倭人考 8On the Wajin, Part 8
古代日本に太陽信仰はあったのか。
この問いに迫ることは困難ですが、個人的な実感から見ると、縄文人は太陽を信仰していた痕跡があまり見られません。確かに彼らが太陽の動きを観察していた痕跡は各地に残っていますが、それは信仰とは別の次元であるため、一概に太陽信仰とは言えません。ただこの視方は私の恣意性に基づいており、縄文人の感性から見れば自然存在すべてに魂が宿るという信仰がベースにあったと言えます。
例えば縄文人の信仰をそれなりに継承していると思われるアイヌは、自然存在の神威をカムイが宿ると捉える信仰をベースに持っていました。彼らは太陽をトカップチュプカムイと呼び、月をクンネチュプカムイと呼びましたが、アイヌ信仰では太陽は女神、月は男神に位置付けられています。ただし、ここは議論の余地を多く含んでいます。その問題は、そもそもアイヌが有していた信仰における女神と男神の関係は、主にアイヌが居住していた北海道系縄文人の信仰をベースに正統に継承されたものなのか。あるいは複雑な部族の交雑によって信仰が変質した結果なのかです。
世界の太陽神も男神か女神かでわかれますが、その背景には異族との交雑によって信仰が変質したケースなどもあるため、一概に言い得るものではありません。ただアイヌにおける太陽信仰の女神の性質は、個人的には日本列島の本州地域側の部族と交雑した結果、変質して生まれたものではないかと考えています。
縄文人のような古代部族に太陽信仰があったか否かを問うこと自体が不可思議なことでしょうが、それにしてもある時代を境に、日本列島で太陽信仰の崇拝が極端に始まったことは事実なのです。そしてそれは、縄文的信仰から見ればかなり異質であったと思われるのですが、その根拠は外来の移民が持ち込んだ性質において顕著に表れています。例えば、縄文時代には見られない祭祀道具が次々と弥生時代の遺跡から発掘されたりする辺りに顕著ですが、こうした祭祀道具は太陽神の信仰に欠かせないツールとなっていました。
古代日本列島に太陽信仰を持ち込み、ヤマトの女王・卑弥呼の即位によって誕生する新興宗教の礎を築いたのは、疑いようもなく移民です。これは一万年以上もの豊富な歴史を有する縄文人が、こうした信仰を有していなかった可能性を示唆しているのですが、それは縄文人のアニミズム的信仰に対して、明確に太陽を分離して信仰する態度を持っていたからだと言えます。こうした初期的な分離を前提とする信仰は、縄文人が許容できるものではないため、どこかの時代で新たな価値観を有する人々が海を渡って日本列島に居住し始めた痕跡を語っています。
その古い記憶を伝える一つの伝説が、海を越えた朝鮮半島に残されています。その場所が、朝鮮半島東部の浦項市付近です。この沿岸部を拠点にしていた祭祀をベースとする部族が、太陽信仰を日本列島に持ち込んだ集団だと私は考えています。では一体、彼らは何者なのか。
大前提として、この部族は古代朝鮮半島側では新羅に属しています。新羅は紀元前57-935年まで続いた長期的な歴史を有する国であり、長い歴史をかけて日本側にもかなりの影響を及ぼした国です。新羅が大きく発展するのは4世紀頃ですが、特に7世紀後半頃に中国側で台頭した唐と連合を組み、朝鮮半島の百済や高句麗を滅ぼして676年には朝鮮半島の大部分を統一しています。この朝鮮半島側の動乱は日本の政治にも甚大な影響を与えており、この間に無数の難民が日本列島に押し寄せています。
そして新羅は、早くから日本列島の日本海側に位置する島根や北陸などと積極的に交通していた地域です。古代の海上交通は痕跡が残らないことから軽視されがちですが、日本列島と朝鮮半島側の往来は、古代より複数の海路が確立していたことは当然のことであり、実際にその痕跡は日本列島沿岸部だけでも多々残されています。一般的に朝鮮半島から日本列島への渡来ルートは対馬、壱岐島を経由して九州北部に上陸と考えられますが、それは主要ルートであってそれ以外に存在しなかったことを意味しません。
ただし、近代以降の日本と朝鮮との関係において、双方ともにナショナリズムが高まった負債を未だに払拭できていないため、こうした歴史事実は一方的に無視される傾向にあり、未だ発展的な議論には至っていません。例えば、この問題は日本側では朝鮮の影響を認めにくいものとなり、特に天皇の系譜に関わってくる事実に対しては絶対に認めません。同様に、朝鮮側は日本の歴史は自分たちが作ったと強調するという具合です。近代的ナショナリズムを古代の歴史に持ち込む態度が何をもたらすかは、日本と朝鮮の問題を見ることで掴めてきますが、未だに解消される気配がないことは残念でなりません。
私はナショナリズムは近代の問題と裁定した上で、古代史は別の次元として考えていきます。そこでかつて新羅と呼ばれた国の中でも、浦項市付近の沿岸地域に伝えられた伝説が重要となります。今も古代の記憶は場所に残っており、この地域には[迎日湾]と呼ばれる湾がありますが、これは日の出を拝む聖地である[迎日]の意味となっており、新羅勢力の太陽信仰と深く結び付いていました。
事実、新羅について詳細な記録を有する歴史書『三国遺事』には、この太古の記憶を伝える「延烏郎と細烏女」の伝説が記されています。この伝説は新羅の第8代・阿達羅が王位を有していた時代のものとされており、阿達羅の在位が154-184年であることから、ヤマト側では卑弥呼が即位した時期と被っていると推定されます。卑弥呼の即位年代は正確には不詳ですが、170年代か180年代辺りが有力視されており、この阿達羅が在位していた時代に倭の女王・卑弥呼が新羅に使者を派遣したという話も伝えられています。ただこの辺りは既に書いた通り、ベースとなる中国側の三国志をどの段階でどの写本を採用したかによって解釈は大きく変わるため、中々実態は明らかとなりません。
また三国遺事は、朝鮮半島側の現存最古の史書である1145年に成立した『三国史記』に次ぐ、13世紀末に編纂された私撰の史書という性格を持っています。この撰者は13世紀末の高麗の高僧であった一然(1206-1289)であるため、2世紀後半の新羅を語る上では1000年以上もの歳月の開きがあることは注意しなければなりません。さらにこの編纂背景には、儒者で高麗の官僚であった金富軾(1075-1151)の編纂した三国史記が、中国の史書の編纂方法に忠実であったため、古代朝鮮の伝承・神話・故事などが容赦無く排除されていることに一然が不満を感じた事情があります。そこで一然は独自に様々な文献を発掘したりするなどして、特に新羅の古い伝承などを収録していったのですが、一然も禅僧として仏教普及に結びつける意図もあったことから、この辺りは古層が見え難い事実もあります。つまり三国遺事は史書というよりも、むしろ今で言うところの民俗学の伝承などを集めて私的に編纂されたものと言えます。視方を変えれば、だからこそ重要なのです。
基本的に史書は、東アジアでは中国の方法をベースに組み立てられていく国家事業ですが、同時にそうした一元的な態度に不満を持つ官僚や学者ではない外部の人々は、独自に私的な記録として史書を制作する動きも起きていました。日本で言えば、これは国家規模で古事記と日本書紀として表れています。中国の史書の編纂方法に忠実だった日本書紀と、古代日本の伝承・神話・故事をベースに組み立てている古事記の差異は、全く異なる世界観を有しています。
そして三国遺事には、一然が発掘した新羅の伝説が記されています。それが「延烏郎と細烏女」です。伝説によると、新羅の王・阿達羅が在位していた157年に、[迎日湾]に住んでいた夫婦が岩に乗って[日本]へ渡り、そこで王と妃になったという物語です。彼らが去った後、新羅は太陽と月が光を失いましたが、細烏女が織った絹を新羅に持ち帰って祭祀を行ったところ、再び光が戻ったと伝えています。ここで見落としてはならない重要な点は、三国遺事が13世紀末に編纂された影響を受けており、この新羅の夫婦が渡った先を[倭国](Wa)ではなく[日本国]と記載していることです。当時の三国遺事側で[日本国](Nippon)がどのように発音されたか私には分かりませんが、13世紀の一般教養がベースになっている点は見逃せません。
ただ要点は、延烏郎と細烏女は倭国へ移動したと言及はされていないことです。卑弥呼即位前の倭国は日本列島側では非常に限定的で散在する地域連合であり、イコールで日本列島ではありません。ゆえに延烏郎と細烏女の渡来先を考える際に、私たちは従来の歴史観を注意を払わずに前提して九州北部への渡来を考えてはなりません。むしろ、[迎日湾]から日本列島に直接渡来する場合、その到達地は日本海側の山陰などにあったことが推定されるからです。
さらに、157年の倭国は卑弥呼の即位以前であり、魏志倭人伝に基けば、ヤマトは統制が取れずに諸部族の男王による大乱が発生していた不安定な時代です。この不安定な時代に新羅の太陽信仰を有する部族が倭国に渡来し、やがて王と妃になったという説話は大変興味深い。実はこれまでの個人的な調査を考えても、これは単なる伝説として破棄できない古代史のリアリティを持っています。
ただ前述の通り、日本側の近代イデオロギーの観点では、日本人の系譜の一つに新羅が関与している説は到底受け入れ難く、これまで幾度となく心ある学者によって主張されてきましたが、全て抹殺されており、主流のアカデミックでは完全に無視されています。同様に韓国側の近代イデオロギーでも、日本の天皇の祖先は新羅だと一元的に断定されるため、ナショナリズムとは区別して考えなければならない問題となります。東アジアの歴史を真摯に開く場合、必ずこのナショナリズムの問題を別に考えることのできる日本・韓国・北朝鮮・中国の人々の協力が必要になりますが、おそらくその担い手は非アカデミックの人々となるでしょう。
言うまでもないことですが、日本人イコール新羅人ではありません。ここで少なくとも理解できることは、2世紀中期の新羅側では倭国の王統と新羅が繋がっている考えが初期的に共有されていた可能性が示唆されていることです。もちろん、倭国の王統としての卑弥呼に通じるか否かは定かではなく、当時の倭国側には複数の王が散在していたため、イコールで卑弥呼と結びつけることは困難です。ただこの伝説の重要性は、延烏郎と細烏女が新羅の王統でもない沿岸部に暮らす普通の夫婦だったということに尽きます。言い換えれば、新羅側の非王統系の部族が、倭国側の王統に流れ込んでいた可能性は棄却できないということです。さらに重要なことは、この伝説では先に新羅を出立して[日本国]へ入ったのが後の男王・延烏郎であり、後で延烏郎を追いかけて妃・細烏女が[日本国]へ入ったことです。一体、この伝説は何を伝えているのか。
個人的には、延烏郎と細烏女は個人ではなく、部族の象徴だと考えています。いわば、新羅の太陽信仰の聖地である[迎日湾]を望む地域に暮らす祭祀的性格を持つ部族の一部が、既に海上交通が確立していた日本へ渡って帰ってこなくなり、心配した部族の一部が日本へ渡って王と妃になったということです。ただし、延烏郎と細烏女が在住した倭国側の王統の所在は伝説では不明となっているため、早急に太陽神・アマテラスや卑弥呼と結びつけることは避けなければなりません。仮にこの新羅の[迎日湾]近郊の部族が日本列島へ渡来するならば、主要ルートの対馬→壱岐島→九州北部ではなく、直接出雲や隠岐島を経由して北陸方面に向かうからです。
暫定的に総括すれば次のようになります。この新羅の伝説における延烏郎と細烏女は、新羅の阿達羅という王統とは無縁であるが、新羅にとっては太陽信仰の聖地を守護する部族的意味合いを持っており、その一部が太陽信仰を日本列島に持ち込んだ主勢力となった。その本拠地は日の出を迎える聖地[迎日湾]であり、ここで発展した太陽信仰の祭祀を持った一部が、そのまま海を渡って日本列島側に到達。その後、時代差を経て後続の集団が日本列島に到達し、この系譜の異なる部族が神話的な婚姻関係を遂げて倭国の王統に繋がるベースを築いたということです。神話的な婚姻関係は、個人と個人と結婚ではなく、部族間の同盟・協働・服属などによって象徴されます。
ここまでを前提すれば、新羅の伝説が卑弥呼即位と同時に起きた太陽信仰をベースとする新興宗教の成立と、リアリティを持って合致している姿が見えてきます。その信仰は魏の使者に[鬼道]と捉えられたものですが、個人的にはその信仰は外来由来であったと捉えています。
この興味深い新羅の伝説と、ヤマトの女王・卑弥呼の台頭は、東アジアの古い記憶を伝える媒介なのか。或いは失われた東アジアの姿を刻印した記録なのか。
中国ー朝鮮ー日本というナショナリズムの規定が解体する時、これまで全く考えられてこなかった壮大な古代人の歴史が浮上してくるでしょう。
Did solar worship exist in ancient Japan?