道元論 11On Dogen, Part 11
比叡山の時代は終わった。794年の平安京遷都以降、絶大な覇権を握って平安京の裏システムを掌握し続けた比叡山。平安京から見て北東の鬼門を守護する霊的役割を引き受けて国家鎮護を祈る本拠となり、厄災を防ぐ最前線で暗躍した比叡山の栄光は、やがて朝廷の為政者を表に裏にバックアップして絶頂を迎えます。そもそも、比叡山は唐より帰国した最澄が788年に開創して以来、まさに平安京と一心同体の存在であり、どちらかが崩壊すれば、全てが終わる一心一体の関係でした。しかし、開創から4世紀が経った12世紀後半に入ると、かつての宗教的威光は荒廃し、霊力を失った比叡山の姿に誰もが幻滅します。この時、長らく強大だった比叡山の共同幻想が消滅したことにより、新たな宗教の可能性が芽生えたのです。
注目すべきことは、脱比叡山の次を目論む大きな信仰の潮流が、比叡山の共同幻想の外部から現れたのではなく、内部から現れたことに特徴を持っていることです。この過程に至る流れを理解しなければここから始まる新宗教ムーブメントは理解できないと思い、これまでシリーズを通して、時代状況の視方を独自の視点で綴ってきました。その集大成は、平安京の終末である1180-1185年の6年に及ぶ激しい内戦が勃発した時にすべてがリセットされたことです。ただし、時代の為政者によって長年維持された体制が崩壊する兆しは、常に決定的出来事が起きるよりも少し前に起きるのが歴史の常です。ちょうど昨日、日本側では解散総選挙が行われ、既得権益の構造と超高齢化社会の投票の力学の中で、自民党が一強の状態を固めるという、第二次安倍政権を継承する結果に至りましたが、平安時代末期の姿をこうして概観すると、構造の面では何も変わっていないことが自明となります。
確かに、個人の生涯では生涯を通じて動乱が起こらず、平穏に寿命を全うできれば良いと願うことは人間としては仕方がないことかもしれない。しかし、システムは必ず腐敗する以上、定期的にすべてをリセットしなければ光が差さないこともまた真実。さらに歴史を洞察することを愛する私は個人として、終わりは悲観すべきことではなく、未来への希望であると思えてなりません。終わらなければならないものは、必ず終わるのが世の常。言い換えれば、終わらなければならないものは、必ず終わらさなければならない。ここまで見てきた平清盛による平家の栄枯盛衰は、やがて『平家物語』として語り継がれていきましたが、その繁栄の無常は今聞いても心に染み渡ります。私にとってこのシリーズの考察は、今の日本をなぞる裏面のような役割を持っているのです。
平安京が終わる狼煙は平家と源氏の軍事衝突として勃発し、最終的に源氏側の覇権を握った源頼朝が平安京で勝利宣言をして終結します。しかし頼朝は、平安京を中心とする西日本側には平家の残党に通じる敵対勢力が多かったことや、また平安京は既に時代の役目を終えていたことから、政治の実権を掌握するために遠く離れた東日本の神奈川県鎌倉に幕府を開く決断を行います。ちなみに幕府とは、この時代に初めて生まれたものです。平安京の政治システムは、ほぼ例外なく天皇や貴族が担ってきたのですが、これは朝廷という古いシステムの内部で行われるものでした。しかし、新たに台頭した武家はこの旧勢力と距離を取って独自の政治を執行する思惑から、新たに幕府というシステムを樹立したのです。
日本語で幕府は[幕府]と表記しますが、これは中国で将軍が[幕]を張って指揮を取る[府]と呼ばれる役所や本営の意味に由来します。つまり、軍事指導者にとって最適な政治システムが幕府なのですが、この指導者は天皇に任命された公式な征夷大将軍という役職と結び付けられていました。征夷大将軍という役職自体は平安時代からありましたが、元々は平安京よりも東部地域に居住していた人々が朝廷に服属・帰属をしない場合、軍事侵攻によって征伐する作戦の指導者に付与されたものです。ただし、これはかなり権限が大きく、永続的に付与すると朝廷にとっても脅威になりかねないため、歴史的には征伐作戦が必要となる際に限定的に任命されるものでした。しかし、ここで覇権を握った源頼朝はこの役職を正当化し、幕府の最高指導者として君臨する新たな政治体制に転用したのです。ゆえにこれ以降、征夷大将軍はそのまま幕府の最高責任者とイコールになります。ここで朝廷が征夷大将軍を任命することが慣例になりますが、これはあくまでも形式的なものであり、幕府の指導者が天皇からの任命を受けているという権威の正統性を担保するためのものです。
ちょうど鎌倉幕府が樹立する動乱期に差し掛かる寸前の1175年に、このまま引き続き比叡山に居ては自分も他人も救うことができないと確信して、大きな決断を下す人物が登場します。それが法然(1133-1212)です。法然は推定で15歳の頃から比叡山延暦寺で修行を始めていましたが、18歳頃に早くも延暦寺の限界を察知して隠遁を始めています。ただし彼は比叡山を離れたわけではなく、延暦寺から北へ1.5kmほど向かった静かな山中にあった比叡山の黒谷別所という場所に移りました。ここは僧侶の隠遁修行の隠れ家的な場所であり、延暦寺を表と見るならば、まさに裏です。この地で若き法然は叡空という師匠について修行を続けています。つまり法然は、この動乱期には表の比叡山延暦寺の政治的動向に巻き込まれていなかったため、客観的位置に立って時代を見極めることができました。ややこしいですが、一応この黒谷別所も延暦寺同様に天台宗に属します。
しかし、天台宗の厳しい修行は既に形骸化していて中身を伴わず、延暦寺の僧侶は稚拙な議論や政治に日々を捧げて仏の道を捨てており、比叡山を下った平安京の町に暮らす人々を救う力になっていないことを長年痛感していました。これら諸問題が深刻な状況になっても、隠遁しているとは言え比叡山の庇護下に置かれた僧侶である以上、山中に隠れ籠って修行を為す以外に方法はありません。ですが、これまで概括してきたような平安京を軸とする時代状況は、もはや仏教が末法の世と呼んだ滅びの時代を迎えていました。
「一体、自分はこのままで良いのか」。そうした問いは真実に生きようとする誰もが通過しなければならないものですが、法然は比叡山の深い山中で日々その問いに向き合います。どれだけ自分と向き合い、日々を放埒に生きる僧侶と交わらずに修行に励んでも先は見えてこない。もはや天台宗に未来はないと考えるしかなかった絶望的な状況の中、法然が答えを求めたのは書物でした。人生は良い師匠との出会いが生涯を決めるということは事実ですが、一方で時代によってはそうした出会いが叶わないことも多々起きます。若くして隠遁した法然にとって、その答えは先人の残した書物以外になかったのです。
法然は、黒谷別所に所蔵されていた膨大な仏教経典の全てを3回から5回も読み通したと伝えられるほど読書に励んでいました。ですが、本は幾ら量を読んでも真理を掴まなければ時間の浪費でしかない。1175年に43歳だった法然は、18歳という若さで隠遁して修行を行う姿を賞賛されて以降、長らく仏に達する修行に全てを捧げてきましたが、如何に己の修行を続けても、世の中の苦しむ人々の状況を無視しては悟りに達することができないことを理解し始めていました。この時、彼の心には人生で一度も持ったことのない使命感が芽生えていました。意識が変わり、生まれ変わった姿で何度も読み直したはずの書物を手に取った時、彼の運命は決まったのです。彼は中国から伝来した古書に記された一説に衝撃を受けます。それが7世紀に善導(613-681)が書いた『観無量寿経疏』です。
そこには[一心専念弥陀名号 行住座臥不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故]という解義が記されていました。現代的に言えば、「ただ一心に阿弥陀仏の名を唱えなさい。いつでもどこでも念仏を唱え続けること。これこそが往生のための正しい行いである。なぜなら、それが阿弥陀仏の本願にかなっているからだ」となります。それまでの仏教では、念仏の本流は『観想』と呼ばれる仏の姿や功徳を心に思い描く高度な修行が主であり、[南無阿弥陀仏]と口で唱える『称名念仏』は、劣ったものや補助的なものと見なされる傾向がありました。これは日本仏教に限らない特徴なのですが、だからこそ僧侶は厳しい教養と修行を通じて、この境地を獲得しなければなりません。
ある意味、この特徴が平安時代における僧侶の特権的地位へ結びつく源流にあったと言えます。法然はこの一説を見た瞬間、これまで寺院が僧侶を特権化してきた源泉である観想を中心とする仏教的態度では、いつになっても庶民が救われることはないと知り、誰でも実践可能な仏の教えこそが真理なのではないかと悟ります。この時、彼は僧侶が勝手に仏の境地は庶民に絶対到達できないと恣意的に決めつける態度が問題だと理解したのです。言うまでもなく、厳しい修行ができるのはエリート僧侶に限定されたものであり、万人に開かれたものではありません。そうした閉鎖性に限界を見た法然は、エリート僧侶だけではなく、平安京の飢え苦しんでいる庶民の老婆でも実践できる方法を善導の教えに見出します。それが口で唱える念仏という意味の実践法である『称名念仏』だったのです。
法然が悟ったことは、大きく言えば次です。万人に開かれた実践可能な方法こそが、全ての人を平等に救いたいと願った阿弥陀仏の真理であり、それは阿弥陀仏の力によって成し遂げられるものである以上、人間は自分の力ではなく阿弥陀仏の願いに乗ることにこそ救いがある。
この考え方は、阿弥陀仏がまだ修行中だった法蔵菩薩の頃に立てた48個の誓いを表す「本願」の中の第十八願をベースにしています。それは「私が仏になるとき、あらゆる世界の人々が心から私を信じて私の名前をわずか10回でも呼ぶならば、必ず私の国に生まれさせます。もしそれができないなら、私は決して仏にはなりません」というものです。ここにおける阿弥陀仏の名前とは[南無阿弥陀仏]のことで、阿弥陀仏の国とは極楽浄土のことです。つまり法然は、救いの準備は既に阿弥陀仏側で完了しているのだから、人間側が努力や才能を求めて四苦八苦する必要はなく、ただ阿弥陀仏が完成してくれた船に乗れば良いと考えたのです。
法然は、今世を生きる人間はただ阿弥陀仏の名前である[南無阿弥陀仏]を唱え続けるだけで良いと再解釈し、これこそが当時の地獄とも言い得る世界に絶望していた無数の人々を救う唯一の真理だと捉え、全てを阿弥陀仏に委ねる考え方を「他力本願」として打ち立てました。いわば、阿弥陀仏がどんな悪人や凡人であっても名前を呼ぶだけで必ず極楽浄土に連れていくという思想が、平安京の人々の現実と完全に適合したのです。法然はこの悟りを得て、自らの使命は隠遁を続けて今世を終えることではなく、平安京の人々を救うために生きることだと決意します。18歳から考えれば、約25年の歳月を隠遁に費やした後、隠遁自体をやめて表舞台に立つことを決めたのです。これは日本仏教の世界では、かなり異質な僧侶です。
1175年の43歳の頃に長年過ごした比叡山の黒谷を去り、平安京の市中に入った法然は、やがて京都東山の吉水を新たな拠点に選びます。この地は現在の京都観光では主要観光地の一つである円山公園や知恩院があるため多くの人々で賑わっていますが、歴史的には平安京の庶民が立ち入るような場所ではありませんでした。当時は滅亡する世界の渦中でしたから、この辺りは平安京内部に幻滅した隠遁者が草庵を構えたりしていましたが、歴史的には死者を葬る異界であり、平安京の庶民や貴族が立ち入るような場所ではなかったのです。法然はここに質素な草庵を構えて、熱心に自らの悟りをベースとする活動を始めます。これが日本側での浄土宗の始まりとなったのです。