宇佐神宮と1700年の祈りUsa Jingu and Seventeen Centuries of Prayer
今日は、大分県の国東半島から宇佐市にいます。この地域は、かつて豊後国と呼ばれていましたが、その中でも最高神格を有して1700年も奉祀されてきたのが宇佐神宮です。宇佐神宮は非常に有名なことから、多くの参拝者が今も絶えませんが、この神社の祭神、さらには信仰の古層は読み解けないほど、複雑な歴史が絡んでいます。
まず私が宇佐神宮の古代史をひもとくために最初に訪れた奈多宮(なたのみや)です。国東半島南東の沿岸部にある奈多宮は、宇佐神宮の秘伝ではこの場所に宇佐神宮の神が始めに降臨したと伝えています。実際、奈多宮の沖合には小さな岩場に鳥居が立っていますが、ここは「市杵島(いちきしま)」と呼ばれています。市杵島とは、福岡県宗像市の最高神格有する宗像大社に奉祀される三つの女神の一つである市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の信仰に関わり、宇佐神宮の神である比売大神(ひめのおおかみ=宗像三女神を総称する神)が最初に降臨した地として古くから崇められてきました。
何より、この地は昨日伝えた速吸瀬戸の入口に面しており、砂浜からは四国西端の佐多岬や昨日訪れた大分県佐賀関までの一帯が平地からでも見渡せる優れた立地環境にあります。古代において速吸瀬戸を通行して南下する勢力は、必ずこの市杵島に立ち寄って在地部族と関わり、そこから大分市内や佐賀関へ進み、さらに宮崎・薩摩・琉球へと向かったと考えられます。逆に南方から北上してきた場合も同様に、この地点を経由した可能性があります。それほど海上の要所だったということです。
重要なのは、国東半島西部側の1700年の歴史を有する宇佐神宮が、古くは宗像大社の禁足地である沖ノ島の守護を担う要所として信仰を集めていた点です。つまり、国東半島の奈多の地に初めて上陸した比売大神が後に宇佐へ移ったと宇佐神宮側で伝わっている事は、この女神が南方由来である可能性を示しています。朝鮮半島など九州から見て北方から来たのであれば、沖ノ島を先に経由するからです。ここに古代日本の海上交通を担った渡来系の人々、すなわち海洋部族の複雑な活動の痕跡が潜んでいます。重層的な海洋ルートが存在していたということです。
この観点から宇佐神宮と沖ノ島、宗像三女神の信仰を九州において総合的に考慮すると、この地で古来何が起きたのかが理解できるのです。実際、国東半島の両子山などを修行場とした修験者たちが、かつて沖ノ島に上陸する資格を得て祭祀を行ったという伝承も残っています。つまり、一部だけを見ていると全体像が見えません。島国である日本だからこそ、海を見なければならないのです。
奈多の地は別府湾・伊予灘・速吸瀬戸を一望でき、四国佐田岬の左側は瀬戸内海、右側は九州南部へ伸び、奄美・琉球方面へ通じる古い航路です。そのため比売大神が最初に上陸したとされるこの奈多宮の伝承は、単なる神話ではなく、古代日本の海洋部族の歴史を理解する上で極めて重要な意味を持ちます。
また、国東半島北端の離島・姫島も見逃せません。ここは別府湾と周防灘の海流が集中する要衝で、古代海洋部族にとって極めて重要な拠点でした。実際、この国見地域には「国見」の地名が残っていますが、この意味は新たに進出した勢力が、高い丘陵や山から周囲を見渡して支配の適否を判断した場所のことてます。比売大神の進出ルートとして考えられるのは、朝鮮半島から南下して姫島を経由して奈多宮へ至ったのではなく、宇佐神宮の神託を考慮すると「南方から北上した痕跡」が記されているといえます。そして、姫島の名そのものが女神信仰と直結していることは注目に値しますし、古事記などにも、この島の名前は登場します。さらに姫島が見渡せる北端に建立されている伊美神社もこの系譜を伝える存在です。また伊美神社は山口県の祝島と深い関係を持ち、現在も大祭において祝島から伊美への渡御が行われています。こうした地勢は、古代部族の交流圏を如実に物語っており、特定の季節風を利用し、この地域を拠点に航海した様子がうかがえます。
そこから宇佐に向かって西に向かうと国東半島西北部には淡島神社がありますが、これは「阿波(徳島)」との交流を示唆しています。このように国東半島は、古代から海洋を通じて行き来する部族の坩堝のような場所と言う性格があったことから、今も古い痕跡が随所に残っています。
そして国東半島西部に位置している最大の社が宇佐神宮です。宇佐神宮には上宮と下宮があり、それぞれ三社が並び、第一・第二・第三に神々が祀られています。第一と第三には八幡大神(応神天皇)と神功皇后が祀られていますが、これは後世に天皇家の権威が在地信仰に上書きされた痕跡と考えられます。注目すべきは第二に祀られる比売大神で、この神が本来の宇佐信仰の中心であったと考えられます。実際、社殿配置も第二が中心で、左右を応神・神功が固める構造となっています。つまり最大の神格は比売大神であり、その奥宮はここからさらに山間の御許山にありますが、かつてここが「宇佐嶋(うさのしま)」と呼ばれていたことに注意が要されます。山でありながら「島」と称される点は、宇佐信仰が海の信仰を本質にしていることを示すからです。
このように非常に複雑な古代日本史ですが、1つの鍵として、海を通じてどのような動きがあったかを見ることが、土地の信仰、文化の受容などを理解する最大のファクターとなることが理解できるはずです。