仏教受容を巡る蘇我氏と物部氏Turning Point of Buddhism Taking Root in Japan
6世紀半ば頃に朝鮮半島の百済を経由して中国化された仏教が公式にもたらされたとされる日本の仏教史。当時、この新たな動きを受けて、朝廷内では仏教受容を巡る大きな論争が巻き起こり、やがてそれまでの時代を一変する出来事へと発展していきます。この論争の中心となったのが、新宗教を受容する態度を示した蘇我氏と、伝統的な神々の信仰を重んじて外来の仏教に反発した物部氏でした。
しかし実は、蘇我氏と物部氏の対立は宗教観の違いにとどまりません。これは別の視点で見ると、大陸(主に中国系)文化を利用した大和(奈良県南部)における政治権力争いであり、旧来の有力氏族であった物部氏から、新興の蘇我氏へと覇権が移る日本史上でも重要なターニングポイントの一つです。
遡ると、第29代・欽明天皇(在位: 539-571)の552年頃に、百済の聖明王を通じて仏教の教義・経典や釈迦仏像が献上されると、天皇はその受容について重臣たちに諮ったことから始まります。このとき、有力者の一人である蘇我稲目(506-570)は仏像を礼拝すべきだと主張しますが、一方で古い氏族にルーツを持つ物部氏の当主・物部尾輿や中臣鎌子らは、「異国の神を崇拝すれば、在来の神の怒りを買う」として強烈に反発し、朝廷内は二分化されます 。この時点では神道派と呼びえる勢力の実権が強かったことから、天皇は決議を行わず、ひとまず受容の態度を見せる蘇我稲目に伝来した仏像を託し、蘇我氏に対して仏教の信仰を試験的に許可します 。これは天皇からすると、仏教の信仰が神道における神の信仰にどのような影響を及ぼすかについて、様子を見極める側面がありました。
蘇我氏が仏教受容に積極的だった背景には、単純な仏教への信仰心ではなく、政治的・文化的志向が従来の氏族と大きく異なっていたことがあります。蘇我氏は大陸や朝鮮の文化に強い関心を寄せており、主に自身の束ねる飛鳥地方に多く居住していた渡来系帰化人との交流も深かったとされています。当時の仏教は、大陸由来の最新の思想・文化のパッケージとも言える存在ですが、当然ながら寺院建設や仏像造立には高度な技術・予算が伴います。蘇我稲目はそれら先進技術や知識にいち早く触れることによって、自らの氏族の権威を高め、将来的に朝廷の主導権を握り、旧来の氏族を一掃する絶好の機会だと捉えました。
実際、蘇我氏が仏教受容を主導したことで寺院建立などの国家的事業が増加し、多くの人々に仕事の機会が生まれた事実があります。特に帰化人は中々仕事がなかったことから、大和を束ねる朝廷にとっても、蘇我氏の考え方は統治の観点からも都合が良かったのです。そして蘇我氏の発言力が高まるにつれて、各地の豪族たちも「蘇我氏に味方すれば公共事業が増えて利益に与れるが、物部氏に付いても見返りは少ない」と映っていき、蘇我氏陣営に加担する要因となっていきます。つまり、仏教を巡る『崇仏派/蘇我氏』と『排仏派/物部氏』の構図は、仏教の宗教観以上に実利的な側面が大きかったことに注意が必要です。
欽明天皇からの許可を得た蘇我稲目は、まず自邸のある飛鳥の小墾田宮に仏像を安置し、信仰を実践します。さらに稲目は自らの別邸である向原(むくはら)の宅地を寺院に転用し、仏殿を設けて小さいながらも日本初の仏教寺院の草創を行います 。当時の「寺院」は、後に見られる瓦ぶきの伽藍を備えた本格的なものではなく、邸宅内に仏像を祀る程度の簡素な仏堂でしたが、それでも飛鳥の地に仏法を根付かせる画期的な試みとなります。蘇我氏の邸宅寺院は向原寺(こうげんじ)と呼ばれ、後に場所を移しながら発展し、やがて第30代・敏達天皇(在位: 572-585)の時代には桜井寺、第33代・推古天皇(在位: 593-628)の時代には豊浦寺(とゆらでら)へと継承されていきます 。このように、蘇我氏は仏教導入当初から自らの領地に寺院創建を始め、着実に仏教の基盤を築いていきました。
仏教受容を推進した蘇我氏の背後には、多くの渡来系技術者や帰化人集団の存在があったことは見逃せません。当時の日本人が仏教の信仰を強く持ったから日本で仏教が始まったのではないということです。そもそも蘇我氏は朝廷内で財政・外交を担当する大臣職にあり、大陸から渡来した人々やその子孫を配下に組み入れていた領主としての二面性を持っていました 。一例を挙げると、朝廷に仕えた『東漢氏(やまとのあやうじ)』という集団は、中国や朝鮮から渡来した複数の氏族の総称であり、主に製鉄や馬具製作、土木建築など高度な技術を有していました 。東漢氏はその祖先を漢の皇帝に遡るとも伝えられる渡来系豪族で、仏教勢力が勢いづく飛鳥時代に入ると蘇我氏と協力して初期国家建設に寄与したとされています。つまり、蘇我氏が台頭する過程で、東漢氏をはじめとする技術者集団の力が大きな原動力となり、やがて朝廷の力学を塗り替えるまでに力をつけていったのです。
実際、蘇我稲目の子である蘇我馬子(551-626)が仏教にもとづく新国家づくりを目指すことができたのは、彼らが早くからこうした最新技術集団を巧みに統率し、活用できる特殊な立場にあったからです。異なる言語や習俗を持つ人々を束ね、その知識と技能を寺院建立や治水事業などに生かせた蘇我氏の手腕は特筆すべきものであり、かなり政治的手腕に長けていた人々だと言えます。
ただし、蘇我氏が仏教を信奉した理由として「蘇我氏のルーツ自体が渡来系であったからだ」という説がかつて提唱されていたことも見逃せません。この説は、古代史研究者の門脇禎二らが1970年代に提唱しており、そこでは蘇我氏は百済からの渡来人集団出身ではないかとの仮説が提示されて激しい議論を巻き起こしています。その後の研究では蘇我氏渡来人起源説を正面から支持する研究者は多くなく、むしろ蘇我氏は在来の有力豪族の一つであるとする説が一般的となっています。当然この時代背景には、まだ日本人が単一民族であるという戦前頃から主流となったイデオロギーが強く学界に作用していたことも関連します。事実、日本書紀や系譜史料では、蘇我氏は『葛城(かずらき)氏』の流れを汲むとも、あるいは皇室の遠縁にあたるともいわれています。蘇我氏の出自は未だ明瞭ではないのですが、個人的に奈良を調査する過程で一つの可能性を見ています。
そもそも、この葛城氏自体が外来ルーツという点は重要です。現在も奈良県には葛城市という地名が残りますが、この地域が彼らの勢力圏でした。その地域の考古学的成果を踏まえると、どう考えても彼らは渡来系です。ただし、まだ蘇我氏を外来ルーツと見る向きは日本でも一般的ではなく、近年ではむしろ蘇我氏と中臣氏が皇室から分岐した皇族の一派であった可能性も論じられています。このように、蘇我氏は後の時代に滅亡する過程で出自に関わる文書の多くを焼いたことから、現在まで断定的なことは何も言えないのです。
そして仏教受容を巡る蘇我氏と物部氏の対立は、やがて深刻な抗争へと発展します 。欽明天皇の時代には論争程度で武力衝突は起きませんでしたが、次代の敏達天皇の時代に入ると状況が一変します。ここで躍進したのが蘇我稲目から仏教奨励の意思を受け継いだ子・蘇我馬子です。私はこの蘇我馬子が登場しなければ、日本で仏教がここまで歴史的影響を持つことはなかったと考えており、それほど重要人物です。
蘇我馬子は敏達天皇のもとで再び仏教を広めようと試みますが、その矢先の584年前後に疫病が大和で大流行し、多くの民が死ぬ絶望的な事態となります 。ここで躍進する蘇我氏の勢いを抑止するために、排仏派の筆頭格であった物部尾輿と中臣鎌子はこれを好機と捉え、ある戦略を天皇に持ち込みます。この時、彼らは天皇に対してこの疫病は日本に仏教を持ち込んだことで神が怒ったことが原因であり、すぐに仏像を破棄して神に対して祈らなければ大変なことになると主張します。まだ仏教受容の間で揺れ動いていた天皇はこの意見を採用し、一転して仏教禁止の勅を下します。ここで天皇の意向を背後に受けた朝廷内の排仏派の息のかかった役人たちは、蘇我氏の有する寺を焼き討ちし、伝来した金銅の釈迦仏像を難波の堀江(大阪湾岸の運河)まで運んで流し棄てました 。こうして日本初の寺は焼失し、仏像も海中深く沈められたのです。
仏教受容こそが朝廷内の力学を一変するトリガーだと考えていた蘇我氏にとって、この出来事は大きな痛手となります。そこで蘇我馬子は、状況が変わったことを受け入れて表向きには仏教活動を中断する決断を行います。しかし、ここで今度は不思議な出来事が起き、再び仏教受容に傾く厄災が生じるのです。
日本書紀によれば、排仏派が寺院を焼き払った直後に、快晴無風の中で天皇の宮殿に突然火災が発生したと伝えています。そして当時の大和に属していた人々の中には渡来系帰化人も多かったため、これを「破棄した仏が祟りをなした」と象徴的に受け止めます。ここで興味深いのは、物部氏/中臣氏などが奉祀してきた神道系の神(在地の神)に対して、異教の仏を『異国の神』と見做し始めたことです。こうして、仏像を粗末に扱った報いなのではないかという噂が立ち、徐々に時代が変動していきます。当然、この謎の火災が大勢を立て直したい蘇我氏勢力によるものと考えることも妥当でしょう。
つまり、疫病の流行は仏教受容に対する在地の神の怒りと解釈されて排仏派による廃仏が断行されましたが、その直後に起きた謎の火災は『廃仏への報い=仏の祟り』だと捉えられたのです 。この一連の騒動は、表面的には伝染病への畏怖と、神と仏のどちらを信じるかの宗教論争とも言えますが、背景にあったのは何度も言うように、新たな信仰を表向きにした政治的主導権争いです。簡潔に見ると「在来の神」VS「異国から来た新たな神(仏)」の象徴的対立であり、疫病・火災などの厄災を舞台に繰り広げられた権力闘争でもあったと見る方が、この時代は読み解けます。
ここから状況が一変して崇仏派が大きく躍進することになるのですが、独自の視点を示しておくと、日本史を通じて仏教の影響がここまで広がることができたのには、二つの絶対的なファクターがあったということです。その一つが『謎の火災』、そしてもう一つが『蘇我馬子の台頭』です。この二つの時代を変えるファクターが噛み合う時代、遂に激動の仏教史が始まっていくのです。