心地よい場所と、そうでない場所Places That Feel Right and Places That Do Not
これまで日本中を巡っている中で、私にとって心地よいと感じる場所と、そうではない場所があることを何度も経験してきました。長らく、この根拠なき感覚がどこに由来するのかについて考えてきましたが、最近、その答えを一つの古い思想に見ています。それが、[風土]という思想です。風土は言葉にすること自体が困難であり、また風土に対する私の考え方は、日本の一般的なものとは全く異なります。そこで今回の記事では、風土の思想が生まれた背景を詳細に見ていきます。
風土という言葉ほど、かつての日本人の心を見事に伝えるものはありません。逆に言えば、風土を理解せず、風土を知らない人々が語る日本や日本人は、机上の空論でしかないと言えます。総体的に日本史を考えても、従来語られている日本史が、例外なく風土を知らない人々によって構築されていることに気付きます。そして風土を知らない人々は、歴史という民族にとって重要な根幹を、なぜか密室で考えてきました。それが大学構内であれ、議会であれ、どこであっても、歴史を風土から語る真摯な人々は常に少数であり、大抵の場合、民族の歴史は密室で決められ、語られてきました。世界的にこの方法は横行していますが、これは歴史ではないし、民族について何かを語ったことにはならないはずです。ここに対する違和感が、私の出発点です。
まず、日本語の[風土]という言葉は、[風](fu)と[土](do)から構成されています。一般に[風]は風のこと、[土]は土のことに解釈されますが、丁寧にその誤りを解いていきます。風土という一つの言葉が伝えるように、民族の歴史、文化、精神、習俗などのすべては、[風]と[土]から理解できます。ただその理解とは、頭で理解することではなく、土地に足を運び、そこに吹く風を浴び、土を踏むことではじめて行われるものです。そうしなければ、私たちは真に物事を理解したとは言えないはずです。しかし、おかしなことに一般的な意味での歴史からは、風の心地よさもなければ、土の匂いもしません。風土を知らない歴史は無意味であり、何も語っていないに等しいのです。実際、風土から歴史や文化を考える以外に、民族の本質を開示することは不可能でしょう。
この観点から見ると当たり前ですが、日本を考察するならば、日本各地で風を浴び、土を踏まなければなりません。これは絶対条件です。何百冊の日本史の本を読んだところで、それは何も知らないことと同じです。江戸時代以降、一部の日本人に絶大な影響を与え続けている明代の儒者・王陽明が[知行合一]を説いたように、知識と行動は一致しない限り、理解したとは言えません。実際、私が様々なテーマを持って日本を旅する理由は、日本の風土を自らの体感に取り込む目的があります。時には、その風土を体感に入れるために何度も通うことがありますが、これは風土は行けば入る単純なものではなく、じっくりと滲透するように、自らに内包されていくからです。真に国や民族を理解する人物は風土が染み込んだ人々であり、そこから語られる国や民族の話は信頼できます。この意味で言えば、日本や世界の理解など、一人の生涯では到底不可能であることがわかります。
問題は、一般的に日本で語られる風土が、近代以降に土地の気候・気象・地形・地質・景色などの退屈な記号で固められてしまったことです。本来の風土が科学的な範疇に限定されないことは、次の点からも明らかです。
かつて古事記や日本書紀が編纂された712-720年、伝承を文献に残すことを勅令した第43代・元明天皇は、同時に各地に残る伝承を土地固有の文献としてまとめる勅令を出しています。このプロジェクトは、当時は[解]と呼ばれましたが、やがて平安時代になると[風土記]と呼び名を変えます。起源を遡ると、[風土]という単語自体は中国発祥の用語で、本来は季節の循環に対応する土地の生命力を意味していました。早くも2世紀には、中国各地を記した地誌書として[風土記]を称するものが現れており、やがて日本に伝来したことが想定されます。ただ、それは日本に風土の思想がなかったことを意味しません。最古の和歌をまとめた万葉集が、このことを示唆しています。
万葉集で歌われる言葉の表記は、当時一般的だった中国由来の漢語ではなく、独自の「やまとことば」を用いています。厄介ですが、このやまとことばは日本列島全体で使用されていた言葉ではなく、あくまでも奈良地方で使用されていた土着の言葉であり、しかも朝廷の人々が日常で使っていた言葉です。実際、奈良時代の和歌に使用される語彙には、漢語熟語がそのまま入り込む余地はほとんどなく、やまとことば独自の歌が詠まれており、そこから息遣いなどのyohakuが生まれています。
風土は漢語の熟語なので、万葉集には[風土]という用語は登場しません。しかし、万葉集の精神世界には、風土の感覚が豊かに存在しています。より正確に言えば、万葉集は風土を歌ったものだと言えるのです。万葉集の風土は、山・川・土地の気、各地の特性を歌う地誌的で風土的な感受性にあります。つまり、中国的な風土と日本的な風土の思想が歌において渾融し、練り上げられる固有の世界が万葉集で育まれているのです。
一方で、朝廷の事業として公式に行われた風土記プロジェクトは、国・郡・郷の名称を「好字」という縁起の良い文字に変更すること、産物の品目、土地の肥沃状態、山川原野の名の由来、古老の伝承という五項目から主に構成されています。これは奈良に置かれていた当時の朝廷が、他国の事情を理解し、政治的な統一へ向けた政策を考える素材の目的もあったでしょうが、それ以上に、朝廷に関与する古代氏族の起源を示す重要な根拠として、各国の風土がまとめ上げられたとも言えます。なぜなら、古代氏族の起源は各地に散らばっており、彼ら固有の伝承が抱える豊富な記憶は、消し去ることのできない権威の正統性でもあるからです。この時代の記録はほとんど残っていないものの、朝廷が風土記編纂を命じたほどですから、天皇に対する古代氏族からの圧力があったことも想定されます。それほど、各国の力は強かったのです。いわば朝廷は、各国の氏族から擁立される形で運営されていたと言えます。
当時の律令制によると、朝廷は日本列島に60国以上が存在すると認識していました。そのため、風土記も国ごとに60種類ほどが製作されたと考えられますが、大半が失われてしまい、今日まで残ったのはわずか5つです。完本として現存するのは、先週の記事で書いた出雲国(島根県)の『出雲国風土記』だけです。この事実は、いかに出雲大社への信仰が歴史的に深かったかを伝えています。他には、『常陸国風土記』(茨城県)、『播磨国風土記』(兵庫県)、『豊後国風土記』(大分県)、『肥前国風土記』(佐賀県)は現存するものの、これらは完本ではありません。他の風土記は散逸しましたが、他書で引用された断片が複数発見されています。このように、古事記、日本書紀、一部の風土記は現代まで伝わったものの、当時の風土記がすべて残っていれば、豊かな古代日本の姿を今以上に解明できたことは間違いありません。なぜならば、土地ごとに異なる風土の記憶を、文献に記録したのが風土記プロジェクトだからです。
古事記と日本書紀は、朝廷の中央集権的な文献という明確な位置付けがあり、特に日本書紀は中国の皇朝システムを模倣する意図で制作されています。実際、日本書紀は中国由来の漢文で記されています。この意図は、中国皇朝が持つ支配の正統性を日本国内でも確立すること、そして国際的な体裁を整えることの両方にあったと考えられます。当時の東アジアでは、漢文で歴史書を編むことが文明国の証であり、1145年に完成した朝鮮半島の三国史記なども同様の文脈から生まれています。また日本書紀の編纂者には、691年前後に史料に登場する続守言と薩弘恪なる人物が関わっていますが、彼らは中国から日本へ帰化した学者です。彼らが日本書紀の漢文表記に深く関与したことが記録されているため、唐の知識人の実務関与なき日本書紀は、成立し得なかったとも言えるでしょう。
一方で、古事記は日本書紀のように漢文で記されておらず、変体漢文・万葉仮名という特殊技法と呼ばれるもので構成されています。こちらは外国人の実務は関与しておらず、極めて日本的な方法で編纂されています。個人的には、古事記は日本書紀と風土記の中間に位置しており、かなり固有の文脈を持つ文献だと捉えています。ひとつの歴史や神話を見る時も、日本書紀から見る場合と、古事記から見る場合では全く異なります。古事記と日本書紀には同じような神話・伝承・記録が記されているようでも、世界や思想が全く異なるのです。極端に言えば、日本書紀は唐の学者の思想で編纂された文献であり、古事記はその影響を受けていない文献です。この二つのプロジェクトを同時に進めたことは、中国からの思想的脱却を時の朝廷が真剣に試みた証と私は見ています。こうした文献成立史から考えると、8世紀前半の時点で、風土の考え方は成熟していたことが理解できます。
なにより、風土は科学的な記号の話ではなく、その土地に生きた人々のすべてが込められています。名もなき先人の意志や想い、信仰、日常の行為、所作、言葉、眼差しから自然の循環に至るまで、風土が伝えるものは広範囲に及びます。それは地球上に人が住んだ数だけ存在しますが、私たちは近代以降にこの風土の土着性を軽視し、なかったことにしてきました。重要なことは、風土が単なる科学的な風や土の話ではないということです。何千年も変わらない風を浴び、土を踏むことによってはじめて発動される、先人が蓄えた「記憶の伝達装置」が風土です。風土が日本の本当の資本であり、日本人である根拠だと私は考えています。ただし、それは単一民族という意味ではありません。多元的な人々が列島に暮らし、非分離に繋がってきた姿が本当の日本人です。どの場所を見るかによって、その世界は変わります。
言い換えれば、その土地へ出向き、風を浴び、土を踏まなければ風土は発動しません。風土を知らない歴史は、どんな権威をまとっていても、全く無意味なのはこのためです。現代に則せば、大半の日本人が風土を知らないから、頭で考える「存在しない日本と日本人」を都合よく解釈し、間違った方向に加速しているのが現在です。実際、一般的に日本国内で語られる日本や日本人は、私からするとすべて机上の空論であり、一部の学者の脳内にしか存在しないものです。今日、日本や日本人を高らかに叫ぶほとんどすべての人々が、日本の風土を知らないことは、語られることはありませんが大問題でしょう。おそらく、排外主義に陥っている国々は、程度の差はあっても同質の問題を抱えています。
まず、風土は場所に規制される絶対条件があります。そのため、統一国家としての日本や、単一民族としての日本人という近代に構築された「空間」には、真の日本はなく、真の日本人は存在しません。前述の通り、近代の空間は常に密室で構築されるものであり、為政者の脳内にしか存在しない架空のものです。そこには吹き抜ける風も、土の感触もありません。日本に行ったこともなければ、日本人と話したこともない人々が、平気で日本や日本人について好き勝手に語ることが現代では許容される奇妙なことが起きていますが、本来、こうしたことは空疎な茶番です。なぜなら、そこで語られているものは日本ではなく、彼らのソースも日本ではないものに基づいて語られているからです。これは、誰も何も語っていないことと同義です。
日本に限らず、世界的にこうした態度は横行していますが、その結果が今日の世界的大混乱なのかもしれません。要するに、その国や民族の風土を知らない人々が好き勝手に解釈し、世界を混乱に陥れたのであって、当然の帰結と言えます。言い換えれば、あなたが日本で来訪した土地の風と土、そして対話した日本人が、あなたにとっての日本なのです。私はそれだけで素晴らしいと思っています。日本人の私でさえ、日本中をこれだけ巡っても、歴史や文化を理解できたとは到底言い難いからです。生涯を通じて研究を続けても、何かの答えに至ることはないでしょう。風土の思想は、日本を含めて近代を経験した各国とそこに暮らす人々が、現在の行き詰まりの先を思案するための有益なアイデアになると確信しています。
風土の構造化の核心にあるのは文化です。これは風土という特定の構造があるのではなく、ある構造化された体系を風土と呼んでいるということです。つまり、風土には多元的な要素が関与しており、その変容や影響のバランスによって風土が生成されています。風土の多元的な要素を分離ではなく、非分離に留めている見えない力が場所です。だから、風土は場所でしか実現されません。これを国家という実態なき空間で考えてしまうと、即座に分離します。
かつての日本で言えば、ひとつの村を出れば、次の村では風土は異なりました。これは風土が場所に規制される以上、同じ風土の生成はあり得ないからです。言い換えれば、この複雑な様態が多元的世界の正体であり、今は失われたかつての日本の本質でした。この日本の本質を無視し、なかったことにしたのが近代史ですが、これ以降に一元的な空間で日本・日本人が型として形成されていきます。統一国家・日本、単一民族・日本人の登場です。ですが、そのようなものは本来は存在しなかったものです。
風土は多元的であり、その複雑な様態は規定自体を拒みます。なにしろ、次の瞬間には変容しており、特定の状態として定まることはないからです。また、どの文脈を抱える人物が風土を発動するかによっても、その実質は異なります。同じ場所であっても、人それぞれに異なることを感じるのはこのためです。
この理由は、風土の核心に存在する文化を構造化するように、他の要素が動いているからです。そのスフィアで主な作用を生み、育んでいるのが歴史・言語・身体・技術です。各要素は非分離に作用を与え合っており、共鳴によって振動しています。その中でも、スフィア自体を形成する作用の源泉となっているのが言語です。例えば、どのような言語様式を持ち、その言語技術を人々がどのように語っているかなどが重要となります。なぜなら、それらが文化を生成する原動力であり、そこから歴史・身体・技術が生まれるからです。この観点から見た時、統一的な国家言語としての日本語は消滅します。はじめから、そのようなものは存在しないからです。すると同時に、多くの人々が語る日本文化なども、存在しないことが見えてきます。言い換えれば、日本文化が存在するのは、統一的に用意された空間内だけであり、場所において日本文化は実在しません。
なぜそうなるかと言えば、文化という核心の土台にあるのが場所だからです。風土の土台には場所があります。その場所に、あらゆる形での言語を駆使する人間が日常生活を営むことで、長大な歳月をかけて形成されるものが風土です。それが東京のオフィス街か、北海道の山間か、沖縄の離島か、長野の山奥かによって、体感する風土は異なります。そこで体感した風土は、絶対に日本一般として拡張できないものです。ここに多元的世界の核心があります。言い換えれば、風土とは日本の神そのものです。この奥深い世界に、無数というかすべてを表した古代のYaoyorozuの信仰の祖型があります。つまり、日本の神は本質的には実体化されるものではなく、規定されるものでもないのです。だからこそ神々は変容し、やがて仏教の仏と習合するような異質なことが起きたのです。
ここで、一つの例を見てみます。先日の記事で書いた出雲大社の祭神・オオクニヌシは、[大国主]と表記します。[大]は大いなる、[主]は統率の意味を持ちますが、[国]とは何でしょうか?
クニは一般に当時の地域を表すと考えられていますが、これが最初の間違いです。確かに、クニは今日の都道府県の礎になり、各自治体の源流でもあります。ただ、古代のクニという考え方は、今とはまったく異なっていました。これを理解するためには、対照的なシマという考えと合わせて見る必要があります。
シマは[島]や[嶋]と表記します。こちらは現在では島嶼として考えられていますが、ここに落とし穴があります。なぜなら、シマという古い考えを今も継承している存在がいるからです。それは意外でしょうが、ヤクザです。というよりも、ヤクザはその源流において、国つ神としての性格を持っており、日本史の理解には、あらゆる側面で欠かすことのできない重要な存在です。1960年代以降の激しい警察権力からの弾圧により、現在はかつての威光を失っていますが、阪神淡路大震災や東日本大震災が発生した時、右往左往する政府や自治体よりも、先に現地で市民の治安維持や物資供給を先導したのは地場のヤクザです。それほど彼らは、場所に根ざしていました。彼らを単なる悪の犯罪組織と見ると、本質を見誤ります。特に阪神淡路大震災の発生地は、日本最大のヤクザ組織・山口組の本拠地であったため、あれほどの大災害であっても、治安は見事に維持されました。これは警察の貢献ではないのですが、その真実はほとんど知られていません。その彼らが、今も自分たちの縄張りのことを「シマ」と呼んでいるのです。
ヤクザが使用するシマという言葉は、一般的に理解される島嶼としての意味を持っておらず、明らかに古層を伝えています。かつて古代のシマは、「天皇の威光が通用する場所」を指していたのですが、要するに縄張りのことです。かつての日本は統一国家などなく、天皇が日本列島すべてを掌握したことは一度もなく、モザイクのように天皇の覇権は点在しました。つまり、いつの頃か天皇なる存在が出現して以降に、天皇領をシマと呼ぶ慣わしが生まれたということです。この起源が天皇以前に遡るかは不明ですが、神話はその記憶を伝えています。それが「国生み」神話です。
国生み神話とは、古事記と日本書紀の双方が重要な位置で語る説話です。流れとしては、天地開闢を伝える最初の神話と、天から地への神々の移行を記す交差に配置されています。先日の記事で書いた通り、元々天上世界を表すアマという古語は海を指しており、天と地の上下軸ではなく、海と地の平面で世界を見なければなりません。ここではイサナキとイサナミの二つの夫婦神が降臨し、婚姻によって次々とシマが生まれています。それらは以下のようになりますが、それぞれの比定地も併記しておきます。
◯[淡道之穂之狭別島]: 淡路島
◯[伊予之二名島]: 四国
◯[隠伎之三子島]: 隠岐島
◯[筑紫島]: 九州
◯[伊岐島]: 壱岐島
◯[津島]: 対馬
◯[佐度島]: 佐渡島
◯[大倭豊秋津島]: 本州
ここでは、イサナキとイサナミによって[島](シマ)が生まれたことが記されています。しかし、重要なことにこの説話は国生み神話であり、クニを生んだ話です。クニを生んだ話にも関わらず、生まれているのはシマなのです。また、あまり考えずに見れば、ここで生まれている地域は島嶼と言えますが、内容はもっと別の姿にあります。
まず、この神話の編纂を命じたのは天皇自身です。そのため、天皇の価値観や思想が反映されています。元明天皇は単に文献化の担い手ですが、発端はそれ以前の第40代・天武天皇(在位673-686)にあります。個人的に、天武天皇は稀有な思想家だったと見ています。いわば国生み神話には、天武天皇を取り巻く思想が反映されていると見た方が良いのです。この時に察知できることは、天皇領を示すシマという言葉が、クニから疎外された瞬間です。つまり、シマはクニの疎外から生まれたのであって、元々別個に存在したわけではないということです。言い換えれば、天皇領という天皇の縄張りは、国つ神という土着勢力の場所があって、はじめて成立したということです。ここは非常に重要です。だから今も日本では、国つ神への信仰が深く残っており、同時に天つ神の象徴である天皇への信仰が深く残っているのです。日本列島において、神々は共生しており、その共生を司っているのが天皇だということです。
クニ自体は、[天つ神/Amatsukami]に対する[国つ神/Kunitsukami]として描かれるように、日本列島側の在地勢力に由来します。おそらく、新たな時代に相応しい伝承の編纂を天武天皇が指導する際、周囲の古代氏族への配慮から、クニを残存させながら、新たに天皇の威光を天上世界へと引き上げるために、クニからシマを疎外させて新たな空間を創造したのです。この新たな潮流の影響を露骨に受けたのがアマテラスであり、天武天皇から次代・持統天皇にかけて、アマテラスは皇祖神として神格化されていき、アマテラスを奉祀する伊勢の皇大神宮への信仰が高まります。ここで同時に起きたことは、伊勢の在地の海の神だったアマテラスが、天上世界の神へと引き上げられたことです。この思想の変移は、それまでの日本から見ると異質であるため、中国から新たな思想を抱えた人々が渡来し、天武天皇に影響を与えた可能性があります。実際、天武天皇はかなり道教の影響を受けていたとも考えられています。
重要なことは、国生みではシマを生んでいますが、かなり抽象化されていることです。近現代の読み方では、上述した比定地をすべて天皇領に位置付けていきますが、これは間違いであって、実際にはかなり抽象化されています。天皇がシマの存在を抽象化しなければならなかった背景には、当時は相当数の在地勢力が各地に存在し、朝廷への完全な服属に至っていなかったからです。事実、天皇史は天皇の覇権の正統性を語るというよりも、むしろ自らの領土であるシマに在地勢力を服属させ、何とか統合しようとした歴史の集積です。日本書紀はこの正統性を強調する目的で書かれているため、在地勢力を勇敢に征服する天皇という描き方をしますが、古事記は根本から異なります。古事記は天皇のシマの権威が及ばず、ましてや天皇にも朝廷にも服属しない部族が多々描かれています。それは近現代には、[まつろわぬ神]や[まつろわぬ民]として登場しますが、起源は古事記の世界にあります。
現代日本語では使用しませんが、[まつろふ]という古い言葉は、服属しないことを表しています。ゆえに古事記では、彼らは朝廷から蔑まれる対象でもあったため、人格の神としてではなく、動物などとして登場します。しかし、土地の風土を知っている存在は、シマで服属を誓って生きた人々よりも、クニという原初的で生々しい次元を生きた人々の方にあります。つまり、クニに生きていた正真正銘の場所の民が「まつろわぬ神」であり、シマとして疎外された位置に君臨したのが「国つ神」だと言えます。ただし、明確に規定することはできません。実際に、アマテラスの弟として登場するスサノヲのように、「天つ神/国つ神/まつろわぬ神」を転移するような特殊な神も存在するからです。これは古層に遡れば遡るほど、土着の風土を抱えているということです。
弟のスサノヲが動き回ることに対して、姉のアマテラスが抱えていた場所の土着性は、この時代に破棄されています。先日の記事でも書きましたが、出雲に対する国譲り神話では、アマテラスは一歩も動きません。そうしなければ、天皇の祖神として天上世界に引き上げることができなかったのです。つまり、起きていることは思想的な問題であり、アマテラスは思想的に疎外されたのです。元々はアマテラスも天つ神ではなく、国つ神だったということが示唆されています。
実際、神話は国生みを終えてから、今度は様々な神を生んでいます。この「国生み」から「神生み」への流れが、神話の正統性において極めて重要だったということです。順序が逆では、彼らの思想に問題が生じてしまい、統治ができなかったのでしょう。こうして自然、習俗、技術、資源などの神々が次々に生まれますが、私はここが古事記の風土信仰の祖型だと見ています。非常に多くの神々が登場するので別の機会に詳述しますが、要点はシマの成立が先にあり、風土の成立が後にあると文献的に配置されたことです。もちろん神話は線形的な過去→現在→未来ではなく、非線形の圧縮であり、遡及的に読むものですが、文献次元での配置は政治的意図があるため注意が必要です。「天皇が治める国」という意識が、天武天皇の時代に生まれているからです。なぜ、天武天皇は神話を用いて、このような思想作りに励んだのでしょうか?
その最大の目的が、国号の変更です。実は、現在使用されている[日本]という国号を最初に成立させた張本人は、天武天皇です。Communal Illusionシリーズで開示したように、それ以前の日本は中国側の呼称である[倭]であり、呼称がWaからYamatoへと変移はしていますが、漢字表記の国号は、長らく[倭]が用いられていました。これは事実上、中国皇朝の庇護下にあることを意味するため、天武天皇は自立へ向けた一歩として、国号を[日本]へ変更し、対外的にプロモーションを始めます。唐では[大倭国]が用いられていましたが、702年に遣唐使が、この国号を退けて[日本]を主張したという記述が続日本紀に見られます。それ以前の671年にも、既に[倭国]の国号が[日本]に改められたという記録が朝鮮半島側の三国史記に残っています。ちなみに[日本]の国号は、「太陽が昇る場所に最も近い」ことを由来としたようです。アマテラスという皇祖神に位置付けられた神が、いよいよ太陽の化身へと変容する時代を迎えています。
現に中国皇朝を意識して編纂された文献は、そもそも[日本書紀]として[日本]を使用しています。国号の歴史については謎が多く残っているものの、概ね天武天皇が国号を変更する動きを見せたことは事実でしょう。もう少し幅を持たせるなら、先代で兄の天智天皇、後代で妻の持統天皇の三人の天皇によって成し遂げられたと言えます。
なにより、ここで現在の[天皇]という呼称が定められています。現在は[天皇]をTennoを読みますが、歴史的にはSumeramikotoと読みます。[天皇]以前は、[大王]と表記してOkimiと読まれていました。つまり、大いなる王がスメラミコトへと変移する時、国号の表記も変わり、中国との関係の見直しが急速に進んだのです。ただ、国号の表記自体は[倭]から[日本]へ変わりましたが、読み方自体はYamatoで継承されており、現在のようにNipponと読む習慣はありませんでした。
この大きな時代の畝りの中、ある意味では、日本は今日の未来へ向かって一歩を踏み出したと言えます。それほど、天武天皇の時代は革新的な変革が次々と実行されました。彼は、律令制の導入、仏教の国家的庇護、古代氏族の権力の統廃合、天皇を中心とする体制作り、朝廷の反抗勢力に対する軍事侵攻、国号の変更、積極的な唐との外交、神話・伝承の体系化、アマテラスの信仰、伊勢神宮を中心とする信仰の集約など、今の日本の礎を築いたといっても過言ではありません。これは、今も日本人は天武天皇の創造した思想の世界に生きていることを表しています。
集約すれば、風土記は「クニ」について語り、古事記・日本書紀は「シマ」について語っています。古事記はクニとシマを揺れ動きますが、日本書紀は徹底してシマを語ります。ここが今も昔も日本の基盤です。読解は難しいですが、一元的な空間として国家や民族を見るのではなく、場所から見極めることによって本質は見えてきます。風土は場所の記憶を保存し、それを語る唯一の根拠と言えます。この場所に規制される風土が、天武天皇の政治的な大改革により、その本領を発揮する出来事が勃発した時、ようやく日本史は始動したと言えるのかもしれません。
一体、なぜ天武天皇は抜本的な改革を実行したのでしょうか?
それを読み解くことが、日本の理解へ至る最短の道と言えるでしょう。