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国家神道とスピリチュアルな神道の交点:大本教Intersection of State Shinto and Spiritual Shinto

神道が宗教の性格を獲得し、体系化への大きな一歩を踏み出した明治時代。国家神道や神社神道と呼ばれるものは、総じて『神道の宗教化』という歴史上重要な試みであり、大きなターニングポイントでした。しかしこの時代に神道がスピリチュアリティを同時に獲得していく複雑な姿を理解しておくことも、神道とは何かという本質的な問いに向かうためには欠かせません。国家神道と呼ばれる宗教的な姿には、無数の複雑な系譜が集結しているということです。

そこについて論じることは多岐に及びますが、ここで私が以前から重要視しているのが大本教の存在です。元々、江戸時代中期頃に儒教・仏教への反発から台頭した国学に由来する近代の大きな宗教ムーブメントは、近代に入って新たに起きたのではなく、源流の形成は日本史を通じて行われ、体系化への一歩は江戸時代を通じて精度が磨かれました。そしてここで重要な認識は、昨日の記事でも触れたように『システム化』への強烈な反発です。江戸時代の儒教主流派の大半が朱子学によって支えられ、同時に中世以降に完全にシステム化された仏教と相まりながら、高度な統治哲学へと昇華し、徳川幕府のシステム維持を長年支え続けてきました。

この統一的なシステムが強固になる姿に対して、強い反動から生まれたのが国学です。徳川幕府の統一的なシステムは、初期的には藩への分散が機能していたことからそれほど強くありませんでしたが、徐々にシステム自体が疲弊を起こす中期頃になると、中央からの統治による圧力がかなり強まっていきます。これはイコールで『システム化』(朱子学)の強度が高まることを意味しますが、それに対する反動として筆頭格である賀茂真淵から本居宣長へと国学の系譜は繋がれていきます。しかし、本居宣長の死後になると状況が一変します。

一般的には、国学者はこうした系譜に準じて考えられますが、個人的には本居宣長を起点に前後の国学者の考え方は相当異なると見ています。そして従来の国学者の歴史的功績を踏襲し、自らの才覚によって独自の昇華へ向かう異なるムーブメントが生じていきました。この先導者となったのが国学者・平田篤胤です。

平田は国学者と言われますが、国学というよりも、むしろ『復古神道/古神道』と呼ばれる系譜の創始に位置される人物です。彼は賀茂真淵ー本居宣長のような学者の気質よりも、多彩な宗教家としての素質が高かった人物です。平田の主張はかなり独自のものであり、個人的には賛同していない点も多いのですが、この平田の絶大なカリスマ性が時代に与えた影響が相当大きかったことは事実です。特に平田が神道を復古する名目で、当時分断していた吉田家の『吉田神道』と白川家の『伯家神道』という二大勢力を京都において統合し、まさに新たな神道の王として君臨します。この時代は複雑な神道の系統が全国各地で分岐しながら独自の発展を遂げていましたが、江戸幕府は神道教団の開設には必ずこの吉田家と白川家の許可を取らなければならないと定めていたため、事実上、江戸時代の神道なる姿は平田篤胤によって変動を迎えたと捉えて構いません。

この平田の動きは、かつて中国側で新儒教と呼ばれた北宋・南宋の儒者による新たな儒教解釈同様に、神道における『新神道』とも呼ぶことができます。この新たな時代の流れに呼応するかのように、不穏な雰囲気が漂い始める江戸時代後期頃から各地で新宗教と呼ばれるムーブメントが起きます。その代表は金光教、天理教、黒住教などですが、いずれも地方の指導者から始まった場所に根差した新宗教である点に注意が要されます。さらにこれらは安易にイコールで神道とは言い難い側面も強く、儒教、仏教などとも複雑に混淆しており、さらに神憑りによって激動の時代が予知されるなどのスピリチュアルな側面も強かったからです。しかし、幕末の政変が近付き、徳川家の統治が完全に弱体化する傾向を肌で感じていた人々は、こぞってこうした新宗教に入信していきます。

やがて1868年に明治維新が終わって新政府が樹立されると、神道を国家の基盤に据える方向が画策されながらも、同時にこれらの新宗教を国家的に認める政策が行われています。これによって新宗教は体系化されていき、国家に組み込まれていきますが、この過程で新政府の庇護を受けた新宗教は信者数が拡大してかなりの勢力を獲得していきます。この流れはしばらく続いたのですが、ここで新宗教ムーブメントの総集とも言える存在が丹波の山に囲まれた村落から勃興します。これが大本教の源流です。

現在は京都府に編入されていますが、皆様がイメージする京都は京都市の限られた場所に過ぎません。ここで登場する出口なおや大本教に由来する福知山市、綾部市、亀岡市などとは文化圏が大きく異なるのです。そして山間部の村落で神憑りが起きて、老女の出口なおに神が憑依したことが大本教の始まりとなります。これは古代の巫女が復古する狼煙とも言える重要な動きですが、一方で当時は教団は存在しておらず、民間信仰として出口なおが奉祀される次元に留まります。ただこの噂は各地に伝播していき、その過程で若き宗教家としての才覚を有していた人物が出口なおの元を訪れて以降、大きな動きへと発展し、激動の第二次世界大戦へ向かう前の日本を動揺させていきます。その指導者が上田喜三郎です。彼こそが、後に大本教を創始して指導者となる出口王仁三郎です。

ここで古代巫女的な霊性を有する出口なおと、近代宗教的な才覚を有する上田喜三郎が出会ったことで、大本教は単なる丹波の山奥にある民間信仰次元を脱し、急成長を遂げていきます。出口なおは神の言葉を代筆する『御筆先』と呼ばれる方法で無数の予言を記したのですが、中でも日清戦争(1894-1895)を予知したことから信者が増大する主因となりました。この時点では二人の接触は起きていませんが、ここで名乗りをあげた出口なおの存在があったからこそ、後に二人は出会うことになります。

元々宗教への関心を持たなかった上田喜三郎ですが、不遇の時代の経験を通じて、ある時、これまでの過去を改めて宗教家としての一歩を踏み出す決意を固めます。覚悟を決めた1898年には霊力を駆使する謎の人物と出会い、亀岡の山中で一週間に渡る修行を実践します。ここで強烈な神秘体験を得た喜三郎は、自らの霊的使命を悟り、その道に邁進することを誓ったのです。ここで喜三郎は自らを激動の時代に置かれている日本の救世主と自覚し、事業の全てを弟に移譲して自らは神道のスピリチュアリティーを探し求める壮大な旅に出ます。

各地で様々な人々に教えを請うた喜三郎は、この旅の過程で江戸時代の平田篤胤に由来する新たな神道を熟知していきます。そして自ら亀岡市近辺の園部という地域で独自の布教を開始したのです。すると翌年、神の導きによって出口なおの元を訪れることになり、そこで彼女の娘・出口すみと結婚し、名前を出口王仁三郎と改めて大本教の樹立へと向かうことになります。この時、時代の霊的存在とも呼び得る出口なおと出口王仁三郎が交差したことで、中央で行われていた国家神道的な動きとは全く異なる独自のムーブメントが丹波の山間部から始動します。この動きは山間部で起きたことから、東京に拠点を置く明治新政府にはほとんど監視されていませんでした。

平田篤胤同様に宗教的カリスマ性を持っていた王仁三郎の登場によって、明治時代の神道は一気に揺れ動きます。ここでなぜ王仁三郎が国家神道の系譜ではない位置から、独自の神道を樹立できたかについてヒントを提示しておきます。それが実は『言霊』の存在です。既に平田篤胤の時代頃から、国学者にとって最大の関心であった言霊への理解は研磨研鑽されており、平田以降の神道家たちにも絶大な影響を及ぼしていきます。それ以前まで言霊は特定の氏族・人物が一子相伝する類の神聖なものであり、他者に漏れることはありませんでした。今では言霊というワード自体も日本に限らず国際的に知られるようになってきていますが、言霊は簡単に扱えるものではなく、生涯をかけても駆使できる可能性はゼロに等しいのが現実です。また何事もそうですが、使い方を誤るほど危険なことはなく、それゆえに言霊は常に使う人の人格・霊性が重視されてきた歴史を持ちます。

私も少しなら言霊を理解していますが、この辺りを誰かに語ることはありませんし、使うこともありません。ただし、私のような全く言霊とは無縁の人物が少なくとも言霊について理解することができるのは、この平田篤胤ー出口王仁三郎へと結ばれる時代があったからこそです。特に平田の影響力は全国規模に及んだことから、各地で平田を崇拝し、独自の宗教観を打ち立てる人々が多発した上、その布教活動として山間部を渡り歩き、事実上修験者のような生活で都市から隔てられた村落に住み着いたりする動きがありました。これらは基本的に歴史の記録には残らない動きのため、中々全貌を知ることはできませんが、江戸時代後期から幕府・藩の統治力がかなり弱体化していたことから、こうした放浪者たちはそれなりの数が居たと私は考えています。なぜならば、それまで極度の移動制限があった侍でさえ、藩主に見切りをつけて脱藩を行い、各地を動き回るようなことができたからです。

この新たな時代に呼応して、各地の宗教家はもはや幕府・藩からの規制が不可能な次元で動き回ります。この歴史的に語られない動きこそが、新宗教ムーブメントの基礎を形成したと私は考えています。そしてこの過程で秘伝だった言霊などの神道の古い智慧が流出していきます。無論、その大半は金稼ぎが目的だったことは事実ですが、一部は神道の奥義に精通するほどの知恵を有しており、彼らが平田篤胤と並行、あるいは影響を受けながら次の時代の基盤を形成していきます。

そのため、言霊では平田篤胤レベルで名前が知られていた人物は皆無に等しいのが現実です。なぜならば彼らの多くは、未だその出自・本名・生涯などの大半が不明であり、今後もそこが解明される可能性はないと言えるからです。しかし幸いなことに、この江戸時代後期頃から明治初期の動きは、上田喜三郎の霊的旅を通じて集合されていき、彼のもとで体系化されていく流れへと向かいます。つまり、上田喜三郎ー出口王仁三郎が登場し、絶大な知名度を誇って時代を動揺させた近代史が、失われた言霊の興味深い歴史を直接的に後世に残す重要な役割も果たしたのです。大本教の歴史的意義は、単なる新興宗教ではないということです。

そして平田篤胤が絶大な崇拝を受けて多数の後継者を多様に生み出し、激動の徳川幕府転覆の時代へと突入したように、出口王仁三郎が絶大な崇拝を受けて多数の後継者を多様に生み出し、激動の第二次世界大戦の時代、さらには戦後日本に強烈な影響を及ぼしていきます。その影響は実は今も強く残っていますが、既に最後の時代を迎えており、10年後にこの影響を考察することは事実上不可能となります。この興味深い歴史に、徐々に踏み込んでいきましょう。