神道の起源Shinto Origins Revealed
調査から見えた新たな可能性の提示
日本で仏教が根付く基礎には、『蘇我馬子』と『祟り』があり、この二つのファクターが仏教の促進基盤に深い影響を及ぼしながら、その後の日本史を形成したことを昨日の記事では示唆しました。逆に言えば、この二つのファクターがなければ日本でここまで仏教が根付くことはなかった可能性があります(私はそう考えています)。また当時の仏教の受容を巡る深刻な対立が大和(奈良県南部)で起きた際、元々この地域には渡来系部族の帰化人、さらには新たな移民がそれなりの規模で存在したことが、大陸系宗教を比較的素直に受容する原動力だった点も見逃せません。
このように見ると、私は単純に日本側で仏教が受容されるようになった背景には、在地の日本人が仏教に対する新たな宗教性に未来を感じたからではなく、むしろ初期的には政治における権力闘争の観点から、発言力を高め始めていた帰化系移民を巻き込んだ蘇我氏の政治手腕によるものだと考えています。ここで注意が必要となるのは、そもそも仏教伝来以前、あるいは仏教伝来の激動期に日本側に『神道』なる宗教があったか否かです。実は私は宗教としての神道は当時存在しておらず、日常生活における信仰が仏教という教義・規律を強く有する大陸系宗教の伝来によって、必然的にそれまでの状態を脱して、仏教に対抗するために『神道の宗教化』を計る必要性が初めて生まれたのではないかと考えています。
つまり、そもそも『神道』という宗教的な概念自体が当時はなかったということです。これは未だに神道は宗教か否かなどという考察が無数に行われていることからも明らかですが、個人的には神道は仏教伝来期の蘇我氏の台頭に伴い、必然的に宗教的性格を獲得する圧力がかかり、ここから数世紀に渡って仏教との複雑な関係を受けて変様しながら宗教化を達成したと見ています。実際に神道が宗教化に初めて成功したと言い得るのは、この観点から見ると明治時代の国家神道(神社神道)であるため、実は比較的最近のことだということが分かります。
ここは考察が極めて難しい点ですが、そもそも『神道』とは一般的に『神の道』と漢字で書くこと、さらに私は本来神道が持つ性質は『日常生活における実際行為=信仰』だと捉えているため、これらを総合すると個人的には神道なる宗教性の祖型にあったのは、仏教伝来よりも遥か昔に、こちらも渡来系移民によって伝来した古代中国の道教の影響が強く関係していると考えています。道教も本質的には『日常生活における実際行為=信仰』であり、儒教のような体系化された教義に反発しますが、この道教的性格こそ神道の源流を見る際に最も重要でありながら、ほとんど考慮されていない性質であるように感じます。
『道教』という漢字からも明らかですが、『道』の概念は古代中国の老子が論じたものでありながら、荘子などを通じて広がりますが、同時に道教は国家規模の体系的な教義を論じるものではなく、本質的には『場所』を重視します。つまり、場所において『道』を生きること、これこそが道教の本義だと私は考えます。この道教的性格は全体的な統治を掲げる為政者にとってはかなり都合の悪いものであり、特に中国は歴史的に何度も王朝が栄枯盛衰を繰り返しながら、次々と新たな体制(システム)が樹立してきた歴史を持つため、この道教が根付くにはかなり難しい環境にあったと言えます。
だからこそ、統治哲学として儒教側が優遇されたのです。私は別段中国史に精通していませんが、日本史は中国の歴史などを後代に参照して体制哲学に取り入れる性質を持ってきたため、日本側の洞察からある程度の概観を掴むことができます。この観点から思考すると、個人的には道教が中国側で本当に根付くことは厳しく、むしろ道教の影響を受けた古代中国系部族の一部が日本列島に渡来した時、そこには『宗教化されていない場所』が豊富にあることに感銘を受けたのではないかと考えています。これは古代日本を洞察していると、常に彷彿とする道教の『三山思想』や『神仙思想』からも自明です。
一般的にこの神仙思想は紀元前3世紀頃に中国の山東半島を中心に広がった原始宗教の一種と捉えられていますが、この山東半島が当時日本列島に渡来する有力なルートの一つだった点は見逃せません。実際、古代日本列島に渡来する第一のルートは朝鮮半島南部でしたが、その他に山東半島や遼東半島が主な経路です。従来の日本史では朝鮮半島南部しか見ていませんでしたが、個人的な調査からそれだけでは説明できない古代日本史の動きがあり、実際に昨今は少しずつ朝鮮半島南部以外のルートへ目が向けられ始めています。
特に神仙思想には『蓬莱山』という伝説の山が語られており、これは『東方の海上』にあると言い伝えられてきました。この伝説を実際に調査したのが初の中国統一を成し遂げた秦の始皇帝です。秦の始皇帝は蓬莱山で不老不死の霊薬などを入手するために、家臣・徐福に勅令をくだし、徐福は3,000人もの民を引き連れて『東方の海上』を目指します。これは単なる伝説ではなく、中国側でも徐福の村が発見されたり、日本側にも複数の地域に徐福が渡来してきた伝説が残っています。
仮に徐福が紀元前255年頃に生まれてそれなりに生きた人物だと過程すると、少なくとも紀元前3世紀頃に日本側に徐福などの集団由来で道教の思想が伝来した可能性は高いと言えます。秦朝は推定で紀元前221-前206年まで存在したと考えられることから、この期間に日本側に秦にルーツを持つ人々が3,000人程度渡来したということです。実際に私は複数の地域でこの伝説を調査してきましたが、3,000人が同じ地域に到来したのではなく、大体30人が乗る船が100隻ほどに分かれて、日本列島への海路で嵐などの影響を受けて分散して各地に到来した可能性を考えています。有力な地域としては、和歌山県南部の新宮市、そして島根県西部の石見です。
そして重要なことは、この秦朝が短命に終わったことです。そして私がなぜ日本の神道の起源を秦朝に見ているかと言えば、秦朝が『焚書坑儒』という性格を有していたからです。これは簡単に言えば、『書物を燃やす』ことと『儒者の排斥』です。つまり、書物を奉祀して規律を体系的に行う哲学へと発展していた儒教の弾圧です。視方を変えれば、制度がシステム化する兆候を秦朝は儒教だと見抜き、即座に排斥する措置に動いたということです。この性格は後に中国にインドから仏教(書物・仏像・寺院を有するシステム化)が伝来した際、同質の反発が起きている点からも明らかです。
さらに秦朝は紀元前206年に滅び、続いて古代中国は漢王朝の時代へと移行する段階に向かいますが、これは秦朝の庇護下にあった人々が行き場を失い、新天地を求めて移動を開始した歴史を示唆しています。少し視点を変えると、徐福など3,000人が日本に渡来した伝説の真相は、秦の始皇帝による勅令ではなく、むしろ秦朝の崩壊によって新天地を求めた人々が既に強い影響下にあった道教的ユートピアを目指し、『東方の海上』にある『蓬莱山=日本列島』を目指して山東半島経由で海を渡ったと考えた方が興味深い歴史が見えてきます。
実際、徐福の先祖は春秋戦国時代に山東・江蘇・安徽の三省を支配していた『徐国』の偃王の子孫だとも伝えられており、秦朝も山東半島を支配下に置いていたことから、彼らは山東半島方面から日本に直接渡来してきた可能性を考慮すべきです。
つまり、秦朝が呆気なく内乱によって崩壊したことで難民が多発し、一部が徐福なる人物に率いられて日本列島に渡ってきたということです。これは現在では日本列島の姿は明瞭に誰もが理解しているように広大な島嶼ですが、日本は海に囲まれた険しい山脈の連なる『山』でもありました。徐福伝説は紀元前91年頃に前漢の司馬遷が編纂した中国初の歴史書ですから、既に秦朝滅亡から115年程度の歳月が経っています。しかも、秦朝が書物の多くを焼き払ったことから、司馬遷は当時伝わる書物・伝承などを総合的に編纂して制作しなければならなかったため、秦朝の全貌の大半は既に失われていたと考えるのが妥当です。
ここで秦朝滅亡期に生まれた難民の離散という見えない歴史に対して、それなりに秦の末裔が周囲に居たことに配慮して、秦の始皇帝による勅令として伝説を再編成した可能性を私は考えています。だとすれば、秦朝滅亡後の難民の一部は、山東半島から100隻の船で日本列島という新天地のユートピアを目指し、そこに到来後、未だ儒教の影響を受けていない日本列島の各地に道教思想を用いて場所作りを行い、新たなユートピアで生きることが始まった歴史があったはずです。
ここに親和性が高かったのが、今では神道の性格と言われる『八百万神』に対する日本列島の信仰性質であり、古代日本人の原像だったと考えています。この縄文ー弥生時代にかけて培われていた性格が、道教思想の影響を受けて別段階に入り、『非文書』『非システム』という秦朝時代の精神を育みながら、古代日本的な統治が始まった可能性があります。この統治のあり方と、のちに古墳時代を形づくる、大きな体系と秩序を求める力とが向き合う局面が、やがて訪れます。
つまり、日本の『神道』の体系化の起源にある重要要素は、陝西省の西安付近に本拠地があったと考えられている秦朝の難民が、付近の山東半島に移動して海を渡り、日本列島に渡来したことから始まったと言えます。そしてそれは、古代中国側の政治動乱と深く結びついているということです。
これらはあくまでも現時点での私の仮説に過ぎませんが、日本の調査を続けていると、不思議なことに古層には『神道=道教』の同一基盤があるように思えてならない場面が多々あることを常に感じてきました。そして秦朝由来の道教思想には反儒教的性格がありますが、これは『反システム化』とも解釈でき、このシステム化という性格を強く有つ儒教、さらには後代の仏教に対する反発的な性格を暮らしの次元で養ってきたと言えます。
このような考察は一般的ではありませんが、個人的にはここに神道解明の鍵があると捉えており、今回はその一端を少しばかりお伝えしました。