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道元論13The Essence of Death: From Mount Hiei to Honen, From Honen to Shinran

平安時代の比叡山は、改めて考えると何とも奇妙で不可思議な存在に見えます。最澄が開いた日本密教の一つの宗派である天台宗の総本山であり、延暦寺を擁する比叡山は、平安時代を通じて平安京を中心に絶大な覇権を掌握し、まさに平安京システムの裏の為政者でした。平安京システムの表の為政者である朝廷の貴族や皇族を懐柔しながら、覇権を確固たるものにするために全国各地に収奪システムを形成した比叡山は、単なる宗教組織として見ては時代の理解を誤る象徴に思えます。

今も京都市の一部区画に代々居住する人々は、「京都には千年の歴史がある」と誇らしげに語ります。これは一般的に国内では京都人のプライドと解釈されていますが、実態は極めて小さな一部区画に限定された世界でのプライドであり、京都一般として語ることはできません。そして今もこの小さな世界を守護するように鬼門の北東には比叡山があります。

平安時代を通じて比叡山が築いた強大なシステムは、単に腐敗の温床とも言い切れない複雑な側面を持っていることをシリーズを通して概観してきましたが、この比叡山の歴史が見逃せないのは今日にまで絶大な影響を与えた浄土宗を生む母体となっているからです。浄土宗の開祖・法然は比叡山の僧侶でしたし、やがて法然の筆頭弟子として浄土宗を絶大な地位に高めた浄土真宗の開祖・親鸞も比叡山の僧侶でした。

つまり、京都の人々は理解していませんが、平安京という日本の全国土から見た場合に僅か一区画に過ぎない世界を舞台に生まれた萌芽が、続く千年の歴史を作る重要な原動力になってきたことは事実なのです。これを現在の京都府や京都市という空間で見た時、既に見誤っています。真の京都とは本当に小さな区画でしかなく、その外部は全て京都ではありません。

浄土を前提に宗教を打ち立てた法然や親鸞ですが、二人はどのような点において差異があったのでしょうか。法然は1133-1212年を生き、親鸞は1173-1263年を生きていますから、両者は大体40-50年程度違う時代の渦中を生きたことになります。平安京が崩壊し、政治的実権が完全に武家に掌握されて幕府が遠く離れた関東の鎌倉に開かれた時代における半世紀の歳月は、文字通り全く異なる世界だったと言えるでしょう。

そうした時代の急速な変化は、法然から親鸞へと結ばれた浄土への信仰にも強い影響を与えることは避けられません。むしろ親鸞にとって法然は最も尊敬する人物でありながら、やはり時代に合っていないと感じられた側面も強かったのかもしれません。法然の信仰が実際に比叡山を中心とする旧仏教勢力に問題視され、妨害や失脚の工作が始まるのは1207年頃からでした。

この13世紀初頭は、武家の源氏を率いる源頼朝が鎌倉幕府を開く原点となった1185年頃の動きから20年程度が経っています。既に初代将軍であった源頼朝(在位: 1192-1199)は死去しており、二代将軍・源頼家(在位: 1199-1203)も死去していたため、この時代は三代将軍・源実朝(在位: 1203-1219)の時代でした。

皮肉なことに、実は早くも貴族や皇族から実権を略奪した武家勢力にも内部争いが頻繁に起きていました。平家を打倒して一時代を築こうとしていた源氏も、この絶大な将軍の地位を巡る跡目争いが活発化しており、源頼朝の子同士が策謀によって対立する事態を迎えています。興味深いのは、源氏の正統な系譜側に既に実権がなかった可能性が強いことです。事実、源頼朝の妻であった北条政子(1157-1225)の系譜である北条氏の力が幕府内で強まっており、将軍の跡目争いを舞台に政治の実権を巡る氏族間の思惑が絡み合っています。

源頼朝の死によって家督を相続して二代将軍として源頼家が就任したものの、独断で執政を担うことは北条氏によって抑止された可能性が指摘されています。また源頼朝側のバックアップは比企氏という別の氏族がついていました。この比企氏は平安時代を築いた貴族の藤原氏の系譜に位置しています。つまり、かつて奈良を舞台に形成された古い氏族の力学が、平安京を経由して鎌倉にも深い影響を与えていたということです。この力学の変化は掴み取ることがかなり困難です。

ただ源頼家は若くして病を患い、源氏の力学が揺らいだ瞬間を見逃さずに源頼家の母方の北条氏の勢力が一気に攻勢を仕掛けます。ここで源頼家が病で危篤に陥る最中、ある一本の報告が京都側にもたらされます。当時、政治的実権は鎌倉幕府にありましたが、残党勢力の貴族や皇族は事実上平安京に幽閉されていました。この嘘の報告によると、1203年9月1日に源頼家が病死したため、弟・源実朝の将軍の地位継承を要請するものでした。

この報告が鎌倉から京都に届いたのは9月7日の早朝ですが、この報告が往来する間に鎌倉では政変が起きており、北条氏の頭領で北条政子の父である北条時政率いる一団が比企氏側を一掃する攻撃を仕掛けた結果、比企氏が滅亡しています。つまり、鎌倉側ではまるで平安京の延長戦のような権力争いが展開されていたのです。京都側で法然の勢力が拡大して為政者の利権と衝突する1207年頃の時点では、既に鎌倉側の政治不安定は極致に陥っており、やがて1219年に源実朝がこの時の権力争いの恨みで暗殺されたことにより、源頼朝の血筋はたった三代で断絶します。

西も東も権力を巡る力学が内部争いを繰り返すばかり。こうした時代状況に人々が絶望したのは当然だったと言えます。そうした最中、親鸞は1201年に比叡山に幻滅して離脱を決意しており、法然を訪ねて弟子入りしたのです。ただ鎌倉幕府側が不安定になった影響により、京都側の旧為政者も息を吹き返しており、再び実権を手中に収めようと暗躍する始末。結果、古い力学が京都市内で復古の兆しを見せており、この影響で既に多数の信徒を獲得して勢いのあった法然の教義は異端と見做されます。これは、平安京の力学において比叡山の威光を人々に畏れさせることが絶対条件だからです。

しかし、既に激動の時代を経て人々は比叡山を信頼しておらず、それどころか従来の仏教宗派による教義はどれも使えないことを実際経験から知っていました。当時の人が知りたかったことは、皇族や貴族を守護する霊的な力の所在が仏教の信仰にあるか否かではなく、現実的にこのような末法の世を生きる中で、自分たちはどうなるかということです。これは死の問題として切実になりますが、比叡山を筆頭とする旧勢力は、こうした素朴な問いに対してこの時代の人々を納得させる答えを持っていませんでした。

実は、ここが重要です。なぜならば、「死についての答えを持っていない」という当時の仏教勢力の限界は、単に彼らの問題ではなく、死の本質を抉り取って提示しているからです。言い換えれば、如何なる宗教・科学・哲学であろうが、この単純で素朴な問いに直面した時、実は誰も答えることができません。この単純極まりない問いに対して、人類史で一度も答えを示したことはないのです。宗教も医学も科学も哲学も誰もがこの問いに実は答えていない。いや、答えることができないと知る時、ようやく私たちは死について考える立脚点に立つことができます。

法然はこの問いに答えることのできない比叡山を批判対象に据え、死後の救済は阿弥陀仏の慈悲によって約束されていると捉え返し、老若男女の誰でも実践できる[南無阿弥陀仏]だけを唱える信仰を説きました。これは比叡山などの権威を示す仏教勢力から見れば許し難いものです。なぜならば、このように誰でも実践できる方法が広がってしまうと、自分たちの利権は信頼を失って崩壊することは明らかだったからです。実際に法然の教義が絶大な影響を持って平安京市内の人々に広がり、貴族までもその虜になったことを考えると、当時の平安京の人々が求めていた一つの答えに繋がる可能性を法然が提示したからだと言えます。

ただし、法然の教義は答えを提示したのではなく、あくまでも答えの周囲に付着する可能性の一つの提示でしかない。ゆえに、法然の教義は死の真理を見抜いたものではないのです。

この問いに国も民族もありませんから、読者もここまでのシリーズで見た時代の概観を応用し、自らがその時代に立って信仰を探っていると仮定して追体験するように問うてみてください。問いは「死とは何か」という単純明快でありふれたように思えるものです。

平安京に限定すれば、誰でも実践可能な浄土宗的信仰に大勢が動き始めました。しかし、法然の信仰にはある問題があったと私は考えています。その法然の違和感に気付いたのが弟子の中で最も優れた親鸞だったのですが、この差異は死の問題において顕著となります。

そもそも法然の教えはOn Dogen 11で書いたように、阿弥陀仏がまだ修行中だった法蔵菩薩の頃に立てた48個の誓いを表す「本願」の中の第十八願をベースにしています。それは「私が仏になるとき、あらゆる世界の人々が心から私を信じて私の名前をわずか10回でも呼ぶならば、必ず私の国に生まれさせます。もしそれができないなら、私は決して仏にはなりません」というものです。ここにおける阿弥陀仏の名前とは[南無阿弥陀仏]のことで、阿弥陀仏の国とは極楽浄土のことです。つまり法然は、救いの準備は既に阿弥陀仏側で完了しているのだから、人間側が努力や才能を求めて苦労する必要はなく、ただ阿弥陀仏が完成してくれた船に乗れば良いと考えたのです。

そして今世を生きる人間は、ただ阿弥陀仏の名前である[南無阿弥陀仏]を唱え続けるだけで良いと再解釈し、これこそが当時の地獄とも言い得る世界に絶望していた無数の人々を救う唯一の真理だと捉え、全てを阿弥陀仏に委ねる考え方を「他力本願」として打ち立てたのです。

確かに、この考えは明快に思えます。簡略化すれば、人は死ねば善人であろうが悪人であろうが誰でも直ぐに浄土に行けるということです。これは死を経由して私たち生者が勝手に無数の観念を装飾した善悪や無数の真理などが消滅し、単なる人が死んだ事実以外のなにものも残らないことを示唆しています。その死後の世界が浄土であるか天国であるかユートピアであるか地獄であるかは宗教の教義によって様々であっても、この点については異論がない。そして今も多くの人々は何かしら死を考える時、必然的にこの境地だけを限定的に考えています。だが、普通人々は自分たちが真に死について考えられていないという事実に気付いていません。むしろ頭の良い人々が死を様々に論じているのだから、既に死は自明の問題となっているとさえ傲慢な現代人なら考えるでしょう。

実際、私はこうした考え方は当然であり、古今東西の宗教家たちが様々に説いてきた通りだと思います。しかし、問題は別にある。そのことに気付くか否かは、おそらく人生観を大きく分けるのではないかと思えます。

人は死んだ後で浄土・天国・ユートピア・地獄など様々に観念された世界に行く。その呼び方が何であれ、それが宗教である以上、この問題は大抵同質の次元に帰着します。しかし、それは当たり前のことを当たり前に説いただけであり、当たり前であるがゆえに真理に見えてしまう。言い換えれば、真理は偽装することができるものです。なぜならば、近代以降の人々は理解していないが、真理にはそもそも普遍などないからです。真理は常に場所において存在する。その場所や時間を動けば、必然的に真理は変わります。これが真理の姿です。

つまり、彼らが説いたのは確かに死ではあるが、それは死一般として考えてはならないものです。死には多元性があると私は考えていますが、その死のうちの僅か一端を抽出して独自の装飾によって普遍化するのが宗教だと言えます。そうでなければ、膨大な経典や宗派や仏像や寺院などは必要ありません。おそらくこの感覚は、日本ではじめて仏教が伝来した辺りの反発に顕著だったように思えます。

すると問題は、この死の観点は妥当で誰もが同意できるものですが、それ以上のことを彼らは知っているのかということに集約されなければなりません。実は、法然が比叡山を対象に自らの教義を生み出したように、法然を媒介にしてこの観点を批判的に見抜き、独自の思想を展開し始めたのが親鸞だったのです。この比叡山から法然、法然から親鸞の動きを見極めるためには、既に私たちが知っていると完全に思い込んでしまっている死の本質に迫る視座が必要となります。しかし、私たちは死をあまりにも自明なものとして考えてしまっており、既にそれは知っていると思い込んでいるため、本当の死については何も知らないことを知りません。宗教も医学も科学も哲学も未だに答えず、その死の本質を隠した周囲ばかりを議論している実態は、何を示唆しているのでしょうか。

法然は、あくまでも死後の約束された世界への移行を人の死において考えている。それ自体は疑う余地なく妥当であるが、しかし法然は実際の死については一つも語っていない。では一体、死を真に考えることとは何なのか。

この問題に直面した時、見なければならないのは法然ではなく親鸞です。実は彼らは一緒くたに浄土宗として語られますが、死の問題の扱いについては別次元に異なります。次回は、親鸞が悟った浄土宗における死の問題についての画期的な考え方について見ていきますが、ぜひ現代の末法の世を生きる読者も改めて死について考えてみてください。