Vol.16
思想の森
儒学には、「修身斉家治国平天下」という考え方があります。
国家・社会・他者を変えようとする以前に、まずは自らの心を正す。
最初のコーナーでは、聖人の言葉に従い、今、何を、どう思っているのかをお伝えします。
日常で最も使用しながら、最も理解されていないもの。こうしたものに、意外と次を考える鍵があるように思えます。それが、言語です。
英語は、主語がなければ立てません。しかし日本語は、主語を口にせず、一生を語り尽くせる。普段、当たり前すぎて意識することはありませんが、言語の構造的な異なりは、単に文法の癖ではなく、世界の掴み方そのものの違いです。
例えば、雨が降っている情景。英語は “It rains.” と言う。降っているのは雨なのに、文頭には “It” という、誰でもない、何でもない主語を置かねばなりません。置かなければ、文が成立しないからです。文法家はこれを虚辞と呼びますが、要するに英語は、主語なしには世界を認識できない構造になっている。存在しない主語を捏造してでも、まず主語を立てなければ、何も語ることができないのです。
日本語は「雨だ」や「降ってきた」で足ります。あるのは、今ここで起きている出来事だけです。それを私たちの言語は、語ることができる。
“I love you.” を「好きだ」と訳せば、主語と目的語は二つとも消えます。これに対して、近代の翻訳論は、日本語の欠陥、曖昧さとして裁いてきました。挙句の果てに、言語学者は「日本語は、主語が隠れている」と嘯きます。
消えるも、隠されるも何も、そもそも最初から不要なのです。誰が、誰を、ではなく、「好き」という状態が、二人の間の場所に立ち上がっている。日本語は、出来事を場所として掴み、関係において表現する言語なのです。
主語を巡る近代アカデミズムの問題は、明治から始まっていましたが、決定的だったのが、戦後に発表された一冊の著作でした。その著作を書いたのが、言語学者の三上章(1903-1971)です。彼は、1960年『象は鼻が長い』で、日本語に主語という概念は要らないと論じ、学界から黙殺されました。
なぜ、三上章を学会は無視し、黙殺したのか。理由は、何とも単純です。三上章が有名大学の国語学教授ではなく、学会にも所属しておらず、当時、大阪の八尾高等女学校(現・山本高校)の数学教師だったからです。つまり、縄張りを荒らす部外者だったため、黙殺されることになったのです。
では、「象は鼻が長い」を英語にするなら、どうするでしょうか。まず、主語を「象」か「鼻」かのどちらか一つに決めなければなりません。例えば、四つが考えられます。
① have 型|Elephants have long trunks.(象は長い鼻を持っている)
② 所有格型|An elephant’s trunk is long.(象の鼻は長い)
③ 部分限定型|The elephant is long in the trunk.(象は、鼻において長い)
④ 左方転位型|Elephants — their trunks are long.(象、あれは鼻が長い)
つまり、英語は「象は鼻が長い」を語れない。そして三上は、日本語の「象は」は主語ではなく題目、つまり話が置かれる場であり、そこに「鼻が長い」という述語が生起すると主張しました。英語のように、主語が述語を支配するのではなく、場所の上に、出来事が現れると説いたのです。
ここに重なるのが、戦前日本の偉大な哲学者で、京都学派の巨頭・西田幾多郎(1870-1945)です。百年前の1926年に発表された論文「場所」で西田がやったことは、単純にして苛烈でした。西欧の論理を、ちゃぶ台のように、根底からひっくり返したのです。
アリストテレス以来、西欧は「主語となって述語とならないもの」を実在の基体に据え、そこから哲学など、文字通り「世界」を作り出してきました。今、国際的に「世界」と語られているものは、例外なく西欧由来であり、ほとんどの地域、民族には合いません。それを西田はひっくり返し、「述語となって主語とならないもの」、つまり場所を基体に据えたのです。世界の根幹が、日本と西欧では、根本的に違うという証明は、戦前の時点で行われていました。
主語の論理から、述語の論理へ。西洋哲学の心臓を、見事に組み換えたのです。
私は、これが「日本化」と呼ばれてきた技術の正体だと考えます。つまり、日本人は外来のものを、受け入れてきたのではない。外来のものから、邪魔となる主語的なものを無化し、その上で、述語の側(場所)から創造する。この全く新たな創造を、日本人は歴史的に行なってきたのです。
ゆえに、日本の他文化受容とは、すでにある何かを受け入れ、消化することで日本化しているのではなく、根本的に新たな創造を行っているのです。これは、日本人にしかできない。ここに、私たち民族の可能性があるはずです。
今、この能力が最も切実な形で必要なのがAIです。Artificial Intelligence という語は、知能という主語を人工的に作るという西欧的な宣言が、米国化された形で露骨に現れています。だから西洋は、必ずエージェント、すなわち自律した主体を作ろうとする。この世に、もう一つ主語を増やそうとする。彼らの地盤からすれば必然です。だから、彼らは「AIと人間」という二項対立の構図でしか、語れない。
AIが人間を超えるとか、AIが人類を絶滅させるとか、シンギュラリティが起こるとか、今、語られているAI論の全ては、西欧の主客の論理でしか語られていません。
AIを主語にしない道が、一ミリも考えられていない。日本人なら、AIを考える主体としてではなく、考えが生起する場所として扱う術を、歴史的に有しています。つまり、「AIが主体的に答えを出す」のではなく、「AIとの間に答えが立ち上がる」場所を創造すること。いわば、AIと人間を分離で考えず、不離から考えること。これは、日本人にしかできないAIなのだろうと思います。
主語が二つになれば、行き着く先は支配か従属しかありません。人間がAIを使うのか、AIが人間を支配するのか。今の議論は、すべてこの二元論の内側にある。だが場所として扱うなら、その問い自体が消えます。AIにおける中国の台頭は、私に歴史を彷彿とさせます。
儒学、道教、仏教などは、一度中国という媒介を通し、日本へ流れ込み、やがて日本化されました。もしかするとAIも、米AIではなく、中華AIを引き入れた方が、日本人が日本化する道を開くのではないか、と考えています。事実、中国は英語が支配的だったOSを中国語で書く技術を確立し、香港という飛地を使ってAIに革命を起こし、主語を持つ米国の野心、NVIDIAや巨大データセンターを不要とする次元に達しようとしています。
今後、日本が反米に傾き、中国との距離を見直そうとするならば。AIは、日本人によって全く新たな存在へと創造されるのかもしれません。
あるいは、日本は西洋を転換できないまま、単なる敵味方の未来へ傾れ込むか。
誰もが、重要な歴史の分かれ道に立っていることは、間違いありません。
国つ神計画研究所
統一国家や単一民族と、場所に生きる多元的世界。
どちらが正しいかではなく、相反共存する世界に誰もが生きています。
日本民族のルーツ研究を通じて、開かれてくる本当の日本とは?
古代日本・考古・神話・民俗・遺伝子・霊性など分野を統合し、独自の視点で日本を読み解きます。
一つの穴を掘り続けていると、思いがけないところで、別の穴に出ることがある。最近、この経験が私の心に残っています。
昨年の調査テーマの一つは、麻の古代日本史でした。縄文の縄から大嘗祭のアラタエ、それを伝播させた古代氏族と語られない海を移動史た人々。ですが、最近、繊維の一本を手繰るように潜っていた場所から、和紙の理解が必要となる地点に出ました。そして和紙を扱う以上、楮(こうぞ)に行き着きます。
麻と楮は、植物としては別ものです。片や1年で立ち枯れる草、片や幹を持つ樹木。近代の分類学の棚では、隣り合うことすらない。ところが日本の古伝承の中では、この二つは同じ氏族の手によって運ばれ、同じ神に率いられているのです。
それが、忌部です。ですが忌部氏は、平安時代に入る頃、すでにかつての実権を失い、歴史の表舞台から退く立場にありました。そんな中、807年に忌部最後の当主・斎部広成が平城天皇に奉献した書物が、『古語拾遺』です。
この文献には、忌部の祖神フトタマのもとに技術の神々が束ねられ、アマテラスが天の石屋に隠れこもった際、一大事業を遂行したことが記されています。この時に登場するのが、二つの和幣です。青和幣と白和幣といいます。
青和幣が麻、白和幣が穀です。そして現・徳島の吉野川流域に動いた阿波忌部の祖神アメノヒワシが、穀木(楮のこと)を植えさせて、白和幣を製作させたと記されています。麻と穀。この時点で既に、二つは一つの職掌の中にあります。
後半、フトタマの孫であるアメノトミは、アメノヒワシの孫たちを率いて肥沃な土地を求め、東へ向かったと伝わります。この東征ルートは海を伝っており、まさに麻と穀の種を携え、各地にもたらしながら、移動した歴史の痕跡です。
徳島を出立した彼らは、紀伊半島を周り、伊勢地方に入り、東海を経由して関東へ進み、やがてある場所にたどり着きます。その新天地では、植えた麻がよく茂ったことから、その地は「総」と呼ばれるようになり、阿波から渡った忌部が住み着いたことから、「安房」と呼ばれました。現在の千葉県です。
つまり、房総の地名は、徳島の麻から来ており、アワという音が、古代人の移動を地名に刻み込んでいるのです。
私が麻を掘っていて驚いたのは、この一点でした。植物の話をしていたはずが、いつの間にか地名の話になり、氏族の移動史になり、神社の祭神の話になっている。掘っている当人には、その繋がりは最後まで見えない。繋がっているかさえ、わからない。しかも、見えた時には、既に別の場所に立っている。
そして穀/楮。楮の樹皮を裂いて作る繊維を、古語で「木綿」と書き、「ゆう」と読みました。ただ、これは今の私たちが想起する綿ではありません。インド由来のコットンが日本に定着するのは、はるか後年です。
楮の靭皮繊維は、長く、絡み合い、驚くほど強い。だからこそ、布として活用されました。徳島県那賀町木頭には、今も楮を織った太布が伝わっていることが、古層を伝えています。
この古層に、新たに紙の技術が入ってきたのです。『日本書紀』によると、推古18年(610年)、高句麗の僧・曇徴が墨と紙の製法を伝えたと記されています。
一般には、ここが日本の製紙の起点として語られます。ですが、少し立ち止まる必要がある。技術は確かに海を渡ってきたが、その技術が扱う素材は、既にこの土地にあったのです。しかも、神事の中心に据えられた素材として。剥ぎ、水に晒し、叩き、繊維を解きほぐす。この一連の手の行為を、忌部は既に何百年も反復していました。
だから、紙は異物として入らず、むしろ「布のもう一つの姿」として受け入れられたのです。千年を超えて古文書が残るのは、楮の繊維が長いからだと説明されますが、もう一歩踏み込めば、紙が来る前に、繊維を扱う行為が日常に既にあった。すでに行為(技術)としては、完成されていた。器が先にあったところへ、水が注がれただけと言えます。
また、麻と楮を「別の素材」と見なしているのは、近代以降、私たちに付着した悪癖にすぎません。アイヌ研究の第一人者・知里真志保は、かつてのアイヌ語に「植物自体」を指す用語がないことを突き止めています。
この知里真志保の気づきを、昨年、頭の片隅に置きながら調査を続けていると、古代人は「物」を同定するために名を付けたのではなく、「行為」に名があったと理解するようになりました。ある植物の、ある部位を、日常の行為の中で用い、何かを生み出す。その一連の行為にこそ、名が付けられた。今週の思想の森でお伝えした、主語なき境地です。
この視点に立てば、麻と楮が一つの氏族に担われた理由は、明快です。剥ぐ、晒す、叩く、績む。行為として、両者は同一です。もちろん、差異はありますが、同じ技術を素材に応じて合わせる古代人の技術なら、私たちが考えるような違いはない。つまり、素材が違うのではなく、素材という概念がなかった。あったのは、繊維を扱う行為そのものであり、その行為を司る神だったのです。
そして今、別のプロジェクトで和紙を扱う必要が出てきました。その時、ふと、昨年の調査の知見が、「麻と楮」という古代から結びつくものであることに、改めて気付かされたのです。
KINEMA 2400
江戸時代、国学者は仏教や儒教などの中国的な影響に反発し、日本の固有性を万葉集や古事記に見出しました。
現在、私たちは欧米的な影響により、似たような状況に陥っています。
しかし、古典を読むことは、あまりにハードルが高い。
そこでこのコーナーでは、「日本の心」の観点から、往年の日本映画を読み解いていきます。
文化が終わるとき、たいてい誰も気づきません。
1974年、ATGは二本の傑作を世に出しました。寺山修司『田園に死す』と、黒木和雄『竜馬暗殺』。ATG方式の頂点であり、同時に、ひとつの時代の終わりでもありました。
同じ年、ATGの拠点、いや、時代の拠点だったアートシアター新宿文化が、その役割を終えます。1962年の開館から、12年。総支配人の葛井欣士郎が辞任したことに始まります。理由は、劇場が、世に問うことから、一般の商業映画館へ切り替わったからです。同時期、ATGは海外芸術映画の配給を打ち切ります。
輸入し、育て、作る。その最初の一本目が、静かに外されたのです。
なぜ、熱が引いたのか。理由は明白です。あの問いを抱えた観客が、消えたからです。第一回で、60年代を始めたのは、巨大な敗北感だと書きました。では、その季節にとどめを刺したのは何なのか。
それは、弾圧ではなく、内側からの崩壊でした。ATGが終わる同年、象徴的な事件が起きます。1972年の連合赤軍です。山岳ベースで「総括」と題した同志殺しと、あさま山荘事件が勃発。テレビは一日中それを映し、日本中が見ました。この瞬間、政治で世界を変えられなかったという敗北の上に、変えようとした者たちが、仲間を殺したという重い事実が重なったのです。
さらに、翌1973年にオイルショック。高度成長が終わり、街の空気が一変します。人はなぜ死ぬのか。私とは何なのか。あの問いを、口に出すことがなくなったのです。「しらけ」という言葉が世代の名前になっていくのは、この数年です。
問いを抱えた若者が街からいなくなれば、その問いに応える映画館は、成立しません。すると、問い自体を生成する先鋭的、前衛的、実験的な作品は、必要性を失う。実際、ATGの衰退は、この歴史そのものでした。
ところが、新宿文化が消えた同年の1974年2月12日。神保町の岩波ホールで、ひとつの上映運動が始まります。これに関わったのも、川喜多かしこでした。彼女が総支配人の高野悦子とともに立ち上げた「エキプ・ド・シネマ」が誕生し、第一回上映作品として、インドのサタジット・レイ『大樹のうた』が上映されました。
火は、新宿から神保町へと移ったのです。
この運動が、のちに「ミニシアター」と呼ばれる源流になります。1981年には、新宿にシネマスクエアとうきゅうが開場し、翌年ユーロスペース、その翌年シネ・ヴィヴァン六本木が開業。80年代の東京という好景気に沸く時期に、小さな映画館が次々と生まれました。川喜多かしこという人が、いかに深いところで日本の映画文化を支えていたかが、わかります。
ですが、ATGは70年代を通じて、じりじりと後退していきます。批評家に絶賛されても、客が入らない作品があり、加盟館は減り、経営は苦しくなる一方。70年代前半には、当時のポルノブームに便乗する形で、思想を絡ませた実相寺昭雄『無常』『曼陀羅』や、若松孝二『天使の恍惚』といった、いわゆる芸術ポルノが興行的に当たりました。
1979年、創立以来の社長・井関種雄が退任し、佐々木史朗が後を継ぎます。
ここで新社長は、画期的な方針を打ち出しました。監督側の負担は50%でも10%でもよい、金がなければATGが全額出す、と宣言したのです。製作費も、三千万から三千五百万に引き上げられました。一見、作り手に優しくなったように見えます。ですが私は、ここでATGはATGでなくなったと考えています。
ATGの「一切干渉しない」という第二条は、善意だけで成り立っていたのではない。作り手が半分を出しているからこそ、口を出す筋合いがなかった。今村昌平や岡本喜八が家を抵当に入れて映画を作り続けたように、作る側は命を賭けていた。その対等さこそが、干渉しないという奇跡を支えていたのです。全額を出す側になった瞬間、ATGはただの製作会社になります。
ですが、ここから次の芽が育ったのも事実です。佐々木体制のATGは、自主映画やロマンポルノ出身の若手を積極的に起用。大森一樹『ヒポクラテスたち』(1980年)、大林宣彦『転校生』(1982年)、そして森田芳光『家族ゲーム』(1983年)という、名だたる名監督が登場しました。
ATGの作風が明らかに変わった。しかし、本当の問題はそこにありませんでした。ATGの発明が、業界の常識になってしまったのです。
1977年、ぴあが自主製作映画展を開始(のちのPFF)。1979年には、東映が社外監督に門戸を開き、製作費は折半という方針を打ち出しました。低予算で、若手に、一本目を撮らせる。ATGだけがやっていたことを、大手がコピーしてやり始めたのです。
運動は、負けて終わるとは限りません。勝って、吸収されて、終わることもある。ATGの晩年は、そういう終わり方でした。文化が、商業的に吸収され、消化されてしまったのです。
そして1992年、新藤兼人『濹東綺譚』。これが、ATGの最後の作品になります。以後、会社は休眠したまま26年を過ごし、2018年11月1日、東宝に吸収合併されて消えました。この間の1993年、川喜多かしこは死去しています。
では、ATGは何を遺したのか。
人を遺しました。大島渚、松本俊夫、吉田喜重、長谷川和彦、森田芳光。彼らがあの場所を通ったという事実そのものが、日本映画の骨格そのものです。
そして、言葉。上映館でしか売らなかった雑誌『アートシアター』。完全シナリオと評論を収めたあの冊子が、映画を観て消費する観客から、読み、考え、論じる者に変え、その先に映画を作る転換を成し遂げた。
何より、仕組み。金は半分でいい。ただし、一切口を出さない。そのかわり、発表する場所は必ず用意する。潤沢な予算でもなく、洗練された才能発掘システムでもない。作り手が自分の半分を賭け、大人が黙って場所を差し出す。それだけで、日本映画はあの高さまで行ったのです。
いま、私たちは違う景色を見ています。カメラは誰の手にもあり、発表の場は無限にあるように、見える。ですが、ATGを眺めていると、何かが決定的に間違っている。ATGが遺した真の遺産は、相変わらず強烈で、先鋭的な問いとして、今も残されているのです。
新宿三丁目、伊勢丹の横。文化は、小さな場所で生まれ、静かに終わります。一時代を築いた建物は、もうありません。ですが、あそこで行き場のない憤りを抱えた若者と、大人が共犯したことを、忘れてはならないはずです。
思考する作品を提供し、作る意欲を高め、金を半分出して、口を出さず、場所を持つ。観た者は、思考する者となり、作る存在となる。その連鎖こそ、日本文化です。ATGが遺したのは映画ではなく、おそらく、在り方のほうです。
現在のクリエイティビティは、果たしてこの精神を少しでも持っているでしょうか。それとも、この歴史さえ知らないまま、クリエイティブを語っているのでしょうか。葛井欣士郎は、ある言葉を遺して世をさりました。最後に、その一言を。
「僕はね、アートシアターのお客様から次の芸術家が生まれるのが夢だったんだよ」