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倭人考 9On the Wajin, Part 9

前回の記事では、移民がもたらした太陽信仰が古代日本で新興宗教を生み出し、その祭主として登場したのがヤマトの女王・卑弥呼であった可能性に触れました。実際、卑弥呼が太陽信仰に深く関わるシャーマンであることは考古学からも見えてくる可能性ですが、そこに向かう前に今回考えたいことは別にあります。それは、そもそも魏の使者はヤマトへ派遣された時、本当に女王・卑弥呼に謁見したのかという謎です。

これは文献としての魏志倭人伝だけに注目すると、見えてこない真相の一つと言えます。しかも、卑弥呼の実像を探る上で頼るべき文献はこの一冊以外には存在しないため、この観点を理解することが古代日本の実像に迫るためにかなりの重要性を秘めていることが分かります。単純に考えれば、魏の使者は卑弥呼に会うために海を渡り、ヤマトに出向いて倭人の習俗などについて見聞したことになります。実際、これまで大半の学者はそうした立場を前提としており、使者が卑弥呼に会っていなかった可能性を考えることは稀です。

いや、もっと突っ込んだことを言えば、魏の使者はヤマトにさえ行っていない可能性があります。だとすれば、魏志倭人伝に記された女王が君臨する最古の日本の姿とは何なのか。当然、これは単なる空想ではありません。しかし、全てを魏側の使者の見聞と捉える視方に対しては疑う余地があるのです。

確かに魏の使者は、240年頃に日本側の玄関口となる九州北部には上陸しています。この時の使者の名前を梯儁と言います。そして重要なことは、この梯儁を派遣したのが魏の皇帝ではなく、朝鮮半島北部の帯方郡の長官を務めていた弓遵という人物だったということです。当時、帯方郡は魏の実効支配に置かれていました。そしてこの背景には、当時の東アジアを巻き込む壮大な情勢の動きが関係しています。

まず、238年6月にヤマトの卑弥呼が魏へ使者を派遣して朝貢を行ったのですが、この時の皇帝は魏の第2代・明帝(在位: 226-239)です。この卑弥呼側の魏に対する接近を明帝側が政治的関係において重視したため、238年12月には破格の莫大な下賜品を卑弥呼に与えようと動いています。ただ明帝が239年2月に崩御した影響で、これらの下賜品が実際に卑弥呼のもとへ授けられたのは240年です。この下賜品を倭国側に授与するために派遣されたのが、帯方郡の弓遵からの命令を受けた梯儁でした。また注意が必要ですが、魏志倭人伝の記録はこの梯儁の記録をベースとしながらも、後の247年頃から数年間ヤマトに滞在したという張政という使者の記録もミックスしています。

一般的には、この二人の記録をベースとする倭国・倭人に関する記録を魏志倭人伝と断定するのですが、実はこの視方自体がかなり危うい。第一、梯儁がヤマト(現・奈良県中南部地域)を来訪した可能性は極めて低い。その理由は明白で、彼が滞在していた九州北部の国からヤマトまでは相当遠かったからです。

使者は探検家ではなく、派遣の目的も中国側の魏・呉・蜀から構成される三国時代の覇権争いに勝利するためです。ゆえに魏からすれば、それまで殆ど情報のなかった倭国や倭人に関する情報が収集できれば十分であり、さらに魏に忠誠を本当に誓っていることの確認が取れれば十分です。さらに言えば、梯儁の仕事は皇帝が卑弥呼に授与する宝物をしっかりと届けることです。

卑弥呼は中国の三国時代において、三つの国の中から魏の明帝を選んで使者を派遣して公式に朝貢しています。これはヤマトの実権を握っていた複数の首長にとって、魏に忠誠を誓うことが戦略的に良策だと考えられたからです。これまで見てきた通り、卑弥呼は複数の部族の首長に擁立されている以上、彼女の独断で決定したことではありません。ただし、この政治的決断は卑弥呼に降された神託によるものだったとは言えます。

何より、魏が朝鮮半島を経由して遠く離れた倭国にまで向かわなければならなかった理由は、魏を取り巻く複雑な地政学的リスクが高まっていたからです。当時、最大の敵対関係にあった国が呉です。

三国時代の位置関係を大きく整理すれば、中国の歴史的な中心地である中原(ちゅうげん)を含む華北の黄河流域の北半分を支配していた魏。中国西南部に位置する四川盆地を拠点とする蜀。華南の長江中流から下流にかけての地域を支配した呉となります。ざっくり現代に置き換えれば、魏は北京、西安、洛陽。蜀は四川省、重慶市。呉は上海、南京、杭州、武漢などが勢力圏だったと想定されます。

この三つの国が勢力争いを展開していたのですが、呉にとって陸続きで戦わなければならない魏は天敵でした。ここで呉の初代皇帝として即位していた孫権(在位: 229-252)は魏を抑止するために、魏の背後に位置して台頭していた遼東の公孫氏と同盟を結び、魏を南北から挟み撃ちにしようとする海上包囲網を計画します。

この公孫氏は三国時代の動乱の渦中で新たに台頭した存在です。実際、233年に孫権は1万人の兵士と大量の財宝を積んだ大船団を遼東に派遣し、公孫氏の当主・公孫淵に対して燕王という爵位を授けて、正式な軍事同盟を締結しようとしていました。しかし、公孫淵は自らの国から遠く離れた呉よりも、隣国の魏の方が明らかなリスクであったため、呉の使者を殺して魏に差し出すという暴挙を行います。これによって喜んだのが魏で、明帝はこの措置を評価して公孫淵を大将軍に任命しています。

ただ一度裏切った人物は、何度も裏切るのが常です。そこで明帝は次に魏を裏切るだろうと考え、238年には重臣の司馬懿に対して数万の兵力を率いて遼東へ軍事侵攻することを命令します。この結果、公孫氏は滅び、遼東から朝鮮半島北部が魏の直轄領となります。この時、魏は公孫氏が一部支配していた朝鮮半島の楽浪郡と帯方郡を正式に魏の直轄領に編成します。この朝鮮半島にまで及んだ影響が、連鎖的に海を越えた日本側に強く動揺をもたらしたのです。

面白いのは、この遼東と朝鮮半島北部で起きた動乱は即座にヤマトの女王・卑弥呼の耳に入っており、卑弥呼側から魏に対して使者が送られたことです。タイムラインとしては、明帝の命令により1-2月頃に司馬懿が魏の首都・洛陽を出発し、6月頃に遼東で戦闘を開始。司馬懿の軍勢は陸路での戦闘でしたが、一方で魏の官吏である劉夏は、海路から公孫氏の支配下に置かれていた朝鮮半島北部の帯方郡と楽浪郡を制圧しています。最終的に司馬懿が公孫氏の本拠地・襄平を陥落させ、公孫淵を処刑したのは8月ですが、この動きに呼応して卑弥呼が6月頃に魏へ朝貢を願い出たことは見逃せません。

***異説として卑弥呼が使者を派遣したのは239年であり、ゆえに使者が朝貢した相手は239年2月に崩御していた明帝ではなく、次代・曹芳(在位: 239-254)だったという説もあります。いずれにせよ、海を越えた先の動乱をかなり早い段階で聞きつけたヤマトの勢力が、呉や蜀ではなく、魏に服属した方が有利と考えて迅速に行動したことが理解できます。

そして魏が公孫氏を滅ぼして朝鮮半島北部までを実効支配したことで、呉の計画は完全に崩れ去ります。さらに魏は、情勢を知って即座に朝貢してきた倭国の女王・卑弥呼に対して、[親魏倭王]という称号を不余して金印紫綬などを与えることを決めています。この授与が明帝なのか、あるいは曹芳かは不明ですが、少なくとも魏は楽浪郡・帯方郡に続いて、倭国を服属させることに成功したと言えます。ただしこのセクションで指摘している通り、この倭国とは今の日本を意味しない限定的な圏域です。この結果、梯儁が使者として倭国へ派遣されたのです。

すると問題は、魏側にとって遠く離れた倭国と深い関係を結ぶことにどういう利点があったのかです。それを端的に言えば、公孫淵に裏切られて劣勢に陥っていた呉に留めを刺すためです。ただし、この動きには歴史の迷路のような複雑な事情が絡み合っており、読み解くことは容易ではありません。

なぜならば、これらは単なる政略的な動き以上に、当時の魏側の世界観が含有されているからです。実は、魏は倭国の所在を東の海上の果てにある列島という位置関係で考えてはいなかったのです。では一体、魏は倭国をどこにある国と考えていたのかと言えば、それが南でした。

この東ではなく南だという中国側の認識は、当時の魏にとっては致命的な問題となり得ます。なぜなら魏にとって南に倭国があると考えられた状況が意味することは、呉の南方海上の国に倭国が存在すると考えられたからです。つまり、呉が公孫氏と軍事同盟を結んで魏を挟み撃ちにしようと考えたようなニュアンスでなくとも、魏は呉と近い距離に位置すると考えた倭国と関係を深めることによって、呉が倭国側と同盟する可能性を排除したのです。

しかし、今の私たちは知っていますが、日本は中国から見て南にはありません。だとすれば一体、この世界観は誰が作り上げたものなのでしょうか。次回はその辺りを探っていきます。