旧約聖書 2The Old Testament, Part 2
昨日の記事では、原初の人間における幻想の未分化な世界を旧約聖書の創世記をもとに洞察していきました。一体、全ての自然存在から疎外されたことによって誕生した「人間」とは何なのか。人類に残された深淵な問いに迫る時、私たちは巨大な虚構の内部でしか生きたことのない我を見失った存在であることを改めて知るのです。さて、早速続きに入っていきます。
まず、昨日の最後に示した神の逆鱗に触れたということの本義からです。これは対幻想が共同幻想を消滅することができる、或いは対峙し得る唯一の幻想だということの絶対的な真理が、ある時代の共同体の維持を破壊する最もラディカルな反逆だと映ったということです。今もアナキズムなどを人々が激しく嫌悪するのは、この古い共同体側の記憶を彷彿とするからであり、そこには共同の利害が作用しています。ここでの神の逆鱗は特定の共同体の逆鱗とも言えますが、これを象徴しているのがエデンの園に生えていた善悪を知る果実(forbidden fruit)です。
つまり、この禁断の果実とは共同幻想側からの初期的な禁制なのですが、この位相は編纂時代において、共同幻想に対して対幻想で生きようとする人々を抑止するための物語として遡及的に編成された新しいものです。この時点で、エデンの園は共同体の禁制が生まれる次元にまで共同意識が高まっていることが要点です。これは共同体の利害を共同意識で守り、自分たちの共同体と呼び得るものを永続しようとするならば、必ず対幻想を消滅、或いは抑止しない限りは不可能だと既に為政者側が自覚していたことを示唆しています。ゆえに、この説話自体の起源が古い伝承に基づくにせよ、これは原初人間の出来事を語ったのではなく、後代に文明が高まっていた時代に当時の共同体内部の人々に向けて再編集されたものです。このことから一つの創世記の神話には、複数の時代が渾融しながら配備されている非線形世界を有していることが見えてきます。ゆえに神話は特定の時代について語ったものではなく、ある時代に遡及的に時空を圧縮した姿が掴めます。だからこそ、神話を線形思考で読み解くことは無意味なのです。
禁断の果実は、個体の心に分離が芽生える原初的なズレを象徴したものですが、言い方を変えれば神からの疎外です。この場合に神は絶対的な善という人間の心の本質状態に転移しているのですが、何度か儒者・王陽明の思想に触れているように、この絶対的な善の状態こそが心だということです。しかし、その心の状態が動くことで分離が始まり、それによって善悪の識別が可能になったことを示しています。海に例えれば、海(善)に波頭(悪)が立つ姿となります。しかし、本質的にはそれは海(善)です。
重要なことは、人間が神を絶対視して奉祀する起源はどこにあるのかです。だからこそ「人間は神の形を模して創造された」となっています。このことは自然からの疎外という段階を原初の祖先が経験して以降、自然からの疎外によって裂けた淵を埋めるために、人間側の意識が神を創造したことを示します。ただし、この神は全てであり得ます。前述の通り、神話は遡及的に編成されるという性格を持ちますから、ここで設定されている神は共同幻想ですが、その起源には自然からの疎外によって生まれた人間の意識が、遥か後代になって「自然の霊妙な働き」を神として自覚した自然の生命循環を表すものとなっています。この時、人間の時間が自然の時間とがズレることが自覚されたのです。人間意識における神の発見には、必ずこの時間のズレが必要となります。
端的に言えば、一本の樹木の生命サイクルと、人間の生命サイクルが同化していると自覚されていた自然状態に在った段階から、このサイクルが一致していないことを意識において人間が知った瞬間です。これは特に、移動を前提とする狩猟採集民よりも、穀物栽培を主とする農耕民に顕著となりますが、両者の境界に立つ存在が人類史では無数に居たということです。なぜならば、四季に従って生育する穀物と、四季に従って生育し得ない人間の時間のズレは、彼らにとっては衝撃的な気付きになるからですが、その自覚には一定の観察が要されるため、定住生活がこの自覚を高める契機となります。この人間の時間と自然の時間が裂けた時、人間は生命の母体である自然の時間とのズレを調整するために、特定の時期になると執行する祭儀を生み出します。
この祭儀の起源は、生命の時間のズレを圧縮した形で展開されるものであり、ほぼ例外なく性的な祭儀を起源にしています。これはセクシュアルな問題という近代性とは全く無縁に、時間のズレを補填するために生み出されたものです。ゆえに創世記に描かれる神話の段階は、太古の狩猟採集民よりも、むしろ定住の農耕民に起きる現象を示しています。これがエデンの園の管理を任されたアダムの存在に抽出されています。つまり、アダムはエデンの園において特定の共同幻想のもとで太古の定住生活に発生した心の動きを追体験させられています。神が創造した動物に名前をつけ続けたのも、じっくりとした観察によって生まれてくるものです。これはエデンの園の管理が共同幻想への幽閉となっており、移動生活を基本にしていた人々には発生し難かった心の変異が生じた記憶です。
この時、裂けてしまった時間の差異を祭儀によって一時的にでも解消し、それによって自然と人間の同化している部分を留めようとするのですが、この裂け目の中において神を奉祀することが生活の重要な問題として自覚されていったのです。こうして「自然/神/人間」は、かつての渾融から逸脱し始めるのですが、特定の祭儀の期間にのみ、この共同体はエデンの園へと転移するということが古代の人々にとっては重要だったです。それが変性意識を伴うか否かよりも、古代祭儀では個人の問題ではなく共同体の問題として表れていることが肝心です。これは共同幻想と個人幻想の逆立ではなく、未分化であるがゆえに祭儀の変性状態においては共同体そのものに化すということです。
つまり、疎外によって引き裂かれてしまった淵を埋めることはできず、再びその淵を回復することはできない。ゆえに人間は、この現実の不安それ自体である痛ましい淵を隠蔽するために、言葉を生み出し、あらゆる装飾を生み出してきました。しかし、幾ら隠蔽しても裂け目が塞がることはなく、淵は広がり続けるばかりです。この人間と自然の距離が断絶に向かう運命的な過程に対して、人間は為す術がない。この格闘は内的問題として最も深刻になりますが、近代以降を生きる私たちにとって、この問題は絶望と言えるレベルで対処不可能です。なぜならば、この淵を隠蔽する技術に関しては近代が最も高度であり、あまりにも高度であるがゆえに、人間自身がこの淵が存在する事実自体を忘却してしまったからです。この淵を隠蔽するために共同体の利害からステータスを付与されているのが知識人です。
つまり、私たちにとっての本当の問題は、近代以前まで人類が隠蔽を試みながらも接触度合いを残していた「疎外の淵」が、近代以降に「なかったことにされてしまった」という事実を受容することなのです。しかし、これを受容して認めることは、同時に痛ましく生々しい現実それ自体を人類史における最大強度で一気に現出するという人間にとっては耐え難い世界の到来となります。ゆえに、如何なる集団次元であっても、この自覚に向かうことはありません。これだけは世界的タブーとして徹底されているという意味では、実は私たちが生きている現代も所詮は部族的社会でしかない。しかもこのタブーは、理念、法規制、憲法、イデオロギーなど諸々の禁制を大量生産し続ける近代的暴挙によって隠されているため、通常、この世界なる禁制によって実現されている位相の転移したエデンの園の正体は見破られることはありません。時にこの隠蔽に勘づく人物が現れても、大抵は社会的抹殺・排除されてしまいます。
前述の「自然/神/人間」という構図は自覚的に配置を組んだのですが、これは自然と人間の疎外の淵には神が非分離に存在することを示したかったからです。つまり、神とは人間にとって不可知で、どこかの天上世界に分離して自立存在する絶対者なのではなく、自然から疎外された人間にとって、自然からの完全な分離を抑止するための心的な最後の綱だったのです。これが日本の神話側で語られる「ムスヒ」の本義です。ゆえに分離において神から人間へ向かうベクトルという発明は、実は近代の人間が創造した虚構でしかない。この視座を遡及的に神話に持ってきてしまうと、必ず理解が転倒することには注意が要されます。ここまでを概括すれば、もしや私たちは理想世界として描かれるエデンの園に、既に存在しているのではないかという疑念が生じることは妥当です。
ここで重要となるのが、エデンの園の禁断の果実を食べることを唆した蛇です。西洋で蛇は悪や禁忌される象徴的動物として見られがちですが、一方の日本側ではその視方は反転し、蛇は神の使いとして神話に度々登場し、今も各地で信仰されています。実際、私も神社の境内などで蛇を見かけた時、誰に言われるまでもなく礼拝する行為が身についています。このことは旧約聖書の編纂が、既に善悪概念のかなり発達していた人々の手によって行われた影響ですが、視方を変えれば、この蛇はエデンの園という安全圏の外部から現れた異族です。この意味での異族とは、私たちが想起するような野蛮な存在ではなく、異なる幻想様態を持つ集団のことです。これは日本の民俗学で折口信夫が「まれびと」として語った異質で異形の神ですが、こうした外部の神は常に閉鎖された共同体に対して、新たな知恵をもたらす存在として語られます。そして神話に登場する動物の正体は、常に神話編纂時に覇権を握っていた勢力圏の人々の政治的力学に強く依存します。起源はその氏族系統の起源的な伝承に関わります。
ゆえに、大抵は本当に動物について語っているのではなく、旧勢力の起源を表す象徴に過ぎません。日本神話にも無数の動物が登場しますが、これらはほぼ例外なく実態として見る場合には縄文時代の部族を指しています。大きく見るならば、移動から定住へと向かっていた人々の閉鎖された共同体の幻想を有するアダムーイブの幻想世界に、突如外部から蛇に象徴される異族が現れて知恵をもたらしたということです。ここで先に蛇がイブ側と接触し、それからイブがアダム側と接触したというのは、エデンの園におけるアダムーイブの対幻想が共同次元になっていた世界に対して、イブ側が異族と幻想領域において性行為を行なったということです。この性行為は肉体の性交ではなく、神話の幻想領域において最重要となるものです。
日本神話で言えば、人類の始祖として描かれるイサナキとイサナミの対幻想から生まれる国や神の作業が、火神であるカグツチという子が生まれたことによってイサナミが火傷で病み伏せてしまい、そのまま黄泉国という異界に帰ってしまったことに語られています。これによって作業が止まってしまったのですが、これはイサナキーイサナミの対幻想がカグツチという異族によって切断されたということです。つまり、イサナミはカグツチ側の唆しによってイサナキーイサナミの対幻想を切断したため、そこにおいて展開されていた二人の共同行為が途絶えたということです。同じことがアダム、イブ、蛇の幻想関係で語られています。これはアダムーイブの共同では対幻想の強度を高く保持する幻想は既に獲得していますが、共同幻想の強度は未だ自覚されておらず、この共同幻想側の所在は神に帰属されたままとなっています。つまり、旧約聖書の編纂時代に、共同幻想は不可知で人間の理解が及ぶところではないと既に理解されていたということです。この時点で共同幻想は人智の及ばぬ独立した幻想だと捉えられていることは、現在の私たちに共同幻想が変革できない事実を露骨に伝えています。これはイサナキーイサナミの対幻想の関係では、Amatsukamiという共同幻想次元として神話に反映されています。
対幻想しか保持し得ない状態では、一向に共同の利害形成に意識は向かわないため、共同体の形成は不可となります。これは近松門左衛門の「心中(double suicide)」をモチーフに記事にしたように、対幻想は共同幻想の利害からは完全に無縁であり得るからです。ゆえに幻想の位相を変移させるためには、一旦このアダムーイブが形成した対幻想を消滅させなければならなくなったのですが、これはイサナキーイサナミの対幻想次元での共同体形成が、ある段階でうまくいかなくなったため、一度カグツチという異族側とイサナミと結びつけることによって、この二人の対幻想世界を解体したことと同義です。つまり、エデンの園の神が有する共同幻想とは異なる共同幻想を有する蛇なる外部からの神に対して、自らの共同幻想を未だ意識において持たないアダムーイブが抗えなかったということです。
この瞬間、人間の時間と自然の時間の差異への意識が、蛇を経由してアダムーイブに授けられたのですが、これが禁断の果実です。逆に言えば、蛇なる異族はこの差異をアダムーイブ以前に知っていたということです。重要なことは、たったこれだけのことでエデンの園の永遠と思われた共同幻想が呆気なく消滅したことですが、それだけ原初の共同幻想には自立する力がなかったということです。これは現在の不可知となって完全自立した共同幻想から見れば、考え難い状態に思えるでしょうが、人類史は人間の進化というよりも共同幻想の進化と言い得るかもしれません。ここで注意が要されるのは、この時に対幻想で紐帯されていたアダムーイブが外部に放り出されたということです。自分たちが裸であることを知り、それを恥ずかしく思ってイチジクの葉で腰を隠した説話と、神の来訪を恐れて神から隠れようとしたことの二つの説話は、神によって庇護された共同幻想が消滅したことで、ほぼ完全に未分化として共存していたアダムーイブの対幻想も消滅し、突如二人は個人幻想だけを露わに持つ個体として地上に立っていることを知ったということです。ゆえに、ここが人類の始まりだという位置付けになることは宗教では妥当です。つまり、アダムーイブの神話は、地球で最初に生まれた人間という個体についての記録なのではないということです。
禁断の果実を食べる前までの幻想は、共同幻想と対幻想が渾融しながら同致しており、明瞭に識別できる状態ではありません。この渾融状態を後代の旧約聖書の編纂者側から見て、共同幻想側を神と呼び、対幻想側をアダムーイブと区別したということです。しかし、禁断の果実を食べて以降、対幻想としてのアダムーイブは地上の人間の個体として神話では堕ちています。この原初のアダムとイブの経験によって、人間は「個人幻想/対幻想/共同幻想」の未分化な渾融から、徐々に分離へと向かう長大な歴史が始まったのです。だから、これが罪として捉えられたのですが、言い換えればこれが人間の歴史の始動です。つまり、人間の歴史は個体の能力によって始まったのではなく、幻想側の問題として始まったということです。この特質は如何に近代以降の私たちが主体や自我を獲得したと傲慢に自負したところで、抗えない真理です。
神話は一元的な読解を拒絶しますが、少なくとも創世記では共同幻想の意識的理解によって、意識を個人幻想に内化する人間の過程を見事に描いています。重要なのは、ここには共同幻想の絶対化を目指す旧約聖書の宗教組織的な態度が介入しているがために、対幻想という邪魔な紐帯は「敵」あるいは「悪魔」として消去されていることです。これは今もそうですが、宗教組織の繁栄にとって最も厄介な悪は対幻想です。宗教という巨大な物語の虚構に内化しなければ信徒獲得ができない教団にとって、この対幻想の紐帯ほど恐ろしいものはありません。宗教的戒律などは、典型的にこの対幻想を結ばせないための禁制に起源を持っています。その組織内部では歴史的に稀有な指導者が現れ、弟子との間に対幻想を紐帯する余地は残されていますが、それは常に限定的な影響に留まり、幻想としては共同次元での発展が絶対化されています。
ゆえに禁断の果実を食べて以降、男女はエデンの園を追放され、労働の苦しみと出産の苦しみが罪の報いとなり、死すべき者と設置されます。これも当然、この時点で労働、出産、死が人間に授けられたのではありません。これらは意識が生まれてから初めて自覚的に芽生えるものであり、意識以前には存在しない問題だからです。また労働と出産が男女各々に付与されているのも、宗教的意識において対幻想を紐帯させないためです。つまり、自然からの疎外が起こらない限り、人間には起き得ない問題が発生したのですが、中でも時間のズレへの意識が重大だったということです。なぜならば、自然の動植物が死すように、人間は死すことができないことへの不一致を知ったからです。逆に言えば、同様のことは人類史において無数に起きていたが、それまでは意識的にそれが自覚されたことはなかったということです。それまで意識において実際行為されていなかった労働、出産、そして死が意識の土台に登ったことが、人間にとって強烈な衝撃を与えたものだったことは容易に察しがつきます。なぜならば、この瞬間に死を考えざるを得ないという人間にとって絶対的限界を意識に内化してしまったからです。死は個体が何をどうやっても絶対に知り得ないものであり、体験できないものであり、考えても埒が明かないものであり、語っても何も言わないに等しい唯一のものと言えます。
これらを総合的に言えば、人間の共同体の意識が設置した罪とは、何もキリスト教的な原罪を持ち出さずとも、共同幻想を持たずに対幻想の紐帯によって生きることであると理解されていた古い事情が見えてきます。言い方を変えれば、宗教組織であろうが国家であろうが社会であろうが、この種の共同利害の維持にとっての最大の敵は、常に対幻想だという意識の徹底でもあるのです。これは今も貫徹されています。
事実、現在の世界において対幻想の消滅は異常な高度さを持って実現されており、共同幻想は世界と同一視されて完全に不可視となり、個体の個人幻想は共同幻想へ逆立して同致してしまい、既にシステムへの自己家畜化によって存在を見失っています。私は日常的に日本人の姿を見ていると、その現実に朦朧とするほどです。おそらく、一億人規模でここまで極端で高度に共同幻想の絶対的世界が実現された文明は、人類史上で日本以外にはありません。これは全く良い意味ではなく、個人が存在を失うことであり、対関係を結ぶことができない世界です。
そしてこの問題は、アイデンティティクライシス程度の生ぬるい問題で考えられるべきことではなく、存在それ自体を動揺させる最も深刻な事態として捉え返すべきです。この共同幻想の絶対化が、広範囲に生じている断絶をモチーフとする諸問題の根源に蠢いているのですが、これらは既に、旧約聖書の編纂時代から用意されていた到達すべき「共同体の理想」だったということです。たまに日本のシステムを礼賛する独裁思考を持つ為政者が居ますが、これは共同体の理想という絶対的なものへの賛美です。ただし、この種の禁忌が語られているということからは、対抗し得る姿も抽出できます。それは共同幻想をベースに共同利害の保持に生きようと試みた何かしらの文明が成立した時でさえ、まだ無数に対幻想をベースに生きる小規模な集団との接触が絶えず、また共同体内部からもそうした対幻想をベースに生きる人々が存在したという太古の時代の記憶を語っていることです。このことは、人類史上最も広範囲に歴史を知ることができる私たちにとっては自明なことですが、かつてはこれが共同体維持の死活問題に相当していたということです。そして私たちが本当に注視しなければならないのは、対幻想側の世界を持っていた人々の歴史ですが、ここが歴史では無視されてしまいます。
ここまで語ってきた問題を総合すると、現在の私たちにとってはかなり深刻で絶望的であることが見えてきます。なぜならば、「私たちは対幻想を取り戻すことが本当にできるのか」という唯一の問いが立ちはだかるからです。しかも単に対幻想を取り戻すだけでは、必ず共同幻想の利害と一致せず、ラディカルな行動に帰結するため、共同体からは抹殺・排斥される必然性を抱えています。ゆえに私たちの抱える厄介な問題は、対幻想を回復する何かしらの領域を実生活において創造し、対幻想をもって共同幻想を消滅させるのではなく、共同幻想の絶対化を抑止する力に高めていかなければならないということになります。これは私たちの世代だけで完遂されることではありませんが、少なくとも私たちの世代が重要なのは、誰もがこの転換点の淵に立っているからです。ここが現代に生きる全ての人が引き受ける責任です。この時、引き続き個人幻想を共同幻想側へ移譲する道を選ぶ者と、対幻想側へ転移する者が現れますが、これこそが次の選別だと私は考えています。
鍵は「たった一人を見ること」です。それ以外には何の真理もない。たった一人を見るために山積みの書籍を読む必要もなければ、何百時間もYoutubeの知識人の議論を見る必要もない。この対幻想の真理に関しては、誰から学ぶ必要もないものだからです。終わらない近代の突破口は際限なく議論されていますが、これ以外に基本はないはずです。たった一人を見ることのできる人々が各国で登場し、そして対幻想を紐帯する場所を文化的に創出する。この動きが唯一、もはや不可視となるまで肥大化した共同幻想に対抗する最後の力です。言い換えれば、仮に人類の中の僅か少数でもこの動きを果たせなければ、共同幻想という幻想の侵食によって人間なる個体は全滅するでしょう。もはや私たちは、集団を変えようとする時代を終えています。集団としての個体は既に共同幻想によって消滅させられているからです。