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徳島の古代海人:海部氏と長国の遺産Ancient Seafarers of Tokushima

今日は徳島南部沿岸にある太平洋に面した海陽町に来ています。海陽町は2006年に三つの町を統廃合して誕生した市町村名で、私が来訪した場所は以前は海南町と呼ばれており、その名残はいまも看板など随所に残っています。この地域で最も有名なのは、お遍路を開いたと伝えられる空海が悟りを開いた高知県室戸岬の洞窟ですが、海陽はそこから約50キロほど沿岸を北上した場所にあり、空海よりも遥かに古いルーツを持つ特筆すべき地域です。

今回ここに来た理由は、現在私が最も注力している日本の海洋を往来して強い勢力を誇っていた海人の痕跡を知る上で、欠かすことのできない重要な地域だからです。それが現在の徳島県海部郡として地名にも残っています。この「海部」の読み方は多々あり、よく知られるところでは「あまべ」ですが、この地域では「海部」と書いて「かいふ」と読む特殊性を持っており、民俗学の調査によれば、起源は「あまべ」(海部)にあると考えられています。

この地域に暮らした人々の起源は定かではありませんが、徳島県北部の吉野川流域を中心とする古来の国である「阿波」とは区別され、南半分のこの地域は古来から独立的な勢力を保ってきました。それが「長国(ながのくに)」です。実際、徳島市から沿岸部を南下して海南方面へ向かう道中では、古い言葉の響きを残す地名に数多く出会います。例えば、「那賀(なか)」「日和佐(ひわさ)」「阿南(あなん)」「牟岐(むぎ)」「宍喰(ししくい)」「那佐(なさ)」などの独特な地名の美しい響きは、今の耳には不思議に響く呼称ですが、これは古代の海人が使用していた言葉に由来するからです。これらは海部氏たちがこの地域を支配していたことを示す証左のひとつでしょう。なぜならば、最後に残るのは言葉や地名など形の残らない文化だからです。

海南の太平洋に注ぐ海部川(かいふがわ)を眺めながら書いていますが、その川のほとりの小山に本拠を構えていたのが戦国時代の海部氏(かいふし)です。実際、川沿いの高台には古代の城跡があり、そこからは太平洋一帯と阿南方面、さらには背後に聳える峻厳な剣山までを一望できます。この立地は古来より、剣山から北部一帯の阿波勢力が南下してきた場合や、海路を伝って訪れる来訪者を厳しく監視するのに最適でした。そして戦国時代よりも遥か昔、古代の海人が本拠にしたのが、それより少し南の小山です。

現在は過疎化が進み、時代に取り残されたような鬱蒼とした地域になってしまいましたが、実はこの地域に古来より暮らしていた人々の記録は、最も古い日本を記した史料にも登場しています。それが『魏志倭人伝』です。『魏志倭人伝』は、邪馬台国の女王・卑弥呼に謁見するまでの行程を記している中国側の史書ですが、登場する国々の位置は未だ様々な理由から定説がなく、論者によって見解が大きく分かれています。しかし地名の残存や文化の痕跡に注目すれば、その一つの国はこの海南地域を指している可能性が高いと考えられます。

古い海部氏の本拠とされる丘に登ると、網代岬から出羽島、小津島、津島などが一望できます。もし古代の海人たちがこの地を占有していたならば、黒潮に乗って移動する他の海の人々にとっては最大の関門となる存在であったはずです。そしてこの一帯に広い海岸が広がり、後方に霞む無数の山脈の尾根を望む景色は、どこかで見た景色を彷彿とします。それが熊野です。和歌山県南部の新宮市の熊野灘から後方を見ると、こちらも紀伊山地の尾根が連なる光景ですが、海南の景観と非常によく似ています。海南から新宮までなら、海を渡れば往来可能ですから、かなり関係性が強かったかもしれません。

また徳島にも古墳は点在しており、阿波側からは大和王権に直結するとされる前方後円墳は確認されていましたが、この海南など一帯の海部郡(かいふぐん)からは未発見でした。そのため徳島と言うと阿波国ばかりに注目が集まり、長国側は全く注目が集まらず、短絡的に「強い王権を持たなかった地域」とされて無視されてきました。しかし2023年秋、高速道路建設に伴う事前調査で、偶然海南の小山山頂部から複数の古墳が発見され、その中に前方後円墳も含まれていたことが判明しました。

ただ、歴史的に長国側がほぼ無視されてきた悪影響から、この保存には積極的な動きが見られず、現在も保存をめぐって議論が続いているようですが、すでに複数の古墳を破棄することが可能性として上がってきています。もし、少しでも調査・保存が進めば、この地域を治めていた海部氏と大和王権との関係性を再評価する必要が出てくるでしょうし、彼らの海を使った動きが、いかにこれまでの古代日本史の観点で軽視されてきたかのカウンターになるはずです。いわば古代日本史の総合的な見直しが、全体的に必要になるほどのインパクトを持ちます。もしかすると今後建設会社に潰されるかもしれないので、今日は獣道を登って発見された山頂部に行ってきました。

そしてもう少し現実的に言えば、この地域を考える上で重要なのは南海トラフ巨大地震の存在です。四国南岸は古来より繰り返し南海トラフ巨大地震による津波に襲われており、集落が幾度も壊滅しています。実際に沿岸一帯には、江戸時代や昭和の南海トラフ地震による津波到達点を示す石碑が点在しており、後世に「これより海側に住んではならない」と戒めています。石碑は数百年を経ても残る有効な伝達手段であり、来たる巨大地震の際には、いま目の前にある穏やかな海が一瞬にして津波と化し、再び文化や痕跡を海に流し去る可能性があるのです。ある意味では、歴史や文化は海に還るものであり、その循環の中で人々の営みが築かれてきたのだとも言えるでしょう。

こうしたことから、調査の優先を多角的に検討して行っていますが、仮に南海トラフ巨大地震が起きて、この地域が壊滅してしまうと、古代日本の海人をめぐる議論はさらに遅れてしまい、未来永劫解明される機会を失うかもしれません。