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旧約聖書 1The Old Testament, Part 1

自然から人間が疎外された時に切り捨てられた残骸を総称して「無意識」と呼ぶと仮定しよう。すると私たちが普段、特に考えずに知っていると思い込んでいる「世界の実像」は、どのような姿として見えてくるだろうか。或いは、その時にあっても既存の世界の実像は維持できるだろうか。視点を移せば、無意識の姿について今よりも理解を深める段階に達した場合、どのようなインパクトが私たちの存在に対して起きるのかということを考えたい。

なぜならば、この問いへ答えることは、医療分野のサイケデリックの潮流が高まる中、私たち一人ひとりにとって避けて通ることのできない重大な存在の本質への接近に思えるからです。特に、私はサイケデリックの解明し切れない世界は、西洋と東洋という分離を消失させて、一致団結して協力しながら挑まなければならない最後の領域だと考えており、それができない以上、常にこの種の世界は仮説の域を脱し得ないことになります。ただこの時、西洋と東洋では究明するアプローチが異なるだろうということは察しがつきます。例えば、科学的に斬り込む西洋的アプローチと、精神的に斬り込む東洋的アプローチという具合。これらを如何に統合するかが問題なのではなく、渾融させる今までにない高度な技術が要されるでしょう。渾融とは混乱を招くものではなく、渾融の中に確かな識別を生み出す新時代の技術です。そこで大きく見るならば、問題は意識と無意識と位置付けることができます。つまり、意識的に先端の科学技術を駆使して未知の領域に挑む西洋的アプローチと、無意識的に古来の精神的叡智を駆使して未知の領域に挑む東洋的アプローチです。

まず、こうした場合の考究には前提が共有されるべきです。それを私は、人間の意識が生まれた契機には、自然からの疎外という起源的な出来事があったことに据えます。この前提を軸に、自然からの疎外が意識の生まれた原初的な起源だと抉り取った時、そこにサイケデリックによる「あの世界」としか言い得ない姿が高速で脳裏に過ります。いわば、自然から人間が原初的に疎外された時、意識は自然と存在において引き裂かれた緊張関係の空隙に生じるものなのですが、この空隙には何もないのではなく、初めから充溢しています。つまり、意識とは疎外によって引き剥がされた存在の不安を埋めるために生まれたものと言えます。なぜならば、この時に引き剥がされた空隙には何もないのではなく、何かが充溢しており、それが原初の人間存在にとっての不安として翻訳されたからです。それ以降、人間はこの不安を覆い隠すために歴史を形成していきました。サイケデリックの究明は、まさにこの「何かが充溢している」ことへの接近とイコールになります。

ただし、幻想の問題はそのような簡易なものではない。仮に今述べたことが妥当ならば、原初の疎外において生じた意識の起源は、個人の内的問題として固有に起きたことになり、それは個人幻想として生まれ出るものとなるはずです。ですが、実際の事情は異なります。現在の人類が80億人を超えてもなお、この意識の発現に関しては共通して起きている確たる事実を考慮すると、どこかの時点で共同的にここで語っている意味での疎外と、それに対する応答が起きた可能性の方が高く見えるからです。それが特定の個体から派生したのか、あるいは集団で起きたのか、地球規模で一斉に起きたのかは誰も解明できません。Terence McKennaの提唱したThe Stoned Ape Theoryも大変好奇心を惹き付けられますが、あくまでも好奇心程度に止めるべきです。少なくとも私たちに言える確かなことは、仮に人間が集団規模で一斉にこの意識を同時期に獲得したならば、それは共同幻想から生まれたのではないかと自信なく言える程度に過ぎません。先に批判しておくと、ここで人間にとっての幻想形態として個人幻想と共同幻想のどちらが先かを問うことは、近代以降の態度であって全く無意味です。むしろこの時期には個人/共同の未分化によって、幻想も未分化で渾融していたと捉えた方が正確です。この未分化な姿を積極的に語ってきたのは科学ではなく宗教ですが、逆に言えば、宗教が語ってきた初源をこの観点から考察すれば、その起源のヒントが浮上するかもしれません。

その中でも、個人的に興味深いのは旧約聖書の神話です。まず、創世記において神が自然や動植物を創造したのは、生命の循環の長大なサイクルを抽象的に語ったものであり、ここはあらゆる神話の共通項と言えます。その後に男女が創造されますが、この段階は幻想が未分化で渾融としており、意識によって識別され得るものではないため名前はありません。ただ後にアダムが造られた時、ここで神の形を模して人間を創造したとありますが、これは土地の塵で形造られたことからも分かる通り、自然存在の原理を継承した身体だということです。実際には肉体としての身体を語っているのではなく、心的な幻想としての身体について語ったものですが、重要なことは既に場所という観点が浮上していることです。つまり、形体において自然と人間は引き裂かれていません。ここで同時に鼻に命の息が吹き込まれたとなっているのは、これ自体が意識を指示しているものではないものの、意識が生まれる起源となった疎外の一息を表しています。ここで誕生したアダムを神はエデンの園に置いて管理させていますが、これは共同幻想の起源的な世界の提示であり、同時に共同幻想が自然世界のように無限ではないことを語っています。つまり、ここでアダムは自然からは疎外されていますが、その疎外強度は原初的なものであるため、アダム自身はまだ人間存在と言い得る意識を獲得しておらず、未分化ながらも変様する起源的な位置に置かれています。ゆえに、この時点では神の統率化に在り、神なる特定の共同幻想の作用によって働いています。

この説話の要点は、物質的に自然と人間が疎外されたのではなく、それが幻想において最初に起きたと伝えていることです。さらに神は全ての動物を創造してアダムのもとへ連れてきて、人間がそれらにどのような名前をつけるかを見たという記述がありますが、これは人間の心的な状態において、自然から疎外された淵を自覚させる行為であり、その淵という充溢した不安を埋めるための意識が止めどなく溢れてくることの起源を語っています。なぜならば、人間の意識はこの不安を覆い隠すために、言葉などの装飾を生み出したからです。人間が動物に付けた名前が全てその動物の名前になったと言うのは、まさにこの出来事以前に、人間が自然存在とほぼ同化していたことを示しています。ここで幻想領域の疎外によって淵が裂け、その淵を自覚的に把握していくために、対象を名前によって措定する初期的な技術を意識において人間が獲得したということです。ただし見逃してはならないことは、ここで起きていることは神とアダム、そして自然とエデンの園の関係に典型ですが、あくまでも原始の「共同幻想と個人幻想」の位相の問題に置かれているということです。最近Shitsuraeで語っているように、近代では「共同幻想と個人幻想は逆立する」原理を有していますが、このアダムの次元では、未分化からの裂け目が生まれる初期的な瞬間を伝えていることが分かります。つまり、逆立はしていないが、幻想においては神がアダムであり、アダムが神であるということとほぼイコールの関係になっているということです。共同幻想と個人幻想がこうした関係に置かれるのは、最も起源の幻想様態と言えます。

ですが、神として表れている自然存在の幻想における原初の疎外から、人間の意識が逸脱するためにはこれだけでは不十分です。この時点で人間の意識は、海に起きた一つの波頭でしかないからです。ですが、この時にアダムに相応しいパートナーが見つからないということで、神がアダムを眠らせて肋骨からイブを造ります。これも肉体の話をしているのではなく、アダムに発現した個人幻想の萌芽がイブに伝播したということです。ややこしいのですが、この時点での神は共同幻想と言い得ますが、幻想それ自体の未分化な渾融を示しています。つまりこの時、イブは人間としての生命が芽生えたわけであって、男女のどちらが先かを語るような近代的問題に紐づけられるイデオロギーではありません。そして人間が他の動物と決定的に違うのは、ここでアダムーイブが互いの個人幻想同士を紐帯する対幻想を創造したことにおいて顕著です。アダムーイブの対幻想が創造された時、それまで父母の幻想に閉じ込められていた男女は、独自に対幻想を紐帯して自立へ向かったということです。ただしこの時点では、まだ個人幻想の自覚は未熟で、幻想も渾融が強いことに変わりはありません。ゆえに、ここでは裸であっても恥ずかしがることはないのです。未だ共同体の利害が個人に介入していることの意識が感知されるほどには持たれていないからです。

この段階で人間は高度な意識を獲得しています。無論、これは歴史的に実在した個体としてのアダムとイブの一生について語ったのではなく、想像できないほど長大な歳月で起きた心的な幻想の動きを圧縮し、対幻想の出現の起源をアダムーイブに仮託して形成したものです。観点を変えれば、人間の対関係による対幻想の創造が、幻想の未分化で混淆とした状態から識別される原初の動きが起きたということになります。つまり、幻想が「個人幻想/対幻想/共同幻想」と現在のように分離して識別できる起源となったのは、対幻想側の創出にあるということです。逆に言えば、上述した共同幻想と個人幻想の幻想は、対幻想の創造によって裂けたということです。ここにはとてつもない歴史の圧縮が起きています。そして、この点が非常に重要です。実際、日本神話の冒頭でも原初の神として登場するアメノミナカヌシという幻想の渾融した未分化な神の次には、タカミムスヒとカムムスヒの対関係の「ムスヒ」という日本の紐帯を表す神の登場が語られます。これら神話が伝えているのは、人間存在が動植物に対して特殊と言えるのは、対幻想の紐帯にあると言うことです。ただし、この実現までにはおそらく数万年、あるいは数十万年もの期間を要したことが想定されますが、同時にこれは右肩上がりの線形として獲得されたものではなく、ある時点での唐突あるいは偶発的な獲得とも言い得ます。ここではダーウィンの進化論は棄却されます。

ここでアダムとイブが管理を任されたエデンの園とは、原始に起きた疎外によって現れた淵を、人間が直視しないで済むように神が用意した安全圏のことです。これは共同幻想の起源を語ったものですが、個体は共同幻想側に個人幻想を委譲すれば、自分自身の意志で現実の不安を直視せずに、安全圏で生きていけることは今も昔も同じです。エデンの園で暮らすアダムーイブの次元では、既に自然からの疎外は起きていますが、二人に象徴されている対幻想の力が純度を高く保持していることから、共同幻想自体が意識によって検出されない未分化な状態に置かれたままとなっています。これは人間が意識を獲得した原初の幻想が未分化だった時代において、対幻想の方が強く、共同幻想と呼び得るようなものがなかったことを示しています。実際、狩猟採集民を考えれば分かるのですが、彼らは家族単位で常に移動しますから、固着した共同体の利害に悩む必要はなく、それは父母の対幻想自体が共同幻想に転移している様態で移動可能です。ただし、これは定住する人々にとっての共同幻想と呼び得るものではない。つまり、狩猟採集民の意識の原型は対幻想と共同幻想がイコールと言えるまでに渾融している姿にあると言え、定住民はこれでは農耕を基礎とする生活共同体を実現できなかったということです。だとすれば、旧約聖書で神が最初に設定されていることは何を表しているのか。

この指摘から推察できると思いますが、神が共同幻想として最初に登場する旧約聖書の本義のトリックは、後代に遡及的にこれらの説話が編纂されたからです。この神話の編成方法は、全ての神話に共通しています。これは旧約聖書が編纂される時代に生きた編纂者の意識が、共同幻想と対幻想が未分化の強度から分離傾向へ転移した亀裂の時期を生きたことの反映であって、この時点では既に共同幻想が生活共同体の意識として把捉されています。ゆえに彼らにとっては共同幻想の扱いが問題であったため、創世記の最初の時点で共同幻想があったかのように解釈して配備されたのですが、アダムーイブに象徴される原初の人間にとっての世界は、対幻想側にあります。ですが、編纂時代は既に文字や文書という高度な共同体の技術を獲得しています。そのため、原初以来の対幻想に強度を持ち続けていると、個体が生存に対応できない事態に陥るため、個体の個人幻想を対幻想側から共同幻想側へ積極的に転移し始めたのです。この段階では、共同幻想と対幻想は両立していますが、既に原初の渾融とは同一視できず、近代に結びつく決定的な瞬間だったと言えます。

また、神によって設計されたエデンの園には一つの特徴があります。それは神話は意識と無意識を識別する長大な人類史の序章を語っていることからも見えてきます。端的に言えば、意識が人間において内的に自覚される強度を高めた時、はじめて無意識が自覚されるということです。これは意識自体を個体が自覚的に意識できなければ、当然ながら無意識を把捉することはできないからですが、この問題は多数の宗教家が歴史的に論じてきたことからも自明です。ただし、意識と無意識の各々の識別強度が分離したのは近代であり、それ以前はこれらは未分化な状態を維持しています。ゆえに、意識と無意識の弁別が分離していない時代に編纂された創世記における無意識の姿は、自然それ自体である広大無辺の状態からは既に逸脱しているものの、意識を有した当時の人間の理解が及ぶ範疇にまで矮小化されています。このことは、エデンの園には人間に意識にとっての外部があったことを示しています。これが創世記の示唆する最も興味深いことです。なぜならば、神として表れる共同幻想は、男女の対幻想が紐帯された時、共同幻想に留めておくことができないことを示唆しているからです。創世記から抽出できることは、アダム単独として表れている個人幻想の次元であれば、共同幻想に逆立させることができるため、個体の意志はエデンの園に幽閉する限りで神の思うままになるが、アダムとイブという個人幻想と個人幻想の紐帯による対幻想が生じると、共同幻想の意志に人間が従属しなくなるということです。共同幻想に対抗し得るのは対幻想だけだと、昨日の記事でも述べた本義に通じてきます。この叡智が創世記で語られていることは本当に面白く、対幻想の紐帯を取り戻すことしか近代を突破できないと考える私にとって、この問題は深刻です。逆に言えば、共同体の利害を形成しようとする古代の人々にとって、この共同幻想に対する対幻想の問題が、共同体維持のための深刻な事態になっていたということです。

なぜならば、アダムとイブがエデンの園に暮らしていた次元では幻想における「個人幻想/対幻想/共同幻想」は未分化な幻想でしたが、アダムーイブの対幻想の強度が高まる過程で、神の共同幻想が疎外される事態が生じたことを語っているからです。これはどの時代か不明であっても、ある時代の祖先集団にとってはとてつもない衝撃だったことを伝える太古の記憶です。なぜならば、この時に人間は対幻想の力によって共同幻想を消滅できることを、未熟な意識において知ったと言えるからです。この未熟な意識において太古の祖先が知ったことの記憶は、そのまま直接無意識に保存されるため、現在の私たちでもこの記憶にアクセスすることは可能です。つまり、人間の原初の記憶の一つとして私たちが回復すべきことは、対幻想の力は共同幻想を消滅できる光だということなのです。

ただし、これが神の逆鱗に触れます。この本義は、次回に詳細に見ていきます。