AIと述語制界域・主語制界域Personal Philosophical Reflections on AI
元OpenAIのビジョナリストだったダニエル・ココタジェロによる『AI2027』が発表されて以来、急速に迫るタイムリミットに対して様々な議論が始まっています。では一体、ここで提示されている2027年7月に架空の企業OpenBrainが実現するAGI以降、AIは人類を全て淘汰していくのでしょうか?この点について実現するか否かでは私の関心ではないため、独自の観点からAIについて見ていきます。
多くの人々同様に、私自身も日々AIを仕事や私事で積極的に活用しています。主に映像、画像、音楽がメインですが、それぞれのAIには固有の癖があるため、常に複数のAIサービスを利用して調整し、日々の創作力と速度をAIのアップデートに応じて高めています。先ほど現時点でどの程度使っているか数えたら、大体15サービスを併用して日々活用していました。この分散型のAI利用によって、今週生じたOpenAIの世界的downなどの事態が起きても、即座に別のAIを利用して制作が滞らないようにしているのですが、AIに関して英語圏の読者と異なる点は多岐に及びます。
まず、私が最も重点を据えていることは、AIは『主語制言語』によって稼働しているということです。これは元々、歴史的にプログラミングの基本言語が英語であることに由来していますが、そこに必然的に生まれる大きな問題として日本語との言語構造の違いがあります。詳細を省いて簡略すると、英語の基本文型の一つである『主語ーコプラー述語/補語』や主語を用いた構文を、日本語は必要としない言語です。これに関して私が最も敬愛する哲学者の山本哲士は、日本語は『述語制言語』だと述べています。ここでは理解を容易にするために、主語制言語様式から生まれる『主語制界域』、述語制言語様式から生まれる『述語制界域』として位置付けていきます。言うならば、言語様式が異なるということは、その界域に生きる人々の思考方法や過程、そこから生み出される文化や歴史など全ての観点に影響するということです。個人的には、ここに地域ごとの独自性が歴史的に生まれてきたと考えています。つまり、主語制界域と述語制界域は根本的に異なります。そして英語も近代以前は主語制言語ではありませんでした。私は英語が主語制界域を世界で最も強固に樹立できたことが、英語圏が数世紀にわたり世界に広く影響を及ぼしてきた源泉のひとつだと考えます。
そして述語制界域には、主語制界域から生まれる主語・主体・主観・自我・自己が存在しません。ここを哲学的に見ると『主体ー客体』や『主観ー客観』の二項対立的な関係は存在せず、述語制界域には対象物という概念自体がありません。つまり、存在論自体がないということです。噛み砕いて言えば、主語制界域は『分離』をコードに持ち、述語制界域は『非分離』だということです。これは全てにおいて物事が分離しないということですが、これこそが日本文化や哲学を理解する要点であり、日本語の思考が歴史的に育んできた特質の源泉です。神道で言えば『musuhi(musubi)』です。多くの方々が関心を持つ日本の禅なども、全てはこの観点から理解することで新たな境地に至ります。逆に言えば、主語制言語で考える人が禅に関心を持つ場合、論理的に理解できずとも、直感で主語制界域の問題に気付いているということです。
ここを前提すると、日本語のような述語制言語を使用する日本人にとっては、主語制界域の優れた技術の結晶であるAIを使う際には異なる注意が必要となります。この言語構造に由来する界域の差異への理解不足が、2000年代以降になって極端に日本がテクノロジー後進国に衰退した大きな要因だと考えています。逆に言えば、1990年代までの日本人がテクノロジーの扱いに長けていたのは、この述語制界域という文化資産から西洋のテクノロジーを洞察する力があったからです。この主語制界域の文化・技術などを述語制界域に翻訳してリミックスする能力こそ、日本人が他国の文化を受容することに長けたと考えられている根本的な理由です。それはアニメなどにおいて象徴される鉄腕アトム、攻殻機動隊、エヴァンゲリオンなどにおいても見事に現れています。
もちろん、ここは多面的な考察が必要ですが、今回の文脈に限って言えば、バブル経済崩壊の過程と共に、日本人がそれまで有していた述語制界域の能力を喪失したと言うことです。実際、1985年のプラザ合意を境にバブル経済に突入しましたが、日本は1989年のベルリンの壁崩壊、1991年のソ連崩壊という大きなグローバリゼーションの流れと、1995年のWindows95のデジタルテクノロジーの流れという今日に連なる二つの大きな潮流に乗り遅れて停滞します。これは私自身がこの時代に育ってきた経験からも理解でき、日本では『失われた30年』と呼ばれています。
かつての日本の大失敗から学んだ私は、日本人の能力を述語制界域において思考することだと捉えています。この境地で思考できることによって、分離思考とは無縁になるのですが、ここで勘違いされやすいのは『統合』という概念でもないことです。医療などでも統合医療などと使われますが、統合とは分離を前提にした主語制界域に特有の概念です。
話を戻すと、この日本人の強みを理解している私は、主語制界域が生んだ技術のAIにプロンプトを指示する際、必ずこの言語構造の差異を誰よりも意識しています。そしてプロンプトは述語制言語ではなく、必ず主語制言語によって打ち込みます。これはプログラムにせよアルゴリズムにせよ、主語制言語でAIは稼働するからです。つまり、AIは述語制界域の雰囲気を理解することはできても、構造上は主語制界域によって思考するため、述語制界域の思考や哲学を掴むことが困難なのです。ここにShitsuraeで何度か述べている、本質的に翻訳不可能な日本思想の問題が浮上します。
この『述語制言語⇔主語制言語』の転換は二つの界域を往来する思考技術なのですが、これによって私が日本語で思考して生み出すアイデアを、巧みに主語制界域を通して創造に結びつけることができており、その最大のパートナーとなっているのがAIです。そしてこの構造差異を誰よりも理解していることによって、稀有な表現が加速的に可能となります。なぜならば、私は全ての表現を述語制界域で行い、それらを主語制界域に『表現の翻訳』を行うという、他では見られない制作方法を採用しているからです。これにより実践していることは、主語・主体・主観・自我・自己の発現を最小限に抑止することです。
主語・主体・主観・自我・自己は『表現の翻訳』時に生まれることは避けられませんが、この自覚が徹底していれば、その影響を最小限に留めることができます。
この基礎的な観点から改めて『AI2027』を見ると、やはり主語制界域から発表されていますので、AGIの登場によって「AIが人類を滅ぼす」や「AIと人類の共存」などの分離思考から未来が考えられていることが明瞭となります。しかし述語制界域で思考する私から見ると、これはAIだけの問題というよりも、むしろ包括的に近代以降に発展してきた主語制界域が完全に行き詰まり、逆流を始めた大きな反動的な一歩に見えます。それを私は特に、主語制界域が強く働く場所で暮らす若年層のアイデンティティ・クライシスに見てきました。本来、これは主語制界域特有の問題であり、主語制言語の圏で特に顕在化している現状を鑑みると、限界に達した主語の研磨・研鑽を、再び述語制界域へと溶解していく新たな潮流の象徴に思えるのです。無論、これは私たちの寿命範囲で結果が見えることはなく、今後数世紀、数千年をかけて移行するものですが、極端に言えば『母体に還る』ということです。ただし、そこまでAIが待ってくれるとも思えないため、この激変が摩擦となり、世界的問題へと現象化しているのが2020年代中期と言えます。
そしてこの潮流を遡ると、1990年代後半から2000年代初頭の日本の若者に行き着きます。そこには露骨に自殺、ひきこもり、自分探しという社会現象が関連しています。私はこの時代のバブル経済崩壊とグローバリゼーション、さらにはITの進歩という複雑な世界的潮流に伴い、述語制界域から主語制界域に強制移行しようとする過程が日本で起きたと考え、そこにおいて日本人の精神が引き裂かれたと見ています。しかも、この移行過程は大失敗したと考えています。なぜならば、この移行は言語が創出する界域に由来するため、述語制言語で考える限り、本質的に主語制界域で生きることはないからです。つまり、今も述語制言語で考える私たちは述語制界域で生きながら、なぜか別の層において『偽装した主語制界域』が世界だと信じさせられており、そこにおいて裂けているのです。そしてこの偽装を正当化し続けているのが日本社会であり、源泉を辿れば江戸時代の朱子学に行き着きます。そしてこのズレを生み出して日本人を苦しめている根は、実は近代日本のアカデミックにおける言語学の歴史にあります。
そして重要なことは、1990年代の変動期に最後の述語制界域から発表された遺産、それが攻殻機動隊だったということです。その対比となるのは同時代に始まったエヴァンゲリオンです。攻殻機動隊の原作漫画の発表は1989年ですが、アニメーションで言えば1995年10月4日にテレビアニメで始まった『新世紀エヴァンゲリオン』と、翌月11月18日から劇場版で始まった『攻殻機動隊』は時代を象徴する出来事です。なぜならば攻殻機動隊は述語制界域を強く有していますが、エヴァンゲリオンは主語制界域に足を踏み入れており、そこにおいて述語制界域との格闘が始まっているからです。これはシリーズを通じて碇シンジが主語制界域から述語制界域の母体に還るストーリーとなっており、非常に高度なクリエイティビティが発揮されていると私は評価しています。
では一体、なぜ述語制界域からの表現が世界的に求められるのか?その鍵は主語を溶解することによって、テキストメディアで言えば著者と読者の間にある分離した関係を解消し、そこにおいて直接『熱』を感じることが可能となるからです。このキーワードとなる『熱』は、かつて日本では『気』と呼ばれていました。つまり「気」を主体から客体へ伝える主語制界域の視座ではなく、気という非分離の場所において主客の存在しない述語制界域を創造すること。これこそがAIが大進化する時代に人間が為すべき重要なファクターの一つだと私は考えています。日本哲学に馴染みのある方なら、この思想には西田幾多郎の説いた『絶対無の場所』の概念が踏襲されていることに気付くでしょう。
今後も必要であればこうした考察を随時開示しようと思いますが、ぜひ読者も一度、従来のAIによる人類滅亡や共存などの二項対立した考え方を忘れて、この視座から凝視してみてください。その時、もしかすると奇妙な感覚に至るかもしれません。なぜならば、その時にあなたは「ある機能」を使わなくなったからです。
それが脳です。ここにAI同様に、私が最も関心を寄せているサイケデリックの日本哲学からの考察があります。『AIと人類』、この分離が溶解するまで残された時間は少ないかもしれません。
主語制言語: subjective language mode
述語制言語: predicative language mode
主語制界域: subjective realm
述語制界域: predicative realm