古代若狭の信仰に走る天つ神と国つ神の裂け目Ancient Wakasa Faith Rift Between Amatsukami and Kunitsukami
今日は若狭西部の東小浜に来ています。この地域は、古くから古代日本の都であった大和、そして続く京都に向けて、若狭湾沿岸部で獲れる海産物などの物資を運ぶための最古の道です。特に若狭ー京都ルートの難所である針畑峠を越えるルートが早くに開かれたことで繁栄の歴史が始まり、以来、複数の大和・京都へのルートが作られても要所として重宝されてきました。
また東小浜は南北へ延びる大和・京都へのルートに限らず、越前・若狭(特に敦賀)から丹後の田辺(京都府舞鶴市)・宮津(京都府宮津)の日本海側を結ぶ東西の丹後ルートが交わる結節点でもあり、古くから人の往来が盛んな地域の一つでした。しかし、実は人が道を拓く以前に、このルートは自然現象によって形成されていました。
地形を詳細に見ると、昨日見た三方五湖の東部側にある気山津から、南の熊川宿に向かって『三方断層』が延びており、一方で若狭湾に面した小浜から熊川宿へは熊川断層が延びて、熊川宿が二つの断層の結節点となり、そこから琵琶湖西部の山間地帯に沿って京都府中心地の左京区まで『花折断層』という50km以上の断層が延びています。この経路は特に内陸部で新鮮な海産物を食べることのできなかった京都において、若狭の魚を京都に運ぶための主要ルートとして機能し、のちに若狭の名物である鯖に因んで近年は『鯖街道』として知られるようになります。しかし、それよりも遥か以前から、断層によってこの道が形成されていたのです。これも、794年に都が京都盆地に選定された理由の背景にあります。つまり当時の京都繁栄を支えた一翼は、この若狭にあったということです。
以降の時代もこの鯖街道を通じた海産物の関西圏への流入は大規模に発展しながら継続され、京都に良質な海産物を流入する最重要拠点として若狭は発展します。このため、平安時代には京都の朝廷に海産物を貢ぐ『御食国(みけつくに)』と呼ばれて京都食糧事情の『海』を支えてきた歴史を持ちます。現在も京都市内では魚介類の保存食の知恵を活用した名物が多々ありますが、これらは若狭の関係から生まれたものです。
そしてその重要な場所であった東小浜の地域には、最古の大和・京都へ向かうルートの痕跡が今も残されており、その経路の入り口には二つの神社が建立されています。神社の位置は現在の『遠敷川(おにゅうがわ)』の西部の山麓にありますが、地形図などを照らし合わせながら歩いていると、古くは神社付近まで遠敷川が延びていた可能性があるように感じます。また現在でこそ『遠敷川』と書きますが、古くは『小丹生川(おにゅうがわ)』と書いたようです。いつ頃漢字が変わったかは不詳であり、推定では江戸時代と言われていますが、どうも付近では『小丹生』という呼称が古くはあったようです。
『丹生(Niu)』とは赤色鉱物の『水銀朱・辰砂』のことを表す古名であり、若狭に限らず水銀朱の産出地である和歌山高野山では女神として神格化されながら今も神社が残っています。さらに徳島を調査した時にもこの信仰があり、実際に水銀朱が古代徳島より大和などに運ばれていたことも判明しています。また読み方は土地ごとに転訛していますが、高野山では『小丹生(おにふ)』、若狭では『小丹生(おにゅう)』、さらに東部の敦賀には『小丹生(こにゅう)』という敦賀半島東部地域一帯を指す地名として残っており、かつてここに面した敦賀湾を『小丹生浦(こにゅううら)』と呼んでいました。さらにこの敦賀の小丹生は東に『丹生山地(にゅうさんち)』、北に『大丹生浦(おにゅううら)』、南は音の名残だけを残して『大味浦(おおみうら)』と呼ばれ、若狭ー敦賀でもそれなりに水銀朱が取れた歴史を象徴しています。
この二つの神社は『若狭彦神社』と『若狭姫神社』です(『ヒコ』=男神、『ヒメ』=神)。地理的に見ると、麓側に若狭姫神社、そこから1.5km南下した山間部に入る地域に若狭彦神社が建立されており、古くから二つの神社として切っても切り離せない信仰を集めてきました。
この若狭姫とは『若狭の姫神』を表しますが、かなり古くからこの女神はトヨタマヒメ(豊玉姫)と同一視されて習合されており、若狭彦はトヨタマヒコ(豊玉彦)と同一視されています。そのため、起源的にはこの理解が1000年以上信仰されていたようですが、面白いことにこのトヨタマヒコ/トヨタマヒメのルーツは南方起源の海の神にあります。
古事記・日本書紀でもこの神は登場しますが、神話によると海の神がワタツミ(綿津見大神)で別名をトヨタマヒコと言い、その娘がトヨタマヒメとなります。トヨタマヒメは神話では初代・神武天皇の父であるウガヤフキアエズ(鵜葺草葺不合命)の母にあたる女神ですが、このトヨタマヒコ/トヨタマヒメ信仰のルーツは琉球(現・沖縄)にあります。また若狭姫神社付近は現在は完全に陸地化していますが、地形図を見ると縄文海進などが起きていた太古の時代には、小浜から若狭湾、あるいは別の古い河川が一帯に広がっていたと考えられます。私自身、各地の姫神を調査していると、どうも水=川の信仰と近い関係にあることを感じてきましたが、どうやら古くは若狭湾の小浜まで船で到来した海を行き来する部族集団は、そこから入江を伝って河川(おそらく現・遠敷川)を遡上して、まず若狭姫神社、続いて若狭彦神社に参拝していたことが考えられます。若狭姫神社境内には樹齢300年以上の杉が今も残っており、非常に厳粛な古代信仰の面影を残す場所に感じます。
さらに付近の喫茶店におじいさんたちが集まっていたので話を聞くと、若狭彦神社の改修工事を行うために、昨年に若狭彦/トヨタマヒコの引越しが行われたとのことでした。その当時の話では、土地に伝わる古い信仰や言い伝えから、この神を日光にさらしてはいけないとされており、この神の引っ越しは夕刻から神事が始まり、そこから神主や地元の氏子たちが夜間に行列をなして若狭姫神社まで1.5キロを歩き、そこに仮宮を設けて一時的に祀っているそうです。今年10月に修理が完了すると、再び引越しの神事が行われるそうで、また夕刻以降に行われると話しており、この地域には非常に古い神の信仰が残っていることがわかります。
なぜ若狭彦神社の祭神である若狭彦/トヨタマヒコを太陽の下にさらしてはいけないのか、それについては地元の人たちも理由がわからず、古くからそう言い伝えられているということ以外には何も知りません。その話を聞いていると、もしかすると太陽信仰に対抗して、古い部族が神を太陽に晒すことを避ける習慣を持っていた可能性があるように感じます。現在、日本の神道における太陽神は皇祖神のアマテラス(天照大神)に固定されていますが、これは密教が空海によって日本にもたらされて以降、神仏習合を経る過程で太陽の象徴としての大日如来に天照大神が習合されたことに由来します。これを『本地垂迹説』と言いますが、それ以前にはアマテラスを太陽神と同一視する考えは一部にしかなかったと考えられます。実際、古くは『アマ』という日本の音は海を指しており、主に海の彼方から訪れる『来訪神』の存在、そして航海安全や漁業の繁栄を司る場所特有の国つ神信仰に由来していたと私は考えています。
現在も漢字表記ではアマテラスは『天照』となっていますが、この意味は『天を照らす』ですが、これが『天を照らす=太陽』信仰を象徴するようになったということです。しかし、古来の観点ではこのアマテラスは『海照=海を照らす』と書くのが正しく、音は同じですが漢字表記によって性格が大きく変様した象徴的なケースといえます。つまり、アマテラスは元々は伊勢沿岸部の部族が『海を照らす神』として奉祀する神であり、太陽信仰とは直接的な関係を持っていませんでした。
そしてアマテラスは『天つ神』、トヨタマヒコ/トヨタマヒメは『国つ神』です。つまり、どこかの歴史の時点で、アマテラス側が神格化される過程で、国つ神側の海の神信仰に影響を与え、天つ神側の海の神は天上界の神に変様して太陽と統一視されたため、国つ神側の海の神は太陽を禁忌するような習俗がどこかで生まれた可能性が考えられるのです。この点は今後、奄美や琉球を調査しないと解明できませんが、古い伝承が若狭に継承されていることを考えると、何か天つ神と国つ神の裂け目が起源的に海の神を巡る出来事に由来して起きたようにも見えます。
海を往来していた古代部族の存在は、今も日本に多くの謎を残しており、彼らの解明が縄文から連なる日本史の全貌を知るための最重要存在であることは間違いありません。それにしても、小浜線の車窓から眺める青々しくどこまでも広がる水田の稲が、南側の山脈から若狭湾に吹く風で波打つ光景は、言葉を失うほど美しいです。