倭人考 4On the Wajin, Part 4
このシリーズで歳月をかけて開示したい一つのことは、私たち近代以降を生きる人々にとっての幻想形態が歴史的に普遍なのではなく、むしろかなり特殊な形態であることを自覚することです。ともすれば、私たちは自分たちの到達している世界や思考が歴史的に最も優れていると自負する傾向にありますが、こうした態度は一概に否定できないものの、やはりどこか稚拙であることは疑えません。個人的には今ほど自らの起源を探究することの重要性が高い時代もないだろうと考えていますが、それは社会的現象としてのアイデンティティクライシスの文脈に絡み取られずに、隠蔽されている現実自体を直視することへの転換を能働的に為すことこそが、今後の激動の時代を生存する一つの根になるだろうと見ているからです。
起源の問題は、徹底して自らの深淵を抉っていく痛みを伴う過程です。内的探査という人間にとって残された最後のユートピアを目指し、深く深く潜っていくことによって達成される起源の真理は、まず第一に己の存在自体を凝視することから始まります。なぜならば、己の存在を構成する個人幻想を徹底的に洞察した時、必然的に共同幻想と対幻想の複雑な様態が心的に掴めるからです。この時、多くの人々は自らの起源ではなく外部に目を向けてしまい、それで安寧してしまう逃避傾向が強いのですが、人類学にしても何にしても、古代文明などを考究する以前に、自分自身の起源を探究しなければならないことは自明です。実際、他国の起源を外から調べる研究は、後代に在地の人々による起源の探究と突き合わされることで、見落としが明らかになる道をたどります。己の起源を徹底して見つめることなしには他国を洞察できないという、共同幻想が持つ最初の限界は、外からの視点には気づかれにくいからです。この基本が気づかれないまま進めば、他国の起源についての研究はシニフィエの域に回収されます。博物館に展示された遺物も、それだけでは真理を語りません。そして外部の視点だけでは真理に至ることのできないこの構造は、近代固有の問題ではなく、既に古代から同質の問題水準として発現しています。
私の場合、その起源を日本に据えて潜行しているわけですが、この種の問題は最古の日本の姿を記録している中国側の史書である『魏書』の一編である『魏志倭人伝』の時点で既に露わとなっています。このシリーズを通して見ている通り、Wanという日本側の在地部族の古語を一つ取ってもあまりに複雑です。かつての在地部族にとって「私たち」を語る言葉であったWanの次元は、古代中国側の使者を介して、王朝の官僚・学問用語としての【倭】【委】という文字に変質し、やがて日本側にこの文字が逆輸入されると、音はかつてのWanから文字を介してWaへと変質しているからです。ですが、この文字を前提に古代の音世界を変質させてしまうと、文字以前の世界を把握できなくなる限界への規制が生まれていきます。日本では言霊として知られるように、古代日本では音それ自体に多元的世界が存在しました。ですが、たった一つの音であっても、それが文字として扱われる時代になると、必ず時代ごとの規制を受けて意味を変質させます。一種のイデオロギーが担い手を介してその音に介入するということですが、このWaの音が典型的にその歴史を語る素材なのです。ある意味では、その変質の日本側での最古の資料と言えるのがWanの音です。
例えば、現在でも日本人は【和を尊ぶ】や【和を大事にする】などと言われます。これは単純に論じられる問題ではありませんが、噛み砕いて言えば、ここでのWaは【和】と変質されている上、さらに近代以降は一般的にハーモニーを訳語に当てられています。これ自体が間違ってはいるわけではないのですが、起源とは位相が全く異なることは理解しておく必要があります。つまり、「【和】=ハーモニー」ではないということの前提ですが、しかし同時にそこには古い記憶が残存しているということです。この古い記憶というのが、かつて中国側の使者が【倭】と文字に解した古代部族のWanの音世界なのです。実際、英語圏で生まれ育った人たちが理解する意味でのハーモニーの世界と、この【和】の世界は全く異なる概念空間に存在します。そこにはハーモニーという一語ではすくい取れない、まだ言葉になっていないものが含まれているということです。そこに潜んでいるものは、相互理解を拒絶するものなのではなく、諸々の幻想構造です。
古代日本において一部地域でWanとして語られた言葉が、魏の使者によって【倭】の文字として国や部族の呼称に暫定的に当てられた時、音がWaへと変質する原型が配備されました。しかし、これはかつて日本列島に実在した特定の部族を指す対象を伴った概念ではなく、限定された場所に根付く共通言語の音でしかなかったものです。それは極言すれば、魏の使者が来訪した際に諸国を統治する女王の位置に存在した卑弥呼に属する圏域に暮らす人々が、それぞれの国に存在した首長のもとで圏域に共通する言葉として拡散された言葉の名残です。この言葉の源流には特定の部族が居たはずですが、そのようなことは私たちには知る方法がありません。少なくとも言えることは、Wanという言葉が魏の使者にとって、印象に残るほど頻繁に語られた音であったということくらいです。
こうした共通言語の必要性が高まった背景は、魏志倭人伝の記述に既に現れています。そこでは卑弥呼統治前の状況が簡潔にまとめられているのですが、それによると諸国が入り乱れて対立を繰り返していたとされており、休戦の意味合いを兼ねて、諸国の首長が集い、合意のもとで卑弥呼を女王として擁立することを決定したとされています。つまり、これら諸国の首長次元は既に何かしらの共通言語を有していた可能性が示唆されているのです。その共通言語は日本側の土着に由来するのか、或いは彼らのルーツ自体が大陸側の共通母体から発生した移民にあったかは不明なものの、おそらく後者の可能性が高いと個人的には考えています。
つまり、ここでWanとして語られた音を持つ共通言語を話す集団が、日本の時代区分における弥生時代を生きた人々の重要な起源に関わっているということが重要なのです。一般に弥生人と言われており、彼らは長期的に続いた縄文時代の縄文人に続く存在として語られますが、実態としては複数の起源を有する複雑な集団構成です。ただ、弥生時代を形成した主勢力が大陸側からの移民であることは100年以上も前から指摘されており、近年は核ゲノム分析を前提とする人類学的観点からも、その古い指摘が科学的根拠をもって補強されています。大きく見れば、弥生人の母体となった集団のルーツは北東アジアの西遼河近郊です。個人的な推察では、中国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部一帯に広がって紀元前4,700-紀元前2,900年頃に存在した紅山文化の担い手に起源を持つと考えています。核ゲノム分析が現状で示しただけでも、この西遼河系部族の核ゲノムがNorthern China typeであり、日本列島の在地の縄文人や、韓半島南部の古代部族が持っていた古代東アジア沿岸に特有の集団とは遺伝的に明確に異なる集団だとされています。
この紅山文化は第二次世界大戦前の1908年に、満蒙調査を行なっていた考古学者の鳥居龍蔵が調査した文化圏で、既に1935年には日本人考古学者による大規模な発掘調査が行われていました。ただ、その後の戦争の影響で継続的な調査は不可能となり、また中国側もこの地域にさほど関心を示さなかったことから、考古学的成果はかなり遅れていました。こうして時を経た2015年にようやく進展を迎えます。それは中国科学院のXaoping Yangらのチームによる調査報告によって、この紅山文化が発生した時代における同地域が特殊な環境になっていたことが指摘されたことです。従来、この地域一帯は過去100万年に及ぶ砂漠状態だと前提されて関心を持たれなかったのですが、実は12,000年前から4,000年前にかけての限定的な期間のみ、豊かな水資源と湖沼や森林が存在したことが判明したのです。しかし、約4,200年前頃から始まった気候変動により再び砂漠化したため、推定で4,000年前辺りから、紅山文化を作った集団が生活の新天地を求めて南へ向かって移動を開始したのです。これが韓半島を経由して、後に日本列島に移民として流入する弥生人登場の起源的出来事となります。つまり、気候変動が弥生時代を形成する主因だったということです。視方を変えれば、一万年以上続いた縄文時代の終わりは、気候変動の影響を受けた大陸側の動乱にあったということです。これが日本最古の大規模な異部族流入の現象です。
ただし、この西遼河系部族が北東アジアから日本列島へ移動する過程において、他部族との交雑が随所で起きているため、「弥生人=西遼河系部族」ではないことが前提となります。実際、現在まで日本側の考古学的試料を前提とする核ゲノム分析調査からは、純粋な西遼河系部族のタイプは見つかっていません。そこで大きく見れば、弥生人の構成には4つの基層タイプが存在していたと位置付けられます。
<弥生人の構成>
1: 西遼河系部族と縄文人のミックス
2: 西遼河系部族と古代東アジア沿岸部族のミックスだが、縄文人とのミックスは認められない。
3: 西遼河系部族と古代東アジア沿岸部族のミックスで、かつ縄文人とのミックスが認められる。
4: 縄文人
このうち、1,2,3は韓半島側でミックスした集団が日本列島へ流れてきてきた集団なのですが、彼らの起源的部族が弥生時代の文化などの原型を日本列島にもたらした想定を前提する時、その中には当然ながら言語が含まれていたことは自明となります。その言語系統はトランスユーラシア語族と学問的には位置付けられていますが、この言語が現在の日本語の原型です。つまり現在の日本語の起源は、縄文人の言語よりも、弥生人の言語の方が基盤になっているということで、それらは移民によって構築されたものだということです。ただし、これは地域差があります。日本列島という軸で見れば、縄文系統の言語圏も相当数残っているからです。
今回は要点だけ触れるに留めますが、この辺りの日本側の事情は独自に各地で調査を継続的に行っているため、今後ゆっくりと開示していきます。ただここで重要なことは、魏の使者やそれ以前の中国側の使者が幾度も聞いた印象的なWanの音はおそらく縄文人の言葉ではなく、この西遼河近郊に起源を持つ部族に由来する音なのではないかという可能性を掴み取ることです。既に魏の使者が来訪した3世紀頃の時点では、紅山文化を作った部族は交雑しながら日本に流れ着いて定住していたからです。それが日本側で弥生人と呼ばれた主勢力だと理解すると、かなりクリアになります。逆に言えば、私は弥生時代の古代日本側と古代韓半島の一部が同一の文化圏にあった一つの理由は、共通祖先が同一だったことに起因すると見ています。これは日本神話などにも度々登場するテーマですが、近代的な侵略や植民地として読み解いてはなりません。なぜならば、これは共通祖先が存在したことで、海を超えた圏域が展開されていた古い記憶を語るものだからです。まさに、非ナショナリズムの世界なのですが、日韓双方がナショナリズムのイデオロギーを対置させる構図の中にあるため、この視座が一向に持たれないまま今日を迎えています。そして、こうした古代部族の日本への流入経路の全体像を理解するには、東アジアの対立の構図を越えた視座が欠かせません。この実像は、朝鮮半島統一、中国と日本の国交正常化などが大前提となり、この3カ国間の共同調査チームが歳月をかけて取り組まない限り、絶対に解明できないことだからです。
少なくとも、今はこのような前提を最低限踏まえることによって、魏志倭人伝の記す女王・卑弥呼の存在した邪馬台国の姿に迫る鍵を手にすることができます。そして上記で示した前提から考えると、少なくとも卑弥呼の暮らす邪馬台国は、この古代日本語の源泉を豊富に持っていたことが察知できます。むしろ、卑弥呼もこの言語圏を継承していた可能性は高いでしょうし、倭国という圏域内で各勢力が意思疎通を図るために共通言語を獲得していた可能性を考えれば、それはむしろ弥生人の母体となった主勢力の言語に由来すると言えます。そこで問題は、この倭国の圏域が当時の日本列島でどの辺りまでを包摂していたのかです。実は魏志倭人伝の記述からこの実体が掴み難いため、歴史的に日本側でも文献に記されている国々が、正確にどこに所在したかという問題が混迷を極めています。一応、暫定的にこの国は現在のここに所在するなどのことは行われており、昨年に私は西日本一帯の全ての暫定的に措定されている魏志倭人伝の国々を来訪しています。ですが、確定できるものがないのです。こうして決定的な証拠がないがゆえに、ある問題が江戸時代に発生します。それは、そもそも卑弥呼が治めていた邪馬台国が日本のどこにあったのかという所在の問題として現れました。こうして今日まで数百年も続く邪馬台国論争の源流を生んだのが、江戸時代中期の朱子学者で多様な学問に精通していた新井白石(1657-1725)です。
新井白石は魏志倭人伝を考究した結果、当初は邪馬台国の所在を畿内(奈良県)だと主張しますが、後に自説を一変させ、畿内ではなく九州だと主張を変えます。この新井白石の二つの主張によって、邪馬台国の所在が畿内か九州かという問題が提起されたのですが、何とこの問題は今日まで同じ水準で続いており、収拾されていません。特にこの問題を混乱させたのが、新井白石を前提に国学者・本居宣長(1730-1801)が皇国史観の立場から魏志倭人伝を解読し、九州説を絶対とする強硬な説を打ち立てたからです。これにより、魏志倭人伝で記されている倭国の女王・卑弥呼が住む邪馬台国の所在が不詳となり、数百年の歴史でその実証方法は様々に取られてきましたが、未だ確たる決定的証拠は発見されていません。この問題を長引かせている一つの原因は、考古学を取り巻く問題にあります。実は日本に点在する古墳の中でも、歴代天皇に関わると宮内庁側に位置付けられている墳墓の調査は、国家的に厳格に制限されてまともに調査することができません。実際、私の故郷である大阪の堺市には巨大な古墳群が点在していますが、これまで限定的にしか調査されていません。
これは国家的思惑としては、天皇の起源に関わる厄介な問題が提起されることを避けるためと言われていますが、この制限を宮内庁が自主的にかけてしまっていることから、まともに調査ができない事情が、さらに邪馬台国の所在問題を複雑にさせたのです。実際、いつまで経っても解明されない邪馬台国問題に辟易した人々は、従来の畿内説と九州説以外の可能性を探り、時に捏造して全国規模に広げる混乱状態となっています。こうした動きは逆に見れば、天皇の系譜が複数の起源の交わりの中にあることを、実は多くの人が感じ取っていることを表します。これは、これまで保持されてきた「純粋な日本人」という虚構が、一体どこに成り立つのかという問題に関わります。そしてDNA分析が様々な過去の説を補強している現在、改めて思うことは、全てを遺伝子の結果に集約した時、必ず別の民族主義的問題が起きるということです。このセクションをあえてCommunal Illusionにしたのは、民族は幻想の観点から解読すべきであることを見失ってはならないと主張する目的が明確にあるからです。つまり、現在のようなDNA礼賛の一方向に傾いている人類学的視座は、複雑な幻想形態を無視して展開されることから危険極まりないものと言え、将来的には一種のリスクになるだろうと考えています。
単純に言えば、核ゲノムの上で天皇の系譜に複数の起源の交わりが明らかになったとして、天皇の存在意義が失われるのかと言えば、その答えは断じてNoだからです。ここに既に人類学的な学問の限界が見えています。つまり、天皇の血筋に複雑な交雑が見られたとしても、それは所詮は血筋の問題でしかなく、私のようにアカデミックの外部で活動する人々にとって、このことはかなり知られた一般的な説として共有されています。同時に、そうして系譜の交わりが明らかになれば、「純粋な日本人」なる虚像は消失しますから、必然的に日本人という規定に動揺が生まれます。つまり、そのような科学的根拠を待つまでもなく、この虚像が共同幻想によって構築されていることは自明だということです。私は来週末に自らの遺伝子の全貌を解析し、夏頃からその解析データを踏まえて起源の探究に入りますが、それは幻想考究への自覚を前提にして行われるものだということであり、そのモデルを示したいからです。
しかし、実は考古学や人類学に頼らずとも、別の方法から邪馬台国の所在を思案することができます。そしてその鍵は、まさに日本側の倭人と呼ばれた集団の限定性同様に、中国側で移り変わる王朝の転移によって明確になります。つまり、現在知られる魏志倭人伝は、魏の使者の情報をベースに後に晋の陳寿が3世紀末頃に編纂したものですが、これが中国側で王朝が変わる過程で誤訳・誤植が生まれて混乱していき、やがてその混乱した魏志倭人伝が輸入される形で日本側へ入り、さらに日本側で誤訳・誤植によって形成されたという事実です。この混乱が象徴されているのが、前述の新井白石の邪馬台国読解です。既に日本側の初期に邪馬台国の所在が畿内か九州かが一人の学者の中で一変するようなことが起きていた事実は、まさにこの混乱の姿を示しています。だとすれば、この邪馬台国とは何なのか。そしてそれはどこにあったのか。次回はその辺りを考究していきます。