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アナログ回帰ともののあはれ、エモいFrom Mono no Aware to Emo-i

この10年ほど、世界の若者文化でフィルムカメラ、レコード、紙の書物といったアナログメディアの回帰が注目されてきました。その背景には単なる懐古趣味を超えた社会的・文化的文脈があります。実際にレコードやフィルムのようなアナログ技術のルネサンスが起きたことで、全てがデジタル依存化する日常からの部分的な解放として、アナログはオルタナティブな選択肢として称賛される動きが見られます 。

文化評論家スーザン・ソンタグは「記憶とは物語を思い出すことではなく、写真というイメージを呼び出すことになりつつある」と指摘していますが、新時代のビジュアルコミュニケーションの鼓動が始まっていることを示唆しています。これは現代人の記憶が次第にデジタルな記録に依存しがちだということですが、人類史を通じてこのようなことは初めて経験するため、適応できているとは言い難い事実もあります。ゆえに初期的な反動として、あえて不便で手間のかかるアナログに惹かれる人々が急増し、『完璧に保存された記録よりも心に残る体験』を求める見えない渇望が世界的に現れています。批評家マーク・フィッシャーは、デジタル化によって「喪失を経験する可能性」そのものが失われたと論じ 、人々がフィルム写真の粒子やレコードのノイズといったアナログの「痕跡」に惹かれるのは、永遠に劣化しないデジタル記録にはない時間の経過と喪失の感覚をそこに感じ取るためだと指摘しています 。このように文化論者たちは、アナログ復興を単なるノスタルジーではなく、人々の記憶や情緒に関わる深い欲求の表出として正しく捉えてきました。

この潮流を私なりに言い換えると、『記録より記憶に残るもの』を尊ぶ感性と言えます。そしてこれは、日本文化において古くから共有されてきたものです。まだ写真も録音もなかった時代から、一度きりの出来事に宿る美しさが重んじられ、それが独自の文化創出に繋がってきました。たとえば茶道には『一期一会』という重要な理念があります。この「一期」とは一生涯、「一会」はただ一度の出会いという意味です。たとえ同じ相手と何度茶席をともにしても、まったく同じ瞬間は二度と巡ってこないという教えです 。

伝統芸能の世界でも、かつて舞台は映像や音声に記録されることなく、観客の記憶の中だけに生き続けました。そしてこれは人間同士の関係に限らず、自然でも散り際の桜や、夕暮れに一瞬焼ける雲、祭りの宵の余韻など、そうした言語化できない二度と戻らない情景に人々は古くから心を揺さぶられてきたのです。この情感自体は今も変わっていません。別な言い方をすると、「形に残らないからこそ心に残る」という逆説的な美意識が、日本文化には脈々と息づき独自の精神を形成してきました。

この日本特有の感性を象徴する概念が『もののあはれ』です。「物の哀れ」という言葉は平安時代の文学で使われ、江戸時代の国学者・本居宣長が美学の理念として明確に定義しました。宣長によれば「もののあはれ」とは、人が自然や人事の様々な姿に触発されて発する深い感動のことであり、「もののあはれを知る」とは、そうした刺激に対して最も人間らしく優しい情感を抱き取る心の働きを指します 。これは教訓や理屈ではなく、心がしみじみと動かされるままに対象の本質を感じ取る力です。

そしてこの感性の背景には、「すべてのものは移ろいゆく」という仏教の無常観も深く影響しています。14世紀の随筆『徒然草』の中で吉田兼好は、「満開の花や澄みきった月そのものよりも、散りゆく花びらや雲間の月にこそ趣がある」と述べています 。永遠に変わらない不変的なものばかりなら人の心は動かない、散る桜や、やがて陰る月をこそ人は愛おしく思うと述べています。これは「儚さ」として概念化されていきますが、この儚さへのまなざしこそが「もののあはれ」の核であり、永遠の完全さを尊ぶ美の理念とは異なる、移ろいに寄り添う情緒のあり方だと言えます。

「もののあはれ」の歴史的な美意識が如何に深く日本人に根付いているかについては、現代に形を変えて現れた現象からも理解できます。例えば、若者言葉として生まれた「エモい」はその代表例でしょう。“エモい”とは英語の emotionalに由来する俗語であり、胸が締め付けられるように感情が高ぶり、言葉にし難い余韻が心に残る様子を指します 。美しい夕焼けを見たときや、懐かしい音楽に浸ったとき、あるいは粒子の荒いフィルム写真を手にしたときに「エモい…」と感じる心の震えが、概念化されたものです。その源流には1980年代の米国のハードコア・パンク・シーンで生まれた「emo(emotional hardcore)」の進展があるように感じますが、日本では2000年代頃から音楽ファンや若者のネットスラングとして「エモい」という言葉が使用され始め、2010年代以降に映画・写真・風景・思い出などに適用範囲が広がり知られるようになりました。そのため、同じ言葉でも文脈はかなり異なります。

実際、この10年ほど「エモい」という“エモーショナル”な体験への憧れが過度なデジタル社会に生まれた若者の間に広がりました。ブームの先駆けとしては「写ルンです」(1986年に発売された使い捨てフィルムカメラ)の再ブームや、ピントの甘いぼんやりとした写真が一気にソーシャルメディアで隆盛したことが挙げられます。特に私と同年代の写真家・奥山由之が「写ルンです」を使用して2015年末頃から次々と作品を発表したことが大きな影響力を持ちました。また世界的に評価されている写真家・川内倫子もこの文脈で影響力を持っています。

この現象は高性能なスマホ全盛の時代にあって、デジタルの鮮明さや便利さよりも不完全だからこそ想像を掻き立て、共感を呼ぶものに価値を見出していると捉えることができます。その感覚は、まさに「もののあはれ」の現代的再解釈です。今やソーシャルメディアで何でも残せる時代になりましたが、あえて残さないことの贅沢、完璧ではないからこそ心に染みる瞬間、これらを見事に言語化したエモいという言葉の流行は、単なる新たな造語なのではなく、デジタルネイティブ世代が心のどこかでアナログ的な情緒を求めていることの証左です。

デジタル技術が発達し、私たちはあらゆる瞬間を写真や動画で記録し蓄積できる新時代を生きています。それでもなお、人はフィルムの粒子が醸す懐かしさや、一夜限りのライブの余韻、記録には残らない微かな感動を求めずにいられません。私はエモいというデジタル時代の感性を『記録媒体でありながら記憶強度を持つ曖昧な領域に生まれる侘び寂び』と解釈しており、哲学的にも考察の余地が存分にあると感じています。

最後に、デジタル全盛期に生きる私たち一人ひとりに問いかけてみたいと思います。「なぜすべてを残さないことが、かえって心に残るのか?」。この逆説にこそ、アナログ回帰や日本古来の美意識が伝える大切なヒントが隠されているのではないでしょうか。