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AI時代に心を探究する(近代の移譲と縄文)Exploring the Mind in the Age of AI

AI、無人化、そして激しい社会混乱とシステム崩壊。世界規模で起きている未曾有の危機の渦中に生きる私たちですが、人間とは不思議なもので、どんなに良い状況も悪い状況も、時間が経てば慣れてしまいます。ただ、そうした動乱の世界の中を経験することによって、人間はいかに生きるべきか、そしてこの時代において人間は何を為すべきかという問いを探究するヒントが、昨年よりも随分と見えてきたように思います。まず大前提として、AIが心を持ったか否かという議論の論点は、時間の浪費でしかない。なぜならば、この論点は飛躍し過ぎており、人間自体をあまりにも無反省に高尚な位置に置いて考えている傾向が強いからです。そもそもAIが心を持った瞬間など、私たち人間に判断できるはずなどないことは冷静に考えれば明らかなこと。それは、そのような厳格な物差しを人類は手にしてはいないからです。実際、あなたは自分自身の心とは何かを明瞭に語ることができるでしょうか?あるいは、人類規模で心の定義を合意の上で語ることができるでしょうか?残念ながら、そのような力を人類は持っていません。たった一つの世界平和でさえ実現できない人類に、心の問題が解明できるわけがないからです。

心に関しては、ここまで高度化した科学でさえ答えを出せない以上、少なくとも私たちにとっては「心らしきもの」があることは確かだと言えても、それが何であるかは未だ分かっておらず、全ての答えは暫定的であるという真理だけが設定され得ます。この暫定的な答えを時代ごとに突き詰めていくしかないというのが近代以降の法則ですが、科学的に突き詰めた答えが世界中の古代人の叡智の中に既に在るという事実に、今や優れた科学者であれば気付いているはずです。そもそも古代の聖人や賢者でさえ、既に私たちにとって最大の問いとも言える心の核心を哲学的に考察し、見事に明証にしています。

これは日本の古代の古層である縄文時代の探求をしている時の私の直感ですが、縄文人のような古代を生きた人々は、いわゆるテレパシーと呼ばれる能力・技術を存分に活用することができたはずです。つまり、直接的かつ物理的な接触による情報交渉や知恵の交換を行わなくとも、彼らはその場所で瞬時に別次元の意識にアクセスすることで、そこから宇宙の叡智を降して活用することができた。そしてその叡智こそが真の普遍であるため、この能力・技術を駆使して日本各地に点在していた縄文部族が各々にアクセスすれば、別に直接的な交渉を持たずとも同じ叡智を活用することができたということです。特に共同的な次元で言えば、例えば冬至に行われる儀式による変性状態への没入などは、日本に点在していた古代部族が同時に共通の次元にアクセスする重大なものであったはずです。この時、世界に点在していた古代部族と言い得ないのは、太陽が昇る時間帯が異なるからですが、ただ共通の次元に同じ一日でアクセスしていたことだけは確かです。一方で、この叡智の活用という実際行為については、必ず部族が生きる場所の規制が関与しますから、必然的に場所ごとに異なる独自性を形成します。つまり、同じ領域にアクセスして同じ叡智を降しても、実際行為は場所によって異なるため、必然的に部族間の差異が生成されていくということです。

このような個人的に縄文時代の調査から感じてきた得体の知れない直感は、意外と間違っていないのではないかと、AI時代が加速する現在になって強く感じています。ここで想起することは、かつて哲学者の西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」を提唱し、それを「生命とは絶対矛盾的自己同一である」と定義したことです。西田における世界は、過去と未来が相互否定的に現在において結合し、世界は一つの現在として自己自身を形成していくものであり、それは作られたものから作るものへと無限に生産されていくものと考えられます。ここを基準に思索を続けていきます。

驚くべきことは、私たちが早くもAIが持つ資質に対して、良い側面と悪い側面をかなり知ることができ、既にそれらを無自覚ながらも分類していることです。そこにおける理解に関しては、非常に高いレベルで一致していると感じます。しかし問題は議論の論点が、いつも通り「悪い方を見るか、良い方を見るか」という二項対立の構造に執着してしまっていることです。明瞭に言えば、良いも悪いも結局は一つであり、そこを極端化して分類し、一方を排斥することは論外であり、現代に相応しい人間の態度とは言えません。またAIが浸透した現代の世界において、私たちは論点を「AIが心を持つか否か」に据えるのではなく、私たち自身の心の探究に軸を置かなければならないということです。逆に言えば、AIや無人化の台頭は、私たちにこの問いに全力で向かうことを強いていると言えます。それが最後の不可侵領域です(今のところ)。

個人的な洞察では、人間はかつて心を純粋に活用することができました。しかし歴史が経つにつれて、その心の可動領域は徐々に狭まり、失われていきました。ただ、失われたといっても決して消えたわけではない。いわば、そこに在るのに感知できなくなり、活用できなくなってしまったということです。この心の可動領域の喪失という現象においてこそ、私たちが語る意味での人間が成立する過程があったと私は考えており、ゆえに現代人と縄文人が同じ人間かというと、それは違うと据えています。なぜならば、縄文次元での心は、自然それ自体の存在における生命とほぼイコールになっているからです。厳密にはそこには「揺らぎ」が生じているものの、少なくとも現在の人々が前提しているような自然と人間という区別はありません。あるいは、それは極めて強い緊張関係において存在が裂け始める初期段階だったと言えます。ですが、ここから文明的な次元に入って過程で、古代において無限に活用可能だった心の可動領域はどんどん失われ、捨てられていきます。ここで「捨てられていく」と表現したのは、ここにおいて自然と人間が存在において分離する過程があったからです。つまり、存在が自然自体から引き裂かれることによって、人間が分離していく過程があったということです。何よりも重大なことは、私たちは最も発展した文明人を演じていますが、この時代過程に起きた自然存在との分離は、心の問題として常に引き継がれているということです。ここに、心の深刻な問題が潜んでいます。いわば、心がどんどん人間、さらには個人に集約される歴史的動きがあったのですが、それをあえて言語化すれば、全存在から心をどんどん放棄することによって、逆作用的に浮上してくる「自己」という存在の生産です。

つまり、自己を打ち立てていく過程において、人間は心において自分自身が保有していた「何か」を大きく失ってきたということです。言い方を変えれば、人間は個人存在へと向かっていく中で、心の可動領域の大半を捨ててこなければならなかったということです。こうして文明の発展という果実を獲得する代償として、私たちは心という深淵な宇宙を放棄してきました。これが人類の歴史において非常に重要なことであったため、その変異が起きる長大な歴史において、神話や伝承や民譚などが、その裂け目、そして捨てられたものに対する思いとして次々と生まれてきたのです。ゆえに、神話・伝承・民譚は単なる学問的資料ではなく、それは私たち人間が共通して喪失してきた「何か」について語る無自覚な心の記憶なのです。

特に近代以降は、物質文明が過剰かつ極端に研ぎ澄まされる時代でしたが、その時代に人間は適応するために、これまである程度保持し続けてきた心の可動領域のほとんど全部を捨てなければなりませんでした。そして実際、それを真っ先に実行した者たちが近代から今日までの覇権を握ったということです。ここに近代科学や分類学などが生まれてきた根拠がありますが、その初動は必ず言語構造の変容によって起きています。これを踏まえた上で、文明が進んだ先に位置する現時点の世界において、AIや無人化が実際に社会を席巻し始めたことの事実の捉え方を各々にしっかりと持つことが重要です。実は、このAIや無人化の社会的席巻という現象は、近代世界の延長における肯定的な結果として実現されたのではなく、実は近代に対する反動なのです。実際、AIやロボットの社会的登場によって、私たちはこれまで行ってきた人間の労力の大半を代替することに成功しました。しかし、この問題の捉え方を大半の人々が誤っていることから、未だに近代というものに対して囚われたままとなり、その虚構から逸脱できない状態に陥っています。事実、多くの人々が混迷し、彷徨っている現状がありますが、ここで旧来の虚構に踏みとどまって動けなくなった人たちが、AIに対する空虚な批判に固執している現状が見えてきます。より明確に言えば、彼らは近代文明が虚構であることを知らない人々と言えます。

少なくとも、私たちが現時点で理解できることは、「労働力」ではなく、「労力」の大半が代替された画期的な時代に生きていることです。そして個人という次元で考えた時の近代的理想が「個人が神になること」だったとすれば、その近代的なフレームワークにおいて自己として擁立されてきたものの大半が代替可能になったということです。これが意味していることは、近代的自己は捏造の虚構だということであり、ソーシャルなものからの介入を受けているという事実です。つまり、ここで不思議な矛盾が起きています。この矛盾と向き合い、どうするかというところが、今年以降の重要な問題になってくると感じますが、実は答えはそれほど難しくはありません。西田の「絶対矛盾的自己同一」という観点で代替という現象を見つめれば、昨年だけでも自明だったように、AIが大半を既に代替してしまったわけですから、この傾向がさらに広がることは誰も避けられません。つまり私たちは、この代替という論点を無視して、AIという不安との遭遇に怯えるのではなく、代替に時代性が既に明白に見えている以上、代替できるものはどんどん代替していくという能動的な姿勢が必要になってくるということです。そしてそれは、これからの時代を生きていく私たちにとって、物事の考え方をAIに近いところで考えながら世界を見ていくということでもあります。これは近代的思考において作られた現代世界の大半を、近代的自己によって擁立されている人間がAIに近いところで思考することで、最終的には全て移譲(代替)してしまうことを意味しています。つまり、「近代の移譲」です。

こう考えると、AIが人類の文明を征服するという大量生産されている主張が、如何に的外れであるかが掴めるでしょう。私はAIが征服可能な世界における文明など、自ら能働的に移譲してしまうことが優先的だと考えるからです。そしてそれは、終わらない近代に対して際限なく生産される不毛な議論を続ける愚行を終わらせて、近代自体を移譲することによって、AIに近代を移植することを意味しています。いわば、人類文明における近代の逸脱・脱却を、「AI=近代」に近づけることによって実現するということです。AIに近いところで物事を考え、例えば今自分がやっていることの8割の労力をAIに代替できるとすれば、私たちはこの「使わなくてよくなった8割」を徹底的に高めていくことが可能になり、しかもそれを内的探査に充てることができるというメリットを獲得します。そもそも現時点で私たちが今までやってきたことを100とした場合、その大半は既に代替できるわけですから、それを即座に移譲(代替)してしまい、そこから生まれた余力で人間に残された「人間とは何か、そして生きるとは何か」という生命存在の問いを探究する道に自ら踏み出すことです。そしてこの方向転換は、非常に面白い動きを持っています。それが矛盾的に古代に還るということなのです。100年ほど前に提唱された絶対矛盾的自己同一の世界は、ようやく今、始まったばかりなのです。

ここで最も参考になるのは、60年代後半の米国におけるカウンターカルチャーの流れです。ビートニクを経由したヒッピーカルチャーの中で、当時の彼らがその後、大きく二つの方向に分かれたあの歴史を、今一度思い返すべきです。一つの道は、情報へのアクセス権の解放を前提に、コンピューターを兵器や管理の道具から個人の精神を拡張するツールと再定義したサイバーカルチャー。もう一つの道は、都市を捨てて田舎でコミューンを作ることによって産業社会からの離脱を試みたバック・トゥ・ザ・ランドです。もちろん両者は厳密に分かれていたわけではなく交差はしていましたが、スチュアート・ブランドの「ホール・アース・カタログ」を見ても分かるように、この大きな潮流に分岐し始めていた両者をツールが繋いでいるという思想は極めて重要です。さらにここで忘れてはならないことは、この二つの道をツールが繋いでいた交差、さらにはその思想の発現した源泉である心の領域において、彼らの中には既に非分離が実現されていたことです。いわばカウンターカルチャーの実態とは、分離に対する非分離の奪還なのですが、その非分離領域の奪還こそサイケデリックです。その源泉にメディア論のマーシャル・マクルーハンが介在し、Turn on, tune in, drop outを掲げたティモシー・リアリーが登場したことによるサマー・オブ・ラブの潮流は、未だこの世界に生き続けています。

ただし、それから60年程度が経つ世界を生きる私たちの次元で考えた時、もはや「どっちかに分かれる」という甘い態度は許されません。未だに、どちらか一方を選ぶという極端な選択が肯定されていますが、それは60年前の世界であれば通用し得たものでしたが、私たちの時代においては断じて通用しません。ここで掴み取らなければならないことは、こうして二つに分かれた大きな潮流を統合する存在として、現在、デジタルノマドが、国境を越えて暮らす新たな層として、急速に母体数を増やして台頭していることです。つまり、戦争難民以上に巨大な母体数となっているデジタルノマドなる新時代の人々の移動こそ、次世代の最大の問題になるということです。この時に理解しておくことは、当時の潮流において両者に共通していたことは、究極的に到達する目的地が内的探査に据えられていたことです。しかもそれは、シロシビンやLSDに代表されるサイケデリック体験を用いた内的探査を経由して、変性意識をコンピュータ、あるいは自然において異なる形で実現しようとした動きを持っていたということです。ここを捉えた時、私たちは今、まさに次の分岐点に立っていることが見えてきます。実際、近年の動向において、医療領域でサイケデリックカルチャーの復古が合法的に始まっているのは、この潮流の象徴的な動きです。

こうした動きは、実はこの記事で思索していることと深く絡み合っています。重要なことは、当時のサマー・オブ・ラブ以降のカウンターカルチャーの流れが、別々に分離して起きてきた流れではなく、一つの共通する問題意識や源泉を共通体験として経由しながら、異なる領域での実行が各々に行われたということです。ここにおいて私たちはそれらを踏襲しながら、しかも個人における労力のほとんどを代替できる初の時代を迎えたわけですから、大半を委譲して代替し、日々のパフォーマンスを高めていき、同時に空いた労力で次々と何かを行い、何よりも内的探査の時間を作って生きることが重要となります。その時に鍵となるのが、前述した古代人の心の探究です。私の場合は日本人ですから、日本の古代史において「縄文人といかにアクセスするか」を念頭に考えています。これは調査過程で常々感じてきたことですが、考古学の大きな失敗は遺物しか見ず、心の問題を無視してきたことです。そして大切なことは、古代人の心は考古学的遺物とは異なり、過去になることはないということです。心は絶えることがなく、そして消えることがなく、失われることがなく、常にそこに在るからです。心は永続的に残ります。この心というものを、なぜ私たちが掴めないかというと、アクセスすることのできる領域に達していないからです。だから60年前は、それをシロシビンやLSDによって実現し、さらにコンピュータによって実現し、瞑想によって実現したりする試行錯誤が行われたのです。しかし、私たちがサイケデリックをツールとして用いることに限らず、「何か」を転移すること、要はそこにアクセスすることができれば、その瞬間、それは縄文人の心そのものになるということです。この時、ここで言う「何か」が問題になります。そしてそれは、多くの人が考える意識ではなく、ましてや無意識ではないのです。さらに言えば、ユングの提唱した集合的無意識でさえない。

これについて、先ほどは「人間が共通して喪失してきた「何か」について語る無自覚な心の記憶」と表現しましたが、この正体は個人の心における幻想領域の「自己」ではない存在です。この洞察が、サイケデリック物質の摂取による人間の変性意識の状態を言語化し得る唯一のものと考えていますが、それを理解するためには吉本隆明の幻想の詳細な考察が必要となり、そこを経由した山本哲士の哲学に向かう必要があります。その答えとなる概念は「非自己感覚」。翻訳不可能なこの概念を、果たしてどう解義していくか。この問題の考究は、今後も私の中で大きなテーマとなっていくでしょう。