黒澤明『七人の侍』とリアリズムAkira Kurosawa's Seven Samurai and Realism
かつて日本映画に絶大な影響を与えた黒澤明は「ドラマとは、誰もそのドラマの要素を我と我が心に認めることができるほど、真実であらねばならぬ」という言葉を語っていました。実際に彼の映画は、映画評論の世界ではリアリズムの追求という観点で語られることが当時から非常に多かったのです。このリアリズムの問題は第二次世界大戦後に比較的強く現れたもので、映画もそうですが、写真家もこの問題を積極的に考えていました。
黒澤の代表作として語られがちな『七人の侍』(1954)が典型的です。この映画が従来の日本映画よりも画期的だったのは、映画に時代考証を初めて取り入れたことにあります。そもそも日本映画は西洋の映画史とは若干異なる独自の系譜を抱えていたのですが、それが伝統芸能の歌舞伎です。初期の日本映画はほぼ歌舞伎の映像化と言っても過言ではなく、むしろ初期日本映画の制作者はこの歌舞伎からの脱却ということが一つの重要なテーマとなって切磋琢磨してきた歴史があります。ゆえに、歌舞伎で扱われていた題材や雰囲気などがそのまま映画に移植され、そこを文法として逸脱し、徐々にリアリズムの追求になっていくという段階が大きくあったと言えます。特に第二次世界大戦中には、国民の戦意高揚の目的で侍の物語が非常に重視されるようになるのですが、これらはあくまでも「時代物」と言われる、時代を題材にした映画という領域に留まっていました。ざっくりと言えば、現在を生きる人間の心に映画が直接迫り、問うような力を持つには至らなかったということです。
戦前までは日本における儒教の影響から、義理や人情などが映画のテーマになる傾向が非常に強く、当時の戦争前後の時代を生きる人間の心を現実において対峙する作品を作るという態度よりは、むしろ言葉にし難い文化的問題が強調される傾向にありました。簡潔に言えば「情緒」ですが、戦前の日本映画はこの情緒の繊細な動きが強烈で、特に第二次世界大戦に向かう1930年代後半の日本映画における情緒は、文学など以上に鮮烈で感激します。ただ敗戦を経て戦後に至ると、こうした情緒的側面は容赦なく精神と同一視されて否定・棄却されていき、日本は再びこうした精神を持つことは国際的に許されないという抑圧的時代を迎えます。この時、日本精神と一元的に規定された曖昧なものの存在によって、情緒という江戸時代を通じて育んできた文化源泉が棄却されていきます。
この情緒という言語化不可能な歴史資本が失われる過程に対して、反動的に浮上してきたのがリアリズムだと私は考えています。特に象徴的だったのは、黒澤が初めて時代考証という学問的根拠を映画に持ち込む試みを為したことです。戦前の日本映画で時代考証は問題にならず、むしろそれは映画とは無縁のものだと考えられていました。実際、時代考証が如何に優れていても、中身がなければただの形式でしかなく、人々を感激させることはありません。つまり、黒澤が素晴らしかったのは、単に時代考証を映画に適用してリアリズムを表明することで、新時代のリアリズム運動を偽装する当時の知識人に迎合せず、戦前までの残渣である情緒を基盤に据えながら、細部を時代考証によって映像の世界を作る先達を為したことです。
写真界で言えば、このリアリズムは著名な土門拳によって主導されていましたが、彼のリアリズムは単なる形式であり、中身はありません。典型的にスタイルに囚われて中身を失った写真家だと私は位置付けていますが、何しろ土門拳は当時の写真界の重鎮でしたので、影響力は凄まじいものがありました。しかし一方で、奈良と大和の交差する世界で写真界の動向に左右されず、ひたむきに写真を撮り続けた入江泰吉は、見事に情緒を風土において表現しています。1950年代は映画・写真双方共に、このリアリズムの問題が生じてきたと言えるのですが、黒澤は土門のような形式に陥らないリアリズムを実行し得ています。
『七人の侍』は時代考証から徹底し、そして黒澤明が言う意味でのリアリズムを追求するために、当初の制作からリリースまでの半年という計画が大幅に逸脱していきます。これは黒澤にとっては賭けだったのですが、制作者としてもその熱の入れようは半端なものではなく、長年信頼している脚本家二人を引き連れて熱海の旅館に籠り、彼らは修行のように脚本を書き続け、45日かけて『七人の侍』の脚本を書き上げます。黒澤は生前から、「弱いシナリオからは絶対に優れた映画はできあがらない。弱い苗からは絶対に豊かな稔りは期待できない。これは絶対的である」という信念を幾度も主張しています。この信念は当時の日本映画が一ヶ月ほどで映画を制作から公開する速度に対する警鐘だったのですが、この背景には戦前までの日本映画では、脚本を書くところからキャリアがスタートするということが非常に多かったことも影響しています。良い脚本が書けなければ、映画監督として作品を撮る機会は回ってこなかった時代があったのですが、黒澤も例外なくその系譜を辿っていました。しかし、戦後になると徐々に映画界の構造自体が変わり、若年世代の映画監督が脚本を書かなくなっていきます。これは分業制が強まったからですが、ここで専門職としての脚本家が現れたことによって、映画監督はプロデュースに近くなっていきます。これに対して黒澤は幾度も苦言を呈しており、晩年の大島渚とのインタビューでも「脚本が書けなければダメだ」ということを言っています。
時代考証のみならず、彼自身のリアリズムの追求というものは、まさに日本映画界を大きく変動させたわけですが、そうした非常に強い信念を持つ監督のもとで作られていく映画では、必然的に俳優やスタッフ含めて熱量が高まってきます。例えば、最初に難渋したのがロケ地探しです。この映画を見たことがある方ならば、序盤に野武士が眼下の農村を発見するシーンを覚えているでしょうが、この農村は最初は黒澤がイメージして書き出した風景を、日本中で探すところから始まっています。当時の日本は現在のような開発が進んでいませんから、スタッフは無数の農村有する日本なら、どこかにあると考えたのですが、どこに出向いても一向に見つからず、探すグループを増やして黒澤のイメージ通りの場所探しに奔走します。最終的に伊豆の下丹那という場所でイメージ通りの風景を見つけるのですが、さらに『七人の侍』は村の東を伊豆の堀切、西は御殿場、北の森は箱根の長尾峠、花畑は仙石原で撮影地を分けており、村の中心部は東京の東宝オープンセットで撮影されています。
制作初日に黒澤は「本物を作ろう。本物の時代劇を」と述べ、関係者全員にこの作品は従来の映画とは全く違うのだという意識を叩き込みます。それゆえ、そのリアリズムへの拘りは妥協を許さず、細部に至るまで全てに徹底されています。黒澤の書いた絵コンテを前提に、黒澤映画の美術監督として生涯で19本の作品に関わった村木与四郎は、黒澤から当時の農民の生活感を再現してほしいという依頼を受け、全国各地を巡って参考素材を撮影することから始め、どうすれば黒澤のイメージする世界観がセット作りに反映できるかを考え抜いた末、「焼き板」という特殊な加工法を採用することに決めます。この加工法は板の両面を丁寧に焼き、鉄のブラシで炭を落とし、泥絵の具を塗ってワックスをかけ、たわしで磨く工程ですが、これによって戦国時代の生活感がフィルムに刻まれます。実際、この焼き板を用いたシーンは、農民の与平が侍探しに宿に泊まっている際、米を盗まれるシーンの壁で効果を発揮しています。
さらに黒澤はエキストラの村民に一体感を持たせるために、100人近い村人の名前・年齢・家族構成・セットの中の家を細かく指定する村の戸籍表を作成し、撮影期間はこの家族ごとに行動して実際の家族のように振る舞うようにします。実際、この映画はエキストラと知らなければ、本物の村人を使っているとしか思えない一体感があります。さらに村の長老の水車小屋が野武士に焼き討ちにされるシーンでは、迫力が足りないと6度も小屋を立て直して撮影が行われています。しかし、こうした黒澤による徹底的な映画制作は、当然ながらスケジュールや予算を度外視しなければ完成しません。事実、本来のスケジュールでは、1953年6月7日に撮影が開始し、8月18日にはクランクアップの予定だったのですが、終了予定から5ヶ月過ぎても撮影が終わらず、予算も倍以上に膨れ上がったことから、制作の母体である東宝が激怒し、撮影の即刻中止が命令されます。東宝が制作中止を指示するということは、映画制作ができなくなることを意味しています。当時は映画監督やスタッフ、さらには俳優は例外なく大手の映画制作会社と雇用関係にあったため、会社の決定を無視できるものではありませんでした。
こうして東宝の上層部に見せるために、黒澤は急遽それまでに撮影しているフィルムを繋ぎ合わせて試写会をしなければならなくなります。面白いのは、東宝の重役が集まる試写会が始まると、集まった重役は観たことのない質の映画に圧倒され、強烈に魅了されて没頭するのですが、ストーリーがクライマックスに差し掛かる手前の最高潮に達するところで、突如フィルムが途切れてスクリーンが真っ暗になります。重役は突然途切れたフィルムに驚き、騒然と「この続きはどうなってるのだ」と黒澤に問い糺すと、黒澤はたった一言「ここから先は一つも撮っていません」と毅然と言い放ちます。すると東宝上層部は「この続きが見たい!」と意見が即時一致し、すぐに撮影続行命令が黒澤に言い渡されたのです。
こうして1954年1月18日に撮影再開。ついに映画のクライマックスである豪雨の中の合戦シーンという撮影の山場を迎えます。この最後のシーンは、七人の侍と村人が野武士と戦う激しい長丁場のシーンですが、その迫力は絶句するほどで、泥沼のような世界観で行われています。しかし、実はこれは意図したものではありませんでした。偶然この期間に東宝のオープンセットに大雪が降り積もっていたからです。雪景色ではこの映画は撮影できないため、まずスタッフ全員で雪を溶かすところから始めたのですが、大雪だったことから、雪を溶かすだけで一週間かかっています。しかし、この苦労は思わぬ形で報われます。大雪が溶けたことによって、必然的に泥沼の土壌となり、そこに雨を降らせて撮影を行ったため、あのような迫力のあるシーンができたということです。ただ、泥沼に大雨を降らせる中、馬が全力で突っ込む合戦シーンを撮るわけですから、役者からしても容易なことではありません。ゆえに取り直しが絶対にできない制限がかかったのです。映画は時に、このような極限の状況下で画期的な手法が生み出されるものです。
例えば有名なスティーブン・スピルバーグの『ジョーズ』では、サメが登場せずとも音楽だけで恐怖を感じる効果を作品で表現していますが、これはジョーズの模型が撮影時に壊れていたため、やむなく生み出された手法でした。しかし、これが思わぬ効果を生み、あの静かな迫力が生まれたのです。同じように、この極限の状況下で、黒澤は考えに考え抜く中、突然黒澤の脳裏に一つのアイデアが降りてきます。それが複数のカメラでワンシーンを撮影するマルチカメラ方式です。今では当たり前ですが、当時の日本では使われたことはなく、ここで初めてマルチカメラ方式による撮影が行われます。こうして4台のカメラが使用され、こうして様々な画角、アングルなどを撮って最後に繋ぎ合わせることで、あの迫力が表現されたということです。
こうしてフィルムとして完成した『七人の侍』ですが、最後の問題がテーマ音楽でした。あの冒頭で流れてくる映画音楽を担当したのは、1939年に東宝映画社長に認められて東宝の音楽監督として入社した早坂文雄です。黒澤と昵懇で既に『酔いどれ天使』『野良犬』『羅生門』で音楽を担当し、日本映画の未来を背負う若き作曲家として評価されていたのですが、早坂は結核に苦しんでおり、死の影が迫っていました。黒澤と二人三脚でやってきた早坂は、病床に伏して仕事が捗らない中、黒澤に宛てた手紙の中で「仕事で死ぬなら、それも男の心意気です」と覚悟を決めており、安静を求める家族の制止を聞かず、病に倒れながらも作曲を続けます。死を間際にして、命を削るように無数の原案を譜面に書いていましたが、特に厄介だったのが侍のテーマ音楽です。黒澤は早坂が提示する20以上の音楽を聞いても気に入らず、どうしたものかと悩んでいると、ふと早坂は黒澤に見せずにゴミ箱に捨てていた楽譜を手にし、その冒頭をピアノで弾き始めます。その音を聞いた瞬間、黒澤は「これだ」と身震いし、ついに決定します。
こうして『七人の侍』は日本で1954年4月26日に公開されたのですが、早坂はその一年半後の1955年10月15日に41歳の若さで死去します。最後の言葉は「黒澤にすまない」というもので、黒澤にとっても盟友であり最高の理解者であった早坂を失った衝撃は、とてつもない哀しみをもたらし、黒澤は10日間泣き続けました。この映画は、単なるクラシックな名作ではありません。如何に映画は命を削って本気で作られていたのかということを、私たちの時代において知るための作品でもあるのです。
生涯を通じて世界的に評価された黒澤明ですが、彼の「ドラマとは、誰もそのドラマの要素を我と我が心に認めることができるほど、真実であらねばならぬ」という言葉を今一度考えてみると、感慨深いものがあります。確かに、時代考証などを用いることによって、表面上、形式上はリアリズムの追求と言えるかもしれませんが、個人的には黒澤のリアリズムというのは、この真実の所在にある、つまり、その真実の所在がドラマなのだというふうに私は考えています。
当時の映画監督と言えば黒澤明を筆頭に、少し年長世代の溝口健二や小津安二郎という巨匠がいましたが、実は彼らは所属する会社が違いました。所属する会社、さらに撮影所が異なることは、当時は作風が全く違ったことを意味しています。例えば1950年代なら、黒澤明は東宝、溝口健二は大映、小津安二郎は松竹という具合です。さらにその周囲には成瀬巳喜男や清水宏など、とにかく日本映画界の重鎮たちがおり、各々素晴らしい映画を作っていたのですが、彼らに共通していたのは、「人を見る目」がずば抜けていたことです。個人的には、彼らがそれぞれに人を見る視点がどこにあったかというのが、それぞれの差異として映画に反映されていると見ています。特にこれら巨匠と比較した時、黒澤明の評価が西洋で先行的に高まったのは、西洋世界における普遍性を取り入れる試みを行なっていたからです。一見するだけでは、黒澤は1950年代から侍を描いた映画で人気を博した映画監督に思われるかもしれませんし、伝統的な侍をモチーフにした時代劇の映画監督というイメージが強いかもしれませんが、それは真実ではありません。むしろ、彼は脚本を絶対視していたことから分かりますが、原作のアイデアにロシア文学などを積極的に取り入れており、『七人の侍』はトルストイの『戦争と平和』が参照されていますし、そもそも1951年にはドストエフスキーの『白痴』をモチーフにした作品を発表するなど、「生きる」ことについての徹底的な考察が反映されていました。
一方、溝口健二は古典的な日本美の観点で世界を見る視座を持っており、実際、彼自身は京都に住んでいたほどですから、そこで見る人々の動きを映画で積極的に反映させています。一方で黒澤や溝口からは少し遅れて西洋で評価された小津安二郎は、日常の家族の動き自体をよく見ており、さらに成瀬巳喜男はそこを見ながら、同時に一つのストリートを見ていました。このように視点は当然ながら人によって異なるのですが、彼らは非常によく人を見ており、街を見ており、その姿自体が生き物なのだということを知っていました。そして、その生き物の中のどこにドラマがあるのかということを真摯に見続けたのです。だからこそ、素晴らしい作品ができたと言えます。
良い脚本があるから良い映画ができるという黒澤明の信念は、考えることが非常に多い。なぜならば、良い脚本ができるためにどういうものが必要かと言えば、あくまでも日常においてあなたがどこを見ているのか、誰をどのように見ているのかということに尽きるからです。つまり、良い脚本は人を見る力のない利己的な人間からは、決して生まれてこないということです。『座頭市』シリーズで知られる勝新太郎は、常に一万円札を巻いて複数持ち歩き、街の人々に渡していたことで知られていますが、これに苦言を呈したマネージャーに対して、勝は「役者は世の中の生きた人間の姿から学んでいる。その生きた人間の姿を見せてくれたことに対して、対価を支払うのは当然だ」と言い放っています。真実というものは、黒澤が言っているように「誰もそのドラマの要素を我と我が心に認めることができる」ものですから、ある意味ではどこに普遍があるのか、どこに時代に共通する、あるいは時代を超えたところにおいて、人の心を動かすようなものがあるのかを見極めることが大切で、そのためには人を見る力を私たちは再び取り戻さなければならないということです。良い本は、何度読んでも新たな気づきに満ちているが、良い映画も同じです。
是非、この視点から黒澤明の『七人の侍』を見直してみては如何でしょうか。それにしても、クラシックな日本映画を敬愛する私にとって、映画について書くことは何よりも幸せかもしれません、、、。