龍は実在するのかDoes the Dragon Exist?
一般的に龍は伝説上の存在であり、架空の生き物として語られます。しかし現代においても、龍の実在を信じて疑わない人は多く、龍を見たり捕まえたりする人も日本には居ます。実際、私も一度だけ龍が生息する山中で子供の龍を見たことがありますが、龍を単なる伝説や架空の産物として見るのは、あくまでも私たちの次元の話であって、古代の人々は私たちとは全く異なる世界を生きていたことを前提しなければなりません。その根本にあったのは、自然存在からの疎外という人間が最初期に経験した原初の痛みです。人類史において自然存在からの疎外が徐々に進む過程で、人間は疎外によって裂けてしまった存在の穴を留めようとして、祭祀を生み出して神を祀るようになりましたが、ここで重要なのはこれが心的な問題だということです。
そこには人間にとって重大な意識の発現が深く関わってきますが、少なくともこの観点を前提にしなければ、龍に限らず古代に世界各地で存在したと伝えられる様々な生命体を論じることはできません。つまり本当に重要なのは、それらが現在の私たちが対象物として捉えられる範疇において実在したか否かを問いの軸に据えて裁定するのではなく、むしろそのような時代に強く限定されるものでしかない異質な考え方を破棄するです。その上で龍などの生命存在がどのようにして生まれ、それが人間の心的な問題とどのように関わり、影響を及ぼしたのかを思案する必要があります。
その立脚点は、自然存在からの疎外によって、人間の存在自体が裂けてしまったことによる心的な違和感や痛みを考究することにあります。そしてその裂け目を留めたり、埋めたり、邂逅したりしようとする限定されない多様な意図において、龍は初期的な生命を宿したのではないかと私は考えています。つまり龍は自然存在からの原初的な疎外を心的に経験した人間以外には、実在しない存在だという考え方です。逆に言えば、龍の存在の洞察には必ず意識の発現の起源的な出来事が深く絡み合っています。意識の起源を知ることは、龍などの存在を知ることと呼応していると言え、それは同時に人間の原初の不安、痛み、神の存在から信仰の誕生まで、多元的な出来事に関わる非常に興味深いテーマなのです。
龍がかなり古い歴史を抱えていることは分かっていますが、実際に日本側で龍とみなされる存在が表現されていたのは、主に弥生時代以降に限定されます。
それは弥生時代の土器などの遺物に龍が刻印、あるいは描かれたものが多数出土しているからです。こうした傾向は縄文時代とは異なる文脈を持っているものの、それは縄文人にとって龍は存在しなかったこととイコールではありません。東洋的な姿としての龍は移民によってもたらされたが、縄文人にとっての土着的な龍は蛇に象徴されており、彼らの土器にも弥生人にとっての龍と言えるような刻印は広く使用されているからです。ただ、縄文人は絵を描く習俗をさほど持っていなかったのか、或いは重視していなかったため、弥生時代に入ると突然土器に絵が描かれ始めたように見えてしまうことは事実です。
そして、東洋的な龍の存在の起源は中国側に求めることができます。中国では、少なくとも7000年ほど前から龍を模した図像が確認されており、河南省濮陽市の西水坡遺跡の埋葬現場(M45)からは、葬られた人から見て左側に龍、右側に虎のような図像が貝殻で表現されて出土しています。
これは四神相応の概念が、この時代に既に葬送儀礼において展開されていた決定的な証拠です。四神相応は風水において東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武の配置によって表されるものを基本とします。四神相応の概念は、このM45の埋葬にも現れており、写真を見ても分かるように、被葬者の向きに対して左側に龍、右側に虎が配置されていますが、龍と虎は被葬者に対して向きが反転しています。この配置は地上から見上げた夜空の星図を再現していると考えられているのですが、これは四神相応が元々天体を表すものであったとする起源からも理解できます。被葬者は頭を南に向けて足を北にしていることから、この体勢から夜空を見上げると左手側が東に相当し、右手側が西に相当します。これは東の青龍、西の白虎を直接的に指示していますが、ここでは古代中国の天文学における二十八宿という星座の区分けが活用されています。
月が地球を一周するためには約27.3日かかりますが、古代中国ではこの月の通り道である星を28個のエリアに区分けして、今宵の月はどの星のエリアに宿っているかを観測する観点から、日付や吉凶、季節などを算出・判断していました。例えば、青龍の配置は「東方七宿」という春の星座を表し、東の空にある7つの星宿を繋ぐと巨大な龍の姿になると見立てられました。同じように西は「西方七宿」が秋の星座を表し、こちらは虎の姿になると見立てられたという具合です。簡単に言えば、夜空をエリアごとに区分して、そこにある星を繋いで龍と虎に見立てたということです。
古代中国の天文学では、宇宙の中心は北極にあると考えられていました。そこでは全ての星は北極を中心にして回転するため、M48の龍や虎が北を向いているのは、天の北極である宇宙の中心に向かって頭を垂れている、或いは北極を中心とした周回運動を表現していると考えられます。実際、この被葬者の足元である北側にも、貝殻で北斗七星を模したものが見つかっています。これ以外にも多数の主張がありますが、大前提として、中国が紀元前5000年頃の時点で、こうした考え方をかなり高度に確立していたことは理解できます。さらに言えば、M48で龍や虎が貝殻によって形体を明確に対象化されている事実は、言い換えれば紀元前5000年よりも遥か昔から、既に龍となる起源的な存在が把捉されていたことを語っています。この意味で言えば、M48の龍は既に完成されており、龍の図像としては最古であっても、龍の起源を知るにはあまりにも新しいと言えるでしょう。
そして紀元前16世紀から紀元前8世紀頃の殷・周の時代になると、今度は祭祀具として利用された青銅器と呼ばれるものに龍の造形が組み込まれるようになり、甲骨文字にも龍の文字が登場するなど、龍が文明に実装化されていく重要な動きが起きています。この文明への実装化が長らく続いた後、紀元前202-220年の漢代に入ると、龍のイメージは一定の定型化を遂げています。この定型化によって多方面で神格化されることを可能とした龍は、その時代の銅鏡や瓦当など、様々な物に表現されています。こうした龍の神格化が多方面に実現されていた後漢(25-220)の頃に制作された最古の漢字字典である『説文解字』には、龍は「春分に天に登り、秋分には淵に潜む」と記されています。これは天を飛翔する龍のイメージが中国的に表現されたものですが、ここで重要なのは、【天・地・淵】という三層が既に中国の世界観において見られることです。ここは日本とは異なる点であり、龍の存在の世界観としても中国と日本で異なってくる重要な点と言えます。
さらに、龍は紀元前403-紀元前221年から漢代の時代にかけて流行した陰陽五行説が四神の概念と結びついたことで、さらなる発展を遂げます。陰陽は対となる組み合わせを表しており、五行は木・火・土・金・水、あるいは青・赤・黄・白・黒といった具合に属性や色などを表します。これらを複雑に組み合わせることによって、自然界のあらゆる事象を解義する高度な思考体系ですが、その中で青龍の位置付けは、方位は東、属性は木、色は青、性質は水というように付与されています。この時点で既に龍の存在は、古代中国人にとってはかなり実体化した存在として考えられていたことが分かります。
ただ注目すべきはその後です。後漢の頃になると、銅鏡に配置されていた四神のうち、北の玄武と南の朱雀が退行・脱落する傾向を高めていく動きが生じており、その代わりに古代中国神話や信仰における最高位の女神である西王母と、男神の東王父へと置き換えられています。これは陰陽において陰である女の象徴的な西王母、陽である男の象徴である東王父の信仰が高まったからですが、元々は母神的観点から起源が古いのは西王母であり、東王父は陰陽の考え方が発展してから生み出された新たな存在です。ただ面白いのは、漢字の観点で言えば、【西王母】の【西】は西を指示しており、【東王父】の【東】は東を指示しているのですが、四神の配置において東の青龍と西の白虎が代替されずに、北の玄武と南の朱雀が代替されたことです。この代替された銅鏡は日本側からも多く出土しており、相当信仰が広がっていたことが伺えます。この現象を違う角度で見れば、この時に世界を圧縮した銅鏡において、天体の運行に結ばれた青龍と白虎と、人間存在の生命に結ばれた西王母と東王父が交差し、中国側で新たな価値観が成立したと言えます。
中国側で数千年の歳月をかけて消化された龍と虎の概念は、やがて日本にも伝来することになります。龍の描かれた銅鏡は、弥生時代の中期末頃に日本に伝わっていますが、なぜか興味深いことに、当時の土器に表現されたのは龍に限定されており、虎の表現はありません。事実、これまで土器に龍を刻印・描いた遺物は発見されていますが、虎は発見されていないのです。なぜ日本では、土器のモチーフとして受容したのが龍だけだったのでしょうか。ちなみに中国側では、虎は龍と同様に頻繁に表現されており、この対の関係は信仰の観点からも欠かすことのできない重要性を持っていました。
昨年も弥生時代に描かれた絵を見るために各地を巡りましたが、弥生時代の土器に描かれたり、あるいは刻印されているものは、鹿、人物、建物、船、鳥が代表的に挙げられます。これらは彼らの部族起源を示す古代の記憶を刻印したものであり、大陸から日本列島へ海を渡ってきた先祖の記憶を伝えたものです。この時、古代の船を先導するのは鳥であり、鳥は神として神格化されていたため、弥生人の祭祀では頻繁に鳥の装束が用いられながら、シャーマンが鳥となる祭祀が執行されていました。そんな弥生人にとって、龍も重要なモチーフの一つとして登場しているのです。
ただし、これには分布圏が比較的限定されています。龍のモチーフは、大阪や岡山を中心に分布しており、西限は鹿児島、東限は静岡です。出土の現状から見れば、主に太平洋側を中心に非常に広く龍の信仰が伝播したことが分かっており、これまで龍を表現した土器は全国で約70点程が確認されています。大雑把に言えば、上述したような中国側で発展していた信仰を大陸側で吸収した何かしらの部族が、自らの固有の信仰と掛け合わせて独自に代謝した結果、最終的に彼らにとって重要な龍だけが残ったというイメージです。そのイメージを持って海を渡ってきたため、日本側では中国で広く見られるような虎は土着に採用されずに、龍の信仰が強く残存したと言えます。ここに北東アジアに主なルーツを持つ弥生人の土着的な考え方がどれほど混入しているかは定かでありませんが、彼らの起源的な場所とも深く関係していた可能性は考えられます。しかし、なぜ龍だけが日本でここまで信仰されたのか。
中国側では、古来より龍は雨を司る神と考えられており、農耕民にとっては非常に重要な神でした。古い文献である『山海経』や『淮南子』には、干ばつの時には泥土で龍の形を作り、降雨を祈願したという記載があり、『春秋繁露』にも、これと同じものを用いて雨を呼び込む呪術が行われた記載があります。実際、弥生時代に入ると日本側では巫女による祭祀技術が高度化する時代を迎えており、全国的に活発になりますが、ここで当時の祭祀ツールであった土器・銅鐸・木器などに絵を描いたり、刻印したりする風習が生まれています。さらに龍を描いた土器は、井戸や溝のような水と深く関わる場所から発見される特徴が見られることも重要です。ここから見えてくる可能性は、龍が描かれた弥生土器は中国側の泥土で作った龍の代替として、日本側では土器に龍を描くことによって活用し、雨乞いの祭祀に使用された可能性が見えてくるのです。
実際、この弥生時代の主軸を担った人々は、農耕技術を有する人々でした。縄文時代にも既に農耕技術自体は存在したのですが、これまで遺構を見てきた限り、弥生時代以降の農耕とはかなり異なるように感じます。そして弥生時代の農耕の大きな特徴とは、雑穀や芋の栽培を中心としたものです。よく弥生人は水田稲作を行っていたと言われますが、それは後に水田稲作技術を持つ新たな東アジア系移民が流入して交わってからのことです。弥生人にとっての稲は陸稲と呼ばれるものであり、畑作によって栽培されていました。つまり弥生時代の農耕とは、主に縄文時代にルーツを持つ焼畑農耕と、弥生時代的な栽培技術が組み合わさって成立したものであり、雑穀や芋の栽培が広く行われていました。
狩猟採集に重点を置きながら、限定的に農耕とバランスを取って生活することのできた縄文人と比較すると、盆地を好み、自分たちの栽培した食糧によって生活を行うことが主軸であった弥生人にとっては、雨の存在は彼らにとって生活の生死を分ける重大な問題となります。また縄文時代の集落遺跡の配置と弥生時代の遺跡の配置には、大きな特徴がいくつもあるのですが、その一つとして弥生人は河川沿いに住む傾向が強かったことが挙げられます。もちろん縄文人も水を確保することが生活の第一前提でしたから、こうした傾向自体はあったのですが、弥生人の方がその傾向が強かった背景には、栽培の際に水が縄文人よりも多量に必要だったことと関連していると考えられます。
また干ばつや洪水も頻繁に起きるため、弥生人は水を制御することで自分たちの生活を為す自然共生の技術を独自に確保するために、大陸側から持ち込んだ龍の信仰を純化させていった可能性があります。この時、虎が日本側で重視されなかった理由は幾つか考えられるでしょうが、日本に虎が住んでいなかったことは説明になりません。なぜならば、中国の四神思想は実在する動物を考えて作り出されたものではないからです。実際、先ほどのM48を見ても察しがつくように、彼らは虎を実際に生息する動物としての虎として模っていません。
ただ一つの可能性として個人的に見ているのは、四神が陰陽五行説の観点から解義されるようになった時、水を司る龍に対して虎は風を司る神として信仰されたのですが、風の性質を持つ虎の存在が、日本側では龍に還元されていることです。つまり、歴史的にまだ明らかになっていない出来事として、東の青龍と西の白虎が渾融するような事態が何かしらの部族によって起きた可能性を考えているのですが、それが日本側に移民として流れ込む弥生人の主勢力と関係があるのではないかということです。この段階で何者かは、虎が有する風の性質を水の龍に還元されたということです。ゆえに、日本で龍は水の神であり、風の神でもあります。これが日本の風土的な問題なのかは分かりませんが、少なくとも虎は日本側で信仰されていた形跡はありません。また中国側でも龍は風の性質を司る側面もありますから、おそらく中国側の歴史で無数に混ざり合ったさまざまな集団の営みの中で、この辺りが弁別されていったと言えるのかもしれません。
こうして四神は中国側で玄武と朱雀が段階的に切り落とされていき、そして日本に入ってさらに白虎が切り捨てられ、青龍だけが非常に重視されるようになっていったというわけです。龍は私にとっても興味深い考察対象なのですが、世界中で広義の意味のdragonが伝説として共有されている事実は、太古の人間存在の原初の心の問題と深く関わっていることの示唆に思えるのです。