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道元論 12On Dogen, Part 12

平安時代も末期に差し掛かった1175年。43歳となった法然は長年過ごした比叡山の黒谷を去り、山を降った先の平安京の市中に入り込みます。これは18歳の若さで世俗を捨てて隠遁した一人の僧侶にとっては、別な意味で異空間の世界に没入したことを意味していたように思います。何しろ彼は、約25年間もの歳月を辺鄙な山奥の谷付近で暮らしながら、ひたすら修行と読書に明け暮れる日々を過ごしていたからです。

彼が隠遁していた四半世紀の間に平安京の姿は一変しており、このシリーズを通じて概観を見てきた通り、平安京という都市は目紛しく加速する時代の変化の渦中で混沌の淵に堕ちていました。都市の混沌は人々にとっては激しい混乱となります。我を見失った人々が平安京に跋扈し、朝廷を牛耳っていた皇族も貴族も力を失った都市の姿は、視方を変えれば統率なき小さな世界に彷徨う人間の夥しい群れと言えるでしょう。これは比叡山の奥地で俗世から逃れて隠遁していた法然にとって、まさに従来の仏教の力が及ばない現実の世界そのものでした。夢から醒めた法然は、ここで自らの意志を取り戻したのです。

この時代の平安京の人々は末法の世が到来したと信じており、平安京は文字通り滅びの時代を迎えていました。既にメンションした鴨長明の『方丈記』は、主に1177年から1185年頃までの約10年間に平安京で起きた出来事を詳細に記録しています。同著によると、1777年に平安京の3分の1を焼き尽くす大火災が発生して以降、1180年には巨大竜巻で都市が壊滅的被害を受け、その約1ヶ月後に平清盛が強硬的に遷都を宣言して福原へ首都を移転させたことで、平安京は一時ゴーストタウンになっていました。この福原遷都は失敗して11月には平安京に戻りますが、ここから動乱が本格的に幕を開けます。

さらに1181年には干魃と疫病が発生して飢饉に陥り、平安京のあちこちに死体が転がったまま放置される悲惨な光景が記録されています。この1181年は武家の台頭を一代で成し遂げた平清盛が3月に死去しており、平安京は激しく動揺していました。こうした立て続く末法の世の出来事は、最終的に1185年の未曾有の大地震によって全てを崩壊させる帰結となります。この1180-1185年は、ちょうど平氏と源氏が真っ向衝突した日本最大の内戦と呼ばれる源平合戦が起きていた時代でもあったため、現代の私たちには到底想像もできない悲惨な日常が平安京に限って起きていたことになります。今の穏やかな観光地としての京都市からは想像が付かない姿です。

ここで法然が浄土宗の教えを布教し始めたタイムラインと照らし合わせると、平安京の人々における既存の仏教勢力への不信が顕著に見えてきます。この時代の感覚を持つことによって、大きく法然から親鸞へと結ばれた浄土の系譜が開花する背景を理解することに繋がり、なぜ日本で最大の信徒数を抱える浄土真宗(親鸞が開祖)が登場したかが見えてきます。さらに、この浄土の勃興という観点が急速に広がった時、カウンターのように登場したのが道元だと私は考えています。

この辺りは暫定的な年代で見ていきますが、まず1175年に比叡山を降って現在の知恩院がある京都市吉水付近に草庵を構えて活動を始める準備を行なった法然は、1177年頃から平安京の人々に自らの教義を布教し始めます。ここで法然は、[南無阿弥陀仏]を説き始めたのですが、この頃は大火災で都市の3分の1が焼失する大事件が起きており、人々は平安京の守護であった比叡山延暦寺の天台宗に対する不信を強めていました。ただ、当時は不信を抱いても民にとっての仏教教義や宗派の受け皿はありません。そこで法然は老若男女の誰もが仏教の教えを実践できる[南無阿弥陀仏]を唱えることで救われると主張し、新たな信仰の可能性を切り開いていきます。

もちろんこの法然の教えは異端であり、特に元々彼が所属していた天台宗側にとっては新興カルトの一種と見做されます。何十年も厳しい修行を行うことを前提に権力を獲得し続けてきた比叡山にとって、この法然の動きは見過ごせないものです。実際、彼の布教に対してかなりの妨害が行われたことは考えられます。しかし、40代までほとんど俗世の人々と暮らすことのなかった法然は、比叡山を降りると決めた瞬間から覚悟は決まっていました。それは自らの教えを人々に説く使命ですが、視方を変えれば法然の行動は平安京自体を救う唯一の術だったと言えます。つまり、平安京をベースに考えていることに関して言えば、この動きは決して現在の意味での日本の歴史動向とは言い得ないということです。

こうして大火災を契機に民の間で信徒が急増しますが、法然の新たな教えに感銘したのは庶民に限りませんでした。そもそも貴族と言っても様々であり、誰もが為政者のような存在ではなかったわけですから、この間に法然は貴族の信者も獲得しています。決定的出来事となったのは1180年の巨大竜巻と、平安京の実権を完全に掌握した平清盛による福原遷都の出来事です。この二つの出来事はほとんど1ヶ月の間に起きていたため、人々が激しい混乱で進むべき道を失ったことが分かります。そして平清盛は既存の平安京為政者による強固なシステム構造を変質させていますから、必然的に信仰の路頭に迷う人々が増大しますが、法然がその重要な受け皿として機能したのです。

こうして1181年に飢饉が発生します。この飢饉はたった2ヶ月で平安京内だけで4万2千人もの死者を出したことを鴨長明は伝えています。しかもこの死者数は平安京の中の左京という一部だけの数字であり、さらに道端で確認できた遺体のみです。この数字は、隆暁法印という仁和寺の僧侶が、路上に溢れて処理できない死体の額に[阿]の字を書いて成仏を願う供養を続けた結果として記録されたと言われています。当時の平安京は推定で人口が10-20万人と言われているため、仮に左京の死者数だけに限定しても、たった2ヶ月で首都の人口の4分の1から5分の1が死んだことを意味しています。

こうして動乱の源平合戦の渦中で法然の教えは拡大し、1185年の平安時代の終末を宣言する象徴的な大地震と源平合戦の終了によって、さらに信徒は拡大します。この過程では仏教の主要勢力も混乱状態に陥っており、ましてや法然一人が始めた教えなど平安京に広がるはずもないと考えていましたから、嫌がらせ程度で終わっていました。しかし、本格的に法然の教えが拡大する時代を迎えて無視できない勢力に発展すると、徐々に仏教側からの激しい弾圧が強まり始めます。その時期は、激動の時代を超えた13世紀初頭頃から始まったと考えられています。特に1207年に法然の教えの実践は禁止され、彼は四国へ流罪となって平安京を追放されています。

1211年に赦免されて京都へ帰還が許されますが、翌1212年に法然は死去しています。しかし、この時代の動乱過程で既に法然の意志を継承する弟子が現れていました。それが法然が始めた浄土宗を深め、形を変えて日本全土に拡大することになる親鸞です。親鸞については後日書きますが、1201年に比叡山を降ってから法然を訪ねて弟子入りしています。

このように考えると、激動の時代を単独で歩み続けた法然の存在があったからこそ、親鸞という絶大な才能が時代において開花し、今日まで浄土真宗が最大信徒数を抱える宗派になったと言えます。ただし、重要なことは歴史の概観を分離させることではなく、それと同時に信仰が人々の心の中で如何に生まれていき、人々に実践されるに至ったかを見極めることです。

個人的に法然の存在を極言すれば次のようになります。それまでの自己満足や外に答えを求めて溜め込んだ知識など、末法の世が来れば一瞬で吹き飛んで焼失し、何も意味はないということを如実に示したのです。その象徴は既成システムの為政者たちの没落、火災、竜巻、戦争、地震、飢饉などにおいて起きていますが、この平安時代末期の動きは、今日の日本にまで連なる大きな時代を形成する源泉となっていることには注意が要されます。

そして法然の教えが人々に響いた核心にあったのが、彼の提示した世界観だったことが見えてきます。それは特に現世の捉え方として浮上してきますが、ざっくりと言えば、修行次第で仏になれる場所として現世を捉える従来の動きに対して、法然は現世では絶対に救われることはないと転移させています。これは比叡山と同じく密教系の真言宗の開祖・空海の即身成仏や、さらには天台宗の厳しい修行と勉学を経由した現世利益などに現れていますが、こうした世界観は基本的にエリートのためであり、文字も読めなければ修行を行う時間もない民や悪人にとっては、開かれた世界ではありませんでした。

同様に従来の寺院や仏像を建立する仏教の方法も、所詮は現世を浄土に似せるためのものであり、そうした方法に対して法然は強い疑念を感じていたのです。そこで彼は現世で救済されること自体を最初から棄却してしまい、死後に誰もが必ず往生するという世界観を提示したのです。当時のような平安京市民にとっての不安定な時代では、現世での救済は明らかな空言であり、言い方を変えれば嘘です。そこで法然は、救済という諸宗派の前提となる望み自体を諦めてしまい、潔い絶望を引き受けて生き続けることが人生だと捉え返します。そして諦めは無意味ではなく、死後には絶対的な安心が阿弥陀仏によって約束されていると置き換えた時、日本最大の宗派となる浄土系統の勃興が始まったと言えます。

しかし、そうは言っても法然は人間の死後の世界を空想していることに変わりはありません。この死後の世界についての思索がここから問題となっていくのですが、その中で絶対的な影響力を誇ったのが弟子・親鸞だったのです。