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大島渚『少年』の製作の背景The Making of Nagisa Oshima's Shonen (Boy, 1969)

この記事では、大島渚が世界進出することになった重要な作品、『少年』(1969)について、その製作背景を取り上げます。

同作品の内容、ならびに大島渚については、西洋でも広く知られていますが、製作の背景などを知る機会は、文献が翻訳されてこなかったため、滅多にありません。しかしそれでは、どうして大島渚がここまで日本の重要な監督だったのかということが、中々見えてきません。

今後は、こうした映画事情などを、このセクションで中心的に扱っていきたいと思います。日本映画に関心を持つ読者にとって、さらに深く理解する足がかりとなることを願っています。

まず、当時の日本映画界の状況から始めます。当時の日本映画界では、90%の作品が主演するスターを会社側が先に決め、そのスターに、どのような役を演じさせるかという形で映画は構想されていました。また当時、多くの監督を含めた製作スタッフは、大企業に所属する大卒の労働者です。

こうした会社員の映画スタッフは、当然ながら上層部の意思決定に従わざるを得ません。仮に彼らが作りたい映画のイメージを持っていたとしても、それを実現できることはありませんでした。大島は最初は松竹(当時の大手の一社)に入社して映画製作を行いましたが、早くからこの製作手法に懐疑的でした(入社は1954年)。

そこで大島は生涯を通じて、作りたい映画のイメージを先に固め、シナリオを作成し、それができてから初めて俳優探しを始めるという手法をとります。ですが、それを大企業ではできないため、1961年には松竹を退社し、「創造社」という独立プロダクションを設立します。

こうして多くのしがらみを逃れた大島ですが、自らのイメージと、プロの俳優が合わないケースが多発します。そこで大島は、映画とは無関係の素人を俳優として起用する傾向を強めていきました。

『少年』の製作は、大島自身が監督になってから、10周年を記念する意欲的な作品という位置付けでした。そして本作は、1966年に実際に起きた「子供を使った当たり屋」事件を基にしています。

「当たり屋」は、わざと車の前に飛び出してぶつかり、法外な治療費や示談金を取る犯罪です。戦後日本経済が高度経済成長を遂げる過程で、街中に車が多く走るようになったことで生まれます。しかし、基本的には1960年代前後に、大阪を中心に行われていたため、社会的な関心を集めることはありませんでした。

そんな中、1966年に突如として、「子供を使った当たり屋」事件が発生したのです。しかも、この家族はこれを生業としながら、全国を転々として生活していました。1966年9月初頭に事件が報道されてから、この家族が逮捕されるまで、わずか3日でしたが、その間、メディアは連日トップニュースで扱うほど過熱しています。

しかし、事件から2週間経つと、関心は急速に冷め、その後、ほとんど報道されなくなります。

大島はこの時、ちょうど『白昼の通り魔』(1966)を完成させ、『忍者武芸帳』(1967)の編集に取り掛かっていましたが、この事件に大きな衝撃を受けます。そして、少年の運命に強く心を動かされ、「これこそ自分が映画で描くべき事件だ」と確信します。

実際、大島は事件が報道された時、即座に映画化を構想しており、事件終息から10日も経たないうちに、知古の3人のスタッフとともに、構想を練り始めます。

長年、大島と組む田村孟が執筆した本作のシナリオは、シナリオ段階で傑作と高く評価されましたが、それを撮影させてくれる大手映画会社はありませんでした。大島が最初に所属していた松竹でさえ、製作を拒否します。そんな中、救いの手を差し伸べたのが、ATG(日本アート・シアター・ギルド)でした。

ATGについては、別途書きますが、大手映画製作会社の手法に反旗を翻し、芸術映画路線を目論んで誕生した映画会社です。大きな特徴は、有名監督に限らず、意欲的な映画製作を可能とするため、「1000万円映画」と呼ばれる低予算映画の製作に力を入れたことです。

これは、ATGが制作費の半分(500万円)を負担する代わりに、残りの半分、超過分を製作陣が自ら負担する仕組みです。大島は『絞首刑』(1968)でATGと提携、成功させていたため、構想から撮影開始までに2年を要した『少年』の製作も許可されます。しかし、ここで大問題が発生します。

それは、『少年』がATGの「1000万円映画」として、初めてカラーを採用し、さらに実際の事件の舞台となった全国各地を巡るために、多くのロケを行わなければならなかったことです。実際にロケは、高知を皮切りに、新居浜、尾道、倉敷、北九州、松江、城崎、丹後、福井、山陰、高崎、山形、秋田、稚内、函館、小樽、札幌、大阪と巡ったため、鉄道の移動距離にして、およそ7400キロもの旅になりました。

当然、1000万円の予算では足りません。

大島ならびにスタッフは、この意欲的な作品を作り上げる強烈な意志だけで偉業を成し遂げますが、長期に及ぶロケを可能にするため、当時一般的だったスタッフ一人当たりのロケ宿泊費を、通常の6~7割に抑える決断をします。

しかも、たった15人のスタッフで編制し、分業を超えて協力し合いながら各地を巡り、撮影を進めたのです。撮影期間は、10月8日から翌年2月2日までの約4カ月間に及び、無事にすべての撮影を終えます。

最終的には、当初の予算の倍程度の費用がかかりましたが、大島は「実質的には5000万円規模だった」と語っています。半分程度の予算で済んだのは、ロケ地の人々が大島の心意気に賛同し、惜しみなく協力したからです。『少年』の製作は、地方の人々の好意によって実現したと言えます。

当時の東京では、すでにロケ撮影は珍しいものではなかったため、人々が協力することはありません。しかし、地方ではまだ映画のロケ自体が珍しかったため、多くの人々が関心を寄せ、積極的に支援したいと考える人々が後を絶ちませんでした。これは現在の日本とは違い、当時は地方に若者が非常に多かったことも関係しています。その結果、『少年』は完成にこぎつけることができたのです。

大島は、そのことに非常に感謝しており、『少年』が公開される前に、完成したフィルムを持って、全国規模の試写キャンペーンを実行する決意を固めます。しかし、ATGの配給網は大都市以外では全く力がありません。そのまま通常公開してしまうと、ロケに協力してくれた地域の人々が、作品を観る機会を得ることはできませんでした。

そこで大島は、普段ATGの作品が上映されない各地で試写会を開き、全国を巡るという大きな決断をします。これは、前例のない初めての試みでした。

しかし、大島のプロダクションにはその予算がなく、自分たちで試写会を開くことはできません。会場費や交通費を含めた経費を負担してくれる主催者を探さなければならなかったのです。ところが、告知からわずか1カ月で、20数カ所の町で開催が決定します。この時、映画産業とは無関係の地方の人々が、自ら資金を集め、大島を歓迎したのです。

こうして、1969年6月4日から7月11日までの間に、約4万3千人もの人々が『少年』を観ることができたのです。その後、7月26日に一般公開されました。

『少年』は、内容もさることながら、多くの試みが含まれており、大企業ではできない新しい映画製作が可能であることを証明した、初めての作品だったのです。

もちろん、言うまでもなく映画などのコンテンツは作品の質が重要です。ですが同時に、こうした普段は語られない製作背景を知ることによって、より深い理解に到達できるのではないでしょうか。