鬱が広がる時代にIn an Age When Depression Spreads
奇妙なことに、最近、私と友人の周囲で鬱病に陥る人が続出しています。これまでの世界で活発に活動していた人々が反転するように鬱病になり、生活自体が困難になっています。こうした姿に直面する中で、反転する世界への思索を続けてきたのですが、その光景は、まるで見えない力によって一気に淘汰が始まったことの合図に見えます。一体、これは何なのか?それを世界のルール変更と、それを象徴している時間の変質から読み解いていきます。
まず大前提として、既に私たちが信じてきた世界におけるあらゆるルールが変わりました。これまで信じてきた世界に基づくルールが変われば、当然ながら、かつての世界を信じて生きてきた人々にとっては、時代と自己が乖離する苦痛を感じるはずです。思うに、旧世界のルールでは人間が主体化されていたがために、主体を伴う個人が物事を決定し、その集合次元での決定を伴う順序を踏むことによって、世界をより良くするという理念を模った幻想が強く機能していました。実際、これは旧世界の範疇では汎用的に通用したルールであり、国際的な普遍性としても語られるルールの鉄則でした。しかし、もしもそれ自体が虚構だったとすれば、どう思うでしょうか。ここで主体という既に語られ尽くしたように錯誤されている厄介な概念が浮上します。
私は日本語の文化圏で生まれ育った人間ですから、言語世界の観点から、この旧世界の主体へ依存するリスクはありません。言い換えれば、旧世界的な主体に固執する必要性はないのです。なぜならば、その主体と私の個人存在はイコールではないからです。その視点から見た時、興味深いことが見えてきます。それは「主体が時代を変える」という幻想が、明らかに旧世界的ルールであって、そのルールブックにおいては正しいものの、既に新世界的ルールに移行した現在では、かつてのルールブックは破棄しなければならない段階に達していることです。この新世界と旧世界のルール変更には、表面的に多く語り得る次元がありますが、忘れてはならないのは主体概念それ自体の変質です。つまり、徹底的に自覚することとしては、既に私たちが信じてきた主体概念は変質しているということです。
時代の変化という観点から見て、思いつく限りでの大きな次元を考えれば、2020年12月22日に水瓶座で木星と土星が重なったグレートコンジャンクションが起点に考えられます。これは「火・地・風・水」の4大エレメントが約200-240年ごとに移動する現象で、主にスピリチュアリズムの文脈で活発に語られるものです。この日を境に、時代は「地の時代」から「風の時代」へ移行しています。旧世界を仮に「地の世界」とするならば、過去200年の特徴は、物質、金銭、土地、権威、安定、組織などの所有することを特徴とした時代であり、近代の意味での主体を持つ時代でした。
しかし、新世界が「風の世界」であるならば、次の200年の特徴は、情報、知性、体験、人脈、移動、シェアであり、そこにおいて旧世界的な主体の強度は容赦なく無化されます。この辺りの時代性質は様々に語られていますが、要点は主体の捉え方が完全に変わったことの決定的瞬間を、私たち全員が既に超えているということの理解です。つまり、旧世界的な「地の主体」に対して、新世界的な「風の主体」として生きることができるかが全ての人々に問われているのですが、おそらく同じ主体という言葉であっても、両者は全く位相が異なる別の存在だと考える必要があります。ここで問題は地の主体を真理や普遍と見做してしまう錯合を、未だに引き摺ってしまうことです。この時、そうした主体を前提にする人々は、時代によって容赦なく淘汰されます。個人的にも、これまで感じてきた主体という考え方への違和感は、まさに過去の地の主体に対する違和感であることが見えつつありますが、この主体概念は風の主体とは異なります。
さらに、この200年程度の周期を持つ風の時代の突入と共に、より大きな時間軸での時代変化が起きています。それが水瓶座の時代です。こちらは約2,160年ごとに切り替わる大きな時代の変化であり、地球の地軸の傾きを表す歳差運動によって春分点がどの星座にあるかで決まるものです。これまでの約2000年間は魚座の時代であり、その特徴は支配、宗教、献身、境界線の曖昧さ、自己犠牲、信じることなどでしたが、一方で水瓶座の時代の特徴は科学、理性、自由、平等、博愛、独創性などとされています。水瓶座の時代における特徴は、一見するだけでは既に展開されていたように見えるでしょうが、その内部に共存する風の時代の特徴を踏まえると、一人ひとりの個人存在が自立した上で、全体と調和する世界観を表している姿が見えてきます。
そして本格的に風の時代に突入したのは、2024年11月20日に破壊と再生の星である冥王星が完全に水瓶座へ移行したことを契機とします。つまり、私たち全員が2025年に経験したあの目紛しい世界の変動は、まさに風の時代が始まった転換点だったのです。ゆえに、誰もが良い悪いなどの価値判断を一旦脇に置き、冷静に時代のルールが完全に変わった事実を理解することを軸に据えなければなりません。なぜならば、良い悪いなどの価値判断、或いは拒絶感などに至るまでの諸々は、かつての時代のルールに基づいているからです。歴史を鑑みれば自明な通り、時代のルール変更はその時代を生きる人々に対して容赦なく迫ってきます。前述の観点を繰り返すと、主体が時代を変革できると信じることは旧世界のルールであって、それは地の主体の特徴だということです。時代が地から風に変わった以上、もはやそのルールブックを持ち続けて生きようとすること自体が、大きなリスクを抱えていると見做すべきです。
私は最も親しい友人と共に、この風の時代へ変化する前後から、毎年どのように変わったかを話し合っており、6年程度をかけてこの時代変化を詳細に観察し続けてきました。その感覚から言えば、2024年までは時代の変化についていくことのできない人々のフェードアウトは緩やかに起きていましたが、2025年が始まると、突然雪崩が起きたような現象に変わりました。そして本格的にルールが変わった2025年の動乱と共に、一挙に淘汰の速度が加速し、容赦なくあらゆる人々を飲み込み始めています。こうして、それまで周囲で活発に活動していた人々が、反転して時代についていけなくなり、一斉に鬱病に陥っているのが現在と言えます。これは視方を変えれば、彼らの活発な活動は旧世界のルールに適合していたからです。
冷静に見ればおそろしい時代に思えますが、詳細に時代を観察してきた私や友人にとっては、起こるべくして起きた現象です。この時代変化に対する選別閾は、一貫して準備していたか否かに据えられるとまで考えています。私の場合、巨大地震や火山噴火の複合的リスクを世界で一番抱える日本に暮らす感覚から、こうした微細な変化にはかなり敏感であり、準備の徹底と都度の調整を日々為しています。これは日本で生存しようとする場合、戦争のリスク以上に、巨大地震や火山噴火は「いつ起きてもおかしくない」からで、それが今この瞬間に起きる可能性を現実に有しているからです。生き残るためには、自然の微細な変化に敏感になるように、時代の微細な変化にも敏感でなければなりませんが、新たな時代が始まったばかりであるにも関わらず、これほどの影響が広範囲に出ているのですから、今年も相当な変動が起きることは自明です。
ではなぜ、旧世界のルールでは意気揚々と生きることのできた人々が、突然、こうした鬱病になり、もはや再起不能な状態に陥っているのか。個人的に彼らを見ていて感じることは、時間の概念が変わったことに気付いていないことです。特に時間における「順序(Order)」と「完備(Completeness)」の側面から読解すると理解が進みます。順序とは流れとしての時間を表しており、通常私たちが意識する時間のことです。過去から現在、未来へと一直線に流れると信じられる時間のことですが、実はこれは多くの人々が考えるような普遍ではありません。順序という意識される時間概念には、原因と結果が前提されており、それを前提に資本主義では右肩上がりの幻想なども配備される扱いやすさを特徴に持ちますが、実はこの時間概念はコプラ構造を有する言語圏に固有の概念であり、人類の普遍的時間ではありません。コプラ構造を持つことは、必然的に「主語ーコプラー述語」を前提とし、そこにおいて主体の存在が必然化されます。
ただ近代に限定するならば、この時間意識における順序が国家・社会に配備されて高度に機能した明確な実績を持っています。ゆえに近代化という儀式を通過した人々は、必然的にこの時間概念を成功体験に持っており、また社会への生存の観点から領有しているのですが、実はルールが変わった現在では重荷になり始めていることに気付いていません。つまり、ルールが変わったことによって変質が起きているのは、時間だということです。
ここで重要となるもう一つの時間概念が、完備です。これは「過去→現在→未来」という順序の時間ではなく、そうした区別が無化された「ひとまとまりの全体」として存在する時間状態であり、空間化された時間のことです。これ自体は特殊なことではなく、誰もが夢を見ている時や強烈な記憶を思い出す時などに経験する時間です。この時間では、昔のことが今ここにあるように疑うことなく感じられ、この時間意識を持つ人間にとっては、順序が持つ出来事の前後関係よりも、その世界が閉じて完成していることの方が重要となります。
一般に正常と考えられる人々であれば、順序の時間に重要性を据えて生きることへ何の疑いも挟まないため、仮に完備の時間が現れても、一時的現象に留めることができます。しかし、中には順序よりもこの完備の時間を絶対化する人々がいます。多くの人々が考える意味での正常な状態であれば、昨日のことと今日のことを混同しないでしょうが、これは順序が支配的な時間を前提しているからです。ゆえに、こうした人々が社会を構築するため、必然的に社会次元の時間は、順序に基づいて構築されます。ただし、この視方も近代特有であり、視方を変えれば、国家の共同幻想が樹立・存続するために、この時間を社会に配備してそこに取り込まれた人々に移植した状態だったと言えます。
すると、完備の時間が支配的である人々にとっては、この時間を構造化している社会は苦痛でしかありません。なぜならば、彼らのように完備された時間に生きる人々には、独自のルールが存在し、そこで時間は順序よりもイメージの完備の方を優先するからです。
重要なことは、人間の意識は時間を上述した一方だけ有しているのではなく、実は順序として時系列に処理する機能と、時間を空間化する完備の機能を共に持ち合わせている事実です。その二つの時間の均衡の破綻や乖離によって、現実認識や幻想としての芸術・宗教・狂気が発生します。すると真の問題は、この時間が本来持つ性格を無視して、近代世界が順序だけを絶対化してきたことにあることが見えてきます。これは近代世界が効率化の実現のためには、リニアな時間の配備が必要不可欠であり、永遠の右肩上がりという幻想が必要不可欠だったからですが、この過程で完備といういつでも取り出せる永遠の時間が破棄されていることが重大なのです。
しかし、如何に完備の時間が破棄されようとも、それは決して消滅することはない。この当然のことを棄却してなかったことにするのが近代世界のルールですが、現在、このルールが通用しなくなったことで反転を始めています。特にこの棄却過程では、順序によって構築された社会に適応できず、離脱する人々が一定数発生します。一概には言えませんが、大抵こうした人々は、完備の時間の比重を強く有していると言えます。私もその一人です。個人的体験からも、この順序を配備した社会などの共同の時間と、順序よりも完備の時間に重点を据える個人の時間の位相の裂け目に、人生を通じて強烈な苦痛を抱えてきました。
日本社会は、この順序が細部にまで組み込まれて徹底されている異質な世界ですが、私は人生で一度もこの異質な時間に対応できたことがありません。この社会における順序の時間を叩き込むために各地に存在する象徴が学校教育です。特に日本の学校教育は、周囲に合わせることを絶対的規範とし、集団行動からの逸脱は禁止されますから、この期間で順序の時間を領有した子供は必然的に社会の模範となり、ソーシャルエージェントとして共同体に対して個人を消滅させます。これこそが自殺だと若い頃から考えていた反抗的な私は、とにかく学校では問題行動ばかり起こす厄介な子供でしたが、今になって思えば、社会規範を叩き込む空間である学校教育の密室性、さらにはその異常性に、個体として対応することを許容できなかったからだと言えます。多分、この反抗精神は今も変わっていないどころか、年々日本の衰退と共に高まっていると感じています。
これらを基本前提にした時、興味深い事実が私には見えてきました。それは2025年にルールが一変した影響によって、完備の時間に重心を置く人々が優位になったということです。そしてこの現象と同時に、これまで順序の時間に支配されて社会生活を営んでいた多数の人々は、雪崩が起きたように離脱し始めています。ここは二元論で語るものではありませんが、傾向としてそうした事態が既に起きている。さらにここが厄介な点ですが、実は2025年から起きていることは、この完備の時間に重心を置く人々の中での分断が起きたことなのです。
完備の時間を重視する人々は、心の中にイメージや幻想を作り出す能力に長けています。そしてその能力は、旧世界では実用性がないと判断されて棄却されるものでした。空想や妄想や理想と言われた類がここに相当します。社会は近代的性格としての順序の絶対化を時間に配備し、それを普遍だと偽装しますから、当然ながら完備の時間に生きる人々の素質は破棄されなければなりません。それは非効率であり、社会にとって実用的ではなかったからです。なぜならば、順序が持つ流れを止めて、その瞬間を永遠、或いは一つの作品のように固定しようとする行為は、順序が支配する時間によって構築されている全ての社会活動にとっては、邪魔でしかないからです。
しかし、2025年以降のルール変更は、これらの世界を一変させています。実際、私たちが2025年に顕著に経験したように、技術的革新は既に社会を広範囲に設計し直しており、あらゆる領域が特定技術を前提とする構造に変質しました。大きく見れば、ドローンやAIや無人化やセンサーのような諸技術は20世紀から長い順序の時間によって形成された技術ですが、これらが社会構造の基幹部分を占める侵食を実現したことにより、戦争の仕方は変わり、働き方は変わり、生活は変わり、人間関係は変わるなど、次々と旧世界の価値観を容赦なく変質させました。重大なことは、20世紀の順序の時間によって形成された現代の諸技術が、人間が意識する順序の時間という軸に対して極限まで圧縮を遂げた時、順序の時間という社会、或いは世界を構築してきた順序の時間が変質したのです。これは順序の時間という構造自体は変わらないが、極限まで順序という特徴が感知されなくなるまでに圧縮されたことを表します。
ここで人間が意識する順序の時間と、技術が意識する順序の時間が完全に決裂します。ここに対して現代の諸技術に一種の拒絶が人間の意識側から現れることは必然ですが、技術史を鑑みてもこうした拒絶はやがて完全に無化されます。今、私たちが共通して使用しているパーソナルコンピュータ、インターネット、ソーシャルメディア、スマートフォン、LCC、オーバーツーリズムなどに至るまで、全て同質の問題位置にありましたが、たった数年で人々が順応していることが何よりの証拠です。今はまだ多くの人に抵抗感があるでしょうが、冒頭で書いたように感情や信念の観点を一旦脇に置き、冷静にこの時間の変質という観点を見極める必要があるはずです。
最近、吉本隆明の共同幻想論からの着想を様々に展開している根拠は、まさにここにあります。それは共同幻想にとって重要なことは人間の個体を生存させることではないことが、最初から前提されているからです。共同幻想の生存にとって人間存在が重要だった期間は既に終わりを迎えており、社会・国家・世界などの共同幻想の生存観点は既に人間から諸技術へ転移しています。これは順序の時間が普遍ではないからであり、近代における普遍とされた順序の時間など、所詮は近代化を通過した人間の主体による意識次元の限定性しか持たなかったことを暴いています。この時、共同幻想側にとっては極限まで圧縮された高速で大量に情報生成を展開する技術を優先しますから、必然的に人間存在は不要となります。ただし、ここで重要な点は、人間なる概念自体も変質したということを掴み取ることです。
現在の社会的淘汰の観点から見た場合、ここで淘汰されているのはソーシャルエージェントです。彼らは、かつての順序の時間という学校教育から社会生活までに通用した古い能力を獲得している優秀な個体のことを指示します。優秀というのは、順序の時間というルールを守ることに対して優秀だということでしかなく、もはやそれはルールが代わった以上は不要となります。つまり、ここで最低限理解できることは、順序の時間が極限まで圧縮されたことによるルール変更があり、そこにおいて劇的な社会からの淘汰が始まっている事実です。各企業の大量解雇などは、その典型的事実です。なぜならば、社会の求める真理である効率化に極限まで特化する場合、最も非効率なのは人間と価値判断されるからです。ここがルール変更の要です。
もう一つの側面は、完備の時間を重視する人間の分断現象として現れています。これは社会の順序の時間が極限に圧縮された新ルールに適応可能性を高く持ってはいるのですが、言うまでもなく、完備の時間におけるイメージはイメージで留まっている限りでは何の価値も生みません。つまり、基本的な社会ルールは変わっていませんが、だからと言って、人間が順序の時間から完備の時間に転移すれば良いという単純な話ではない。大前提に完備の時間に重点を置く人々であっても、この圧縮された超高速・大量生成の順序の時間のルールを被るからです。これはイメージを形にするまでに、どれだけの時間を掛けるかという旧世界で重視されていた作品の制作ルールが完全に無化されたことを意味しており、イメージを形にする工程を極限まで圧縮する制作者の新たな態度が必要とされていることを表します。
既存のアーティストやクリエイターから諸技術への反発が高まっている背景には、この完備の時間側にまで順序の時間が侵食している事態への拒絶が絡んでいます。なぜならばこの時間現象が引き起こしている事態は、広義の意味でのクリエイターが完全な無産階級に没落する事実だからです。実際、私は現在の時点でクリエイターと肩書きを名乗っている人々は、如何に現状有名であっても、おそらく数年後には消えているだろうと見ています。それはこれまで非クリエイターだった人々に淘汰されることを意味します。
この完備の時間に重点を置く人々が、完備の時間の世界に生まれるイメージの次元に停滞することも、もはや現在では通用せず、私の感覚ではここに停滞している人々が鬱病に陥っているように見えます。なぜならば、彼らは完備の時間のイメージを持つことはできても、順序の時間側の圧縮された技術的工程を駆使する能力を持っていないため、ルール変更に対して適応不能となっているからです。一方で完備の世界に次々と生まれるイメージをイメージのまま放置せず、順序の時間側の圧縮された技術的工程を積極的に活用する技術を獲得した人々の速度は、もはや旧世界の人間が持っていた時間意識では理解できない高速性・大量性を同時に実現します。これがルール変更に適応した人々ですが、この差は年々劇的に広がり、あと1-2年で絶対に追いつくことのできない分断となります。
今回は時間の観点から時代のルール変更について書きました。私が常に思うことは、現代の諸問題で感情論に陥らないことと、そうした感情や価値判断を一旦脇に置き、冷静に何が変わったのかを大きな視点から見極めることです。そうしなければ、必ずシニフィエへの批判に停滞してしまい、先に進む力をどんどん失います。今はまだ初動であるため余裕を持っていられても、数年後には行き詰まります。それが歴史の教えですが、この考え方こそ、真に生き残るために獲得しなければならない新時代の精神なのかもしれません。