C:\SHITSURAE\> TYPE SJ323.TXT

SJ323.TXT2026-02-2322KB

脚本至上主義と日本映画の停滞The Screenplay Doctrine and the Stagnation of Japanese Cinema

昨日の記事で書いたように、映画のアベレージ・ショット・レングス(ASL)は年々短くなり、2秒程度が主流になってきた世界に生きる私たち現代人。映画は時代を映す最も優れた鏡であるならば、現代世界は2秒の連続の集積において人生が集約されていると言えます。ですが、その2秒には大した一貫性もなければ、そもそも意味もない。つまり、ここでは無意味な時間の集約によって何十年もの重要な人生を自ら破棄する現代人の姿が見て取れます。

しかし、かつてこのASLが非常に長い時代がありました。中でも1930年代のASLは平均して約10-12秒もあったと言われています。これは当時を知らない私たちにとっては、一見現代と真逆に思える世界が存在したことを示唆しているため、参照点としては重要です。そもそも映画の技術的な歴史を知らなければ、まだ技術的に成熟段階に達していなかった初期の頃の方が、技術的限界から考えて短いASLが一般的だったと考えてしまいそうになりますが、事実は逆でした。

ASLは映画の指標として用いられるものですが、そうした規定を無視してしえば、今の世界はあらゆる物事が2秒台をベースに作動しているようにも思えてきます。長期的な注意力を持たない人が激増し、どんどんドーパミンを分泌する仕組みが人智を超えて高度化する現在、改めてクラシックな映画の傑作に目を向けることが重要に思えてなりません。特に長回しでシーンを構成する手法が作品で見事に使われていることを知る時、私たちは現代への違和感を客観視できるのです。

このカット割りを長回しによって構成していた代表格が溝口健二です。溝口健二はカットを割らずにカメラを回し続ける独自の制作技法を使い、それによって登場人物の自然な動きや空間の広がりをスクリーンの中に描き出すことに成功しました。その長回しの技法はやがて溝口作品の代名詞となり、今も語り継がれています。長回しでワンシーンを撮ることで、溝口は「物語を紡ぐ」という新たな映画文法を作り出したと思いますが、この時代の著名監督であった溝口健二や黒澤明、あるいは小津安二郎などを含めて、当時の日本映画が今に至るまで残した「ある慣習」が存在します。それが「脚本主義」です。

この言葉は、今の日本国内における映画評論でも一般的に使われる言葉ですが、脚本主義とは脚本を絶対視すること以上に、むしろ日本では映画制作を行うにあたって「映画監督は脚本が書けなければ監督になれない」という考え方自体を指しています。

こうした考え方の代表格が黒澤明です。黒澤明は脚本の重要性を幾度も主張し、最後まで自ら脚本を書く行為を重視しましたが、これは戦前の日本映画の業界構造では、脚本を書けなければ映画監督になることができなかったからです。この慣習がどのように生まれたかは不明ですが、良い脚本が書けなければ映画監督になれないため、当時の映画監督を志す人々はとにかく毎日脚本を書き続けました。こうして良い脚本が認められて監督として作品を撮る機会を制作会社側から与えられる慣習の影響は、脚本を徹底的に練り上げてから映画制作を行う慣習を形成する素地を作り上げます。重要なことは、これは第二次世界大戦以前に既に確立していたことです。

敗戦と共に戦後を迎えた日本映画は、1945年から朝鮮戦争が始まる1950年頃までGHQの情報統制下で検閲を強いられていました。当時、戦勝国側の提唱する民主主義の理念に沿った作品以外は制作も公開も禁止されていたため、大勢の制作者が不遇の時代を迎えますが、朝鮮戦争勃発後に米国側の日本に対する監視の目が緩むと、再び日本映画は活況を呈し始めます。ただし、ここで台頭したのは新たな才能よりも、むしろ1930年代の時点で活躍していたベテランの映画監督たちでした。黒澤明と木下恵介はデビューは1943年と第二次世界大戦の最中でしたが、1930年代には既に映画業界の中で多くの脚本を書き上げています。

二人は1950年代初頭から始まる新たな映画活況の時代に乗って一躍世界的に有名な監督となりますが、当時の周囲で評価を受けている監督と言えば、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、今井正、衣笠貞之助、清水宏、五所平之助、吉村公三郎などの錚々たる面々が揃っていました。この時代の日本映画界は、スタジオシステムと呼ばれた強固な専属制度に支配されており、監督・俳優・スタッフは特定の映画会社に所属する会社員・専属契約者として活動していました。特に1953年に締結された五社協定は、各社がそれまで行なっていた才能ある人材の引き抜きを禁止し、自社のスターと監督で映画制作を行うシステムを確立させた独占状態の樹立となります。

それぞれに動きはありますが、大体1950年代前半は松竹に小津安二郎や木下恵介、大映に溝口健二、東宝に成瀬巳喜男や黒澤明や今井正などがいました。当時の映画会社は各社で製作・配給・映画館の全てを一元的に支配しており、自社の映画館で上映する作品を自社の撮影所で作り続けるため、年間を通じて安定した制作本数が要求されました。このシステムにとって重要なのは量産可能な作品づくりであり、ゆえに脚本が重視されたのです。

また同時に当時は監督になるためには、特定のベテラン監督の撮影グループに助監督として属し、何年も修行する必要がありました。これは徒弟制度と呼ばれましたが、この師匠と弟子の関係において、脚本が書けなければ監督になれないという教育が徹底されていたのです。こうした時代事情が強固なシステムを形成する過程で、既に脚本主義は徹底されていました。

もちろん映画監督は一人で脚本を書いていたわけではなく、それぞれに社会で最適なパートナーを見つけて非常に質の高い作品を次々と制作していました。こうして戦前の時点で既にある程度確立されていた日本映画界のシステムは、1950年代初頭から始まる黄金期に入ると、さらにその傾向を強めていきます。その理由は、この時代に大活躍した小津安二郎、溝口健二、黒澤明、成瀬巳喜男などが脚本主義のシステムから育っていたからです。

このことは、当時の映画監督が脚本に対する厳しい目を持っていたことを意味します。その厳しさを伝える一つの説話が残されています。1951年のデビュー以来、生涯で49本の作品を発表した新藤兼人は、1960年代に入って『裸の島』(1960)、『鬼婆』(1964)で世界的な評価を受けた監督です。ただ一方で、彼は映画作品以上に脚本家として著名であり、生涯で250もの映画シナリオを提供しています。その新藤が映画界に入ったのは1934年の22歳の頃ですから、実に17年程度の下積みを経て映画監督になった苦労人です。その新藤が生涯の師匠と仰いだのが溝口健二です。1941年に初めて溝口作品に関わり、完成した作品を見て衝撃を受けた新藤は、弟子入りの願いを実現するために一本の脚本を書き上げます。

この説話から、当時は監督に認められるためには良い脚本を土産に持っていく慣習があったことが見えてくるのですが、ここで溝口は新藤の書いたものは脚本ではなく物語だと酷評し、新藤は自殺を考えるほどの大きなショックを受けてしまいます。自らが最も尊敬する溝口の評価で大きく挫折した新藤ですが、そこから脚本のベースとなる劇作集を読み漁って準備を行います。この挫折がなければ、新藤は後に才能が開花することはなかったかもしれません。

この意味では、「映画の脚本とは何か」を最も真剣に考えて向き合い続け、監督になったのは日本映画でも新藤兼人と言えるでしょう。第二次世界大戦中は徴兵されて空白の期間を過ごしますが、戦後に日本映画の方針がGHQ主導で変わった恩恵を最も受けた一人が新藤だったと言えます。何しろ彼が1947年からタッグを組んだ吉村公三郎や木下恵介などは、GHQの求める映画の作風を得意としたからです。こうして脚本家としてヒット作を連発した新藤ですが、1949年に松竹と喧嘩し、自ら退社して翌年に近代映画協会を設立します。この団体は、1950年代から活発になる五社協定の外部で映画制作を行う独立プロダクション・ムーブメントのパイオニアとなります。

ただこうした脚本主義自体は、如何に独立プロダクションが生まれて日本映画が活況を呈しても変わりませんでした。1960年代頃からは大島渚を筆頭とする新世代の映画監督が続々登場しますが、それでも脚本主義の残像は払拭されません。こうして日本映画は歪な問題を抱え込むことになります。何しろ、脚本主義は監督本人が優れた脚本を書けてこそ成立するものであり、その次元では良い脚本は当然ながら良い作品に繋がります。しかし、徐々に映画制作者の力量が落ちてくると、この脚本を絶対視し過ぎるがゆえに、書かれたシニフィエから逸脱することのできない停滞へ陥るからです。

結果、日本映画は完全な停滞期を迎えることになり、様々に打破する試みは行われたのですが、問題の核心に慣例となっている脚本主義を問う制作者が現れることはありませんでした。いや、脚本主義の問題を問うことはできても、彼らは映画業界の内部に居た以上、打破することまではできなかったのです。日本は映画に限らず全ての業種において、こうした停滞が起きてしまうとダラダラと延命を始めることも慣例ですが、こうなると常に映画界の外部から新たな制作者が現れるしかありません。

そうした兆候自体は1960年代に実験的には行われてはいたものの、本格的に打破する力を持っている監督は一人もいませんでした。こうした脚本主義が日本映画を衰退させる一つの原因となり、もはや映画関係者では誰も打破できないことが明らかとなった時、突如外部から彗星の如く新たな表現者が登場したのです。それが、私も敬愛する大林宣彦です。