が古語拾遺を時の第51代・平城天皇(在位: 806-809)に献上していることにヒントがあります。この平城天皇(774-824)は平安京を樹立した桓武天皇の子であり、平城京から平安京への動乱期を生きた人物です。注目すべきことは、この平城天皇の母が藤原乙牟漏(760-790)だということです。

遡ると、藤原乙牟漏の父は奈良時代の公卿・藤原良継(716-777)であり、彼の父は公卿・藤原宇合(694-737)という『藤原式家』の開祖ですが、この父こそ藤原氏黄金時代を築く基盤となった政治の実力者・藤原不比等(659-720)です。つまり、藤原不比等以降の黄金時代を経て、権威も財政も弱体化した桓武天皇は、台頭した藤原氏の影響を無視することができなくなり、藤原氏から皇后を迎えざるを得なくなったということです。事実、桓武天皇から皇位継承した平城天皇も、同じ藤原式家から皇后・藤原帯子(?-794)を迎えています。

あくまで個人的な考察に過ぎませんが、平城天皇は政治の実権を掌握する藤原氏に対する不満を抱えており、自らが単なる操り人形に過ぎない状況に辟易していたと思われます。そこで中臣氏ー藤原氏に対抗する勢力として、古代日本より正統性を有する忌部氏の復古を画策した可能性があります。実際、斎部広成が古語拾遺を著したのは80代になってからとも伝えられており、藤原氏台頭を背景に天皇、そして旧勢力となってしまった忌部氏の復古が目論まれた可能性はあります。

ただ時代は藤原氏の黄金時代。彼らは為す術もなく最後の抵抗を試みますが、それ以降は忌部氏は中央政治の舞台から姿を消します。斎部広成はその最後を生きた人物であり、自らの系譜が古代より連なる正統性を持つ氏族であることを知らしめるために最後の力で書いたのが、古語拾遺だということです。

では皇位の証明は三種の神器ではなかった古代日本の可能性は、単に忌部氏によって主張された異説に過ぎなかったのか?実はもう一つの中央政治から追い出された古代の有力氏族が記した書物にも、異なる神器の存在が示されているのです。次回は、この氏族の主張した神器について考察していきます。