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倭人考 5On the Wajin, Part 5

未だ解明されることのない歴史の中で、複雑に渾融しながら今日の日本人と呼ばれる民族の源流を形成した謎の人々。時代が3世紀中期に差し掛かる頃、日本列島に来訪した魏の使者の耳に残ったのは、Wanという謎の響きでした。推定では、魏の使者は240年に朝鮮半島中西部の帯方郡という当時の魏の支配地域から出立し、日本側を転々と動いたことが記録されています。彼らは、当時の魏と交通を持っていた日本列島側の国々の中でも、複数の国を束ねて圏域を形成していたある都を目指しました。その圏域を治めていた存在が、女王・卑弥呼です。

卑弥呼が居た都は邪馬台国と呼ばれた国ですが、時に王国として語られるこの古代の都の所在は、未だに明らかとはなっていません。しかし、これは不思議なことです。なぜならば、当時の中国側では既に高度な測量や地理の理解を技術的に有しており、実際に『魏志倭人伝』の記録は簡易でありながら、どのようなルートで使者が邪馬台国の卑弥呼に謁見したかまでが記されています。これだけを聞けば、呆気なく邪馬台国の所在など明らかになりそうに思えるでしょうが、未だにその所在は確定されていません。一体、なぜ邪馬台国の所在がここまで混乱したのか。その謎を知るための道を、今回は見ていきます。

まず、この種の問題を見ていく際に、念頭に据えておいた方が良い関係は以下です。一つは、既に文字・文献技術を高度に有しており、王朝を軸とする男王による政治と官僚的制度を有していた中国側の魏の影響下にあった使者。もう一つは、文字・文献技術を持たず、王朝の祖型は形成されていたが、中国的な男王の執政という次元までは確立されていなかった倭国の倭人です。倭国側でも役人は既に邪馬台国の圏域の随所に配置されていたため、この段階では既に古代中国側との交通を通じて、それなりに王朝へ変移する動きが進められていたことは考えられます。しかし、私たちにとっては想像することが難しいですが、文字・文献を有しているか否かの差異は、意識構造まで異なる性質を生むことから、必ず避けられないズレを有することになります。言い換えれば、文字・文献を知ってしまった人間は、これを持たない人間の意識構造に迫ることは不可能だという決定的な断絶が存在します。これを辛うじて繋いだのが、日本では言葉に霊力が宿ると信じられるKotodamaでした。そしてこの避け難い穴に生まれたズレが顕著に現れているのが、まさに魏志倭人伝なのです。

大前提として、倭国の倭人という存在は、あくまでも魏やそれ以前の漢側との交通を持っていた限定的な日本列島側の部族に由来するものであり、抽象化して日本人とすることは不可です。また既にシリーズで触れた通り、個人的には自分たちのことをWanと呼ぶ言語圏は、その起源的存在として北東アジアからの移民勢力が深く関わりながら、弥生人という多元的構造において、複数の部族が共同する際に一定の理解を持つために自然に生まれた言葉だと考えています。そして文献の記録という限定された観点で見れば、魏の使者による魏志倭人伝が日本の姿を伝えた最古であるため、少なくともこの時代に彼ら魏の人々の公用語でWanの音が[倭]や[委]として文字化され、そこに民族的概念としての[倭人]、圏域概念としての[倭国]が官僚の文献用語として生まれたと言えます。つまり、倭人や倭国とは日本側に居住していた人々が意識的に呼称していたものではないということです。

この時、当時の在地の人々の有する幻想の姿と、魏側が日本側へ創造した幻想の姿に裂け目が生まれているのですが、この心的な痛みを伴う差異が、後の8世紀前半に編纂された古事記と日本書紀という、二つの文献が日本側で形成された要因だと私は見ています。つまり、少なくとも3世紀中期までの日本側の幻想としては、共同幻想の力は未完成であり、中国のような強度は持っていなかったのですが、ここで使者が邪馬台国の女王・卑弥呼のもとを来訪したことによって、幻想の姿が新たな時代段階に向かって変様し始めたということです。

ここで重要なことは、魏の使者が倭人や倭国を文字を用いて文献に刻印した時、在地の人々の心的な問題とは無縁に、容赦無く抽象化された意味の実定化が行われます。いわば、文字や文献の力とは、心的な問題を除去し得る安易さを持っていることにあり、それは同時に歴史の本質を消滅させ、歴史を建造するという多重構造を有しています。歴史洞察の際、文献をさほど信用できないのはこの点に集約されます。つまり、これは魏の使者が限定的に来訪した国々という次元で、Wanという言葉を頻繁に聞いたということでしかなく、また邪馬台国側から見ても、魏の使者は今で言えば国賓です。ゆえに、使者が自由に諸国の人々の暮らしを見聞する機会は極めて限定的であったはずで、大半は諸国の役人に歓待されたことが想定されます。邪馬台国側の政治力学を考えても、魏に認められることが即ち王権を担保される重要性を持っていたため、彼らにとって不都合な世界は、使者の目に触れさせない配慮が、邪馬台国を通じて接待する倭国側の役人に貫徹されたことは考えねばなりません。

実際、この魏の使者が来訪することを予め邪馬台国に知らせるために、倭人の使者数名が先に帯方群を出航したことが推定されています。そして邪馬台国側が定めたルートに従い、魏の使者は邪馬台国まで諸国を巡って入ったため、あくまでもこの文献は官僚的性格を持っていることを前提にした方が良いはずです。なぜならば、自由闊達に日本各地を自らの目で見ているわけではないからです。そして使者は、まず朝鮮半島を西側に南下して東へ向かい、そこから朝鮮半島から日本への玄関口となる離島の対馬と壱岐島を経由して、日本列島の九州側にまず上陸したことが推定されています。推定されていると述べたのは、文献に登場する国名の所在については、未だ混乱が激しいからです。こうして諸国を経由して無事に邪馬台国に入り、最終的に女王・卑弥呼に謁見するのですが、実はここに邪馬台国の所在が不詳となっている厄介な問題が潜んでいます。つまり、前提条件自体を取っ払わなければ、この真相は見えてこないということです。それが、誤字・誤植です。

誤字・誤植で邪馬台国の所在が不詳となったと見る視点は、意外に思われるかもしれません。しかし、実は邪馬台国の漢字である[邪馬台国]とは、数回の誤字・誤植によって生まれた表記なのです。これが意味していることは、実は卑弥呼が所在していた都の呼称は、当時は邪馬台国と呼ばれていなかったということです。この邪馬台国という呼称は、卑弥呼在命時の人々が呼んだものでもなく、また魏の使者が聞いた国名でもない。前述の通り、使者は倭人の音を漢字という文字に変換しますが、日本側ではこの古代の記憶は音として残るだけです。これは歴史の複雑な過程を経て、混乱の果てに生み出された国名なのです。つまり、邪馬台国は実在しません。実在しない架空の王国を求めているから、未だに所在が判明しないのです。ここから、このトリックを見る鍵について見ていきます。

元々、オリジナルの『魏志倭人伝』は『三国志』の一部にあったものですが、オリジナルは客家語で書かれていました。しかし、中国は歴史的に幾度も覇権が替わり、その度に王朝は広大な国土で場所を移しますから、覇権の宗主が変われば、必然的にその王を中心とする人々の使用する言語に翻訳し直す工程が生じます。こうして『魏志倭人伝』は大きく見れば、客家語から北京語と上海語に書き写される歴史を経るのですが、この過程で誤字・誤植が数回に渡って起きているということです。文献を何度も書き写す過程では必然的に起きることですが、中国の場合は王朝が変われば体制も場所も大きく動いた歴史を持つため、この誤字・誤植のズレは大きくなります。このことから察せられるように、実は魏志倭人伝の問題は、日本側ではなく中国側で何度も書き写される歴史過程で最初の問題が作り上げられていたのです。ここが肝心です。

さらに厄介なことに、江戸時代に入ると日本国内では儒教の勃興と共に、学問の推進が徳川幕府によって普及する時代を迎えます。この時、大量の文献が中国側から流入し、多くの人々が漢文を訓むことを教養としました。かつて日本側で文字を読める人と言えば、僧侶や神道家や貴族などに限定されていましたが、江戸時代の幕政は学問を広く推進したため、それまで学問と接触できなかった町人などにも広く書物が読まれていきます。この時、日本側の限定的な書物以上に、大量の書物を有する中国側からの輸入は重要でしたから、必然的にそれまで日本側に入っていなかった新たな書物が続々と流れ込みました。三国志がいつ日本に伝来していたかは不詳で、一説には8世紀頃には既に知識人には知られていたと言われますが、真剣に読まれるようになったのは江戸時代です。実際、江戸時代には庶民の間でも三国志が人気を博しており、多数の武士も愛読しています。

三国志の影響力は日本でも非常に強く、思い返せば、私も小さい頃に三国志を好んでいた影響で、未だに三国志に登場する人々の名前や国名を記憶しているほどです。そして三国志が広まったことによって、日本側では新たな動きが勃興します。それが国学です。国学は近代的な意味でのナショナリズムとは異なりますが、少なくとも日本の歴史を通観した時、あまりにも中国からの影響が強いことに辟易した一部の人々が、反動的位置から打ち立てたことは事実の一端です。国学者の筆頭格である賀茂真淵(1697-1769)や本居宣長(1730-1801)は、明確に反儒教や反仏教を主張していたわけではないのですが、中国的精神に対する排斥を主張する点では一致していました。そこで彼らは必然的に中国的精神に対抗し得る日本的精神を発掘する際、万葉集などの和歌を徹底的に研究することから始めるのですが、ここに前述の古事記と日本書紀への差別化意識が徹底されていきます。本居宣長はここで従来の慣例を破棄し、長らく絶対的地位に据えられていた日本書紀ではなく、古事記こそが日本的精神の源泉であることを説くため、30数年かけて日本初の古事記研究書『古事記傳』を書き上げました。

とは言っても、古事記は8世紀前半に編纂されたものであり、それ以前の日本の姿を文献から知ろうとする場合、学者はかなりの限界を抱えなければならない。そこで江戸時代の学者が注目したのが、三国志の一編である魏志倭人伝だったのです。中国側から伝来した魏志倭人伝が日本で研究され始めた時、一気に民族意識的な次元に適用されていくのですが、実は、この日本側で研究が始まる際にも誤字・誤植が起きています。

つまり概括すれば、魏志倭人伝が示す3世紀中期に存在した女王・卑弥呼が率いた邪馬台国という国名は、魏が理解していた次元では別の呼称であり、幾度も誤字・誤植が起きた果てにいつの間にか実在しない国になってしまっていたということです。この実在しない国名は、既に中国側の書き写し過程で起きていたため、必然的に日本側で研究され始める江戸時代の学者は、本来の姿を失った邪馬台国を立脚点に据えざるを得ませんでした。当然、当時の学者はそのような事態に気付くはずもありませんから、ここでさらにズレが拡大されて邪馬台国は歴史に完全に渾融してしまったのです。これが最も初期に、儒者の新井白石(1657-1725)が邪馬台国を畿内説(奈良説)と九州説に分離してしまった背景の事情です。この畿内説と九州説が、今も考古学などを援用して激しく争っているのですが、実はこの問題は歴史学でも考古学でも解き明かすことのできない問題です。

では一体、誤字・誤植が起きる以前に卑弥呼が治めていた国名の音は、何だったのか?

言い換えれば、240年代に日本列島に来訪した魏の使者は、卑弥呼が住まう国名をどんな音として聞かされていたのか?

それがヤマトなのです。