政治議論とファースト・カルトPolitical Debate and the First Cult
個人的にいつもアメリカ人が羨ましいと思うのは、単に私の世代が人口動態においてマジョリティを占めているゆえに、声が反映されやすいという安易な理由ではなく、政治議論がここまで活発な国はアメリカを除いて他にはないからです。特にアメリカは先進国の中では唯一、少子高齢化の人口動態に陥っておらず、2028年や2032年の選挙時には有権者のマジョリティがミレニアルズとGen Zに変わることからもわかるように、先進国の中では唯一若い世代を豊富に抱えており、世代交代が進んでいることも関わっているでしょう。もちろん心から国を想い、世界を想う人々にとって、現状には激しい苦痛があるでしょうが、この点に関して言うならば、日本に暮らす私は非常に羨ましく思うのです。
対照的に日本を眺めてみると、既に超高齢化社会に入って世代交代は完全失敗し、近い将来に日本人なる存在は絶滅するだろうと揶揄されるほど衰退の一途を辿っています。日本にも様々な事情があるものの、アメリカの政治議論の活発な社会を前提とすると、根本的に政治議論なるもの自体が存在しないことに改めて気付きます。いや、より正直に言えば、議論する気さえ起こらないほど政治が形式化し、「職業政治家」と呼ばれる人々が構成する政党・派閥と、一部の支持者のあいだで回っているからです。はっきり言えば、日本の政治に対して何かを議論することさえ、もはや完全に意義を失っており、政治を議論するために言葉を使うぐらいであれば、別の労力に回した方が良いと考えるのは、私に限らず多くの日本人が同意することだろうと思います。実際に私はShitsuraeでは殆ど現代の日本政治について書きませんが、それは書いても意味がないからです。日本の人口動態から見た場合、仮に平和な手法で改革を行うのだと前提するならば、私たちの世代の声が政治に反映される可能性はゼロであり、また私たちの世代が政治を変えられる可能性もゼロであることが自明になります。これは民主主義に付随する暴力性が、超高齢化社会に入っても機能し続けてしまっていることによって、ゾンビ化した数の論理が有無を言わさずに議論の土壌自体をシャットアウトすることに関わります。
世代的に言えば、日本で圧倒的マジョリティを構成する年配者層は、もうほとんど社会活動に直接関与しておらずに引退しています。ゆえに、彼らが社会が変わらない状態で自分たちは死にたいと考えるのは当然です。それに対して老人の身勝手な利己心だと批判したところで、何にもならないのです。実際にこの類の意見が政治においては大きなウェイトを占めてくるため、改革を標榜する若者にとって、合意形成の枠の内側には有効な手段がないという帰結になります。つまり、言い方が民主主義であれ何であれ、合意形成のもとで政治による国家運営を決めるという従来の方法は、日本が先行的に世界に示している通り、少子高齢化社会においては通用せず、むしろ国家滅亡の原動力になります。こうした日本に特徴的な社会状況では、政治家は何もしないことによって権益を維持できることから、官僚のようになってしまうことも避けられません。何しろ、有権者のマジョリティが何も変わらないことだけを望んでいるのだから、何もしなければ得票を獲得できるのです。むしろ何かを変えようとする人は、得票数を獲得できません。なぜならば、マジョリティの有権者の要求は、変化しないこと以外にないからです。
このような歪な状況に慣れてしまうと、もはや政治を議論する気力もなくなるのは当然です。日本の若者が政治に無関心だということは、ちょうど私が高校生ぐらいの2000年代中期から後半頃から盛んに喧伝され始めた印象を持っていますが、今日の政治家や政党がそれに対して何を始めたかと言えば、何かと言えば「ファースト」と口走ることです。東京都知事・小池百合子率いる都民ファースト(Tokyo Citizens First)、参政党の日本人ファースト、そして先日に立憲民主党と公明党が結成した新党・中道改革連合の生活者ファースト。とにかく誰も彼もが「〜ファースト」と豪語する失笑するほど滑稽な政治が展開されています。この馬鹿げた潮流に便乗して、選挙が大好きな自民党を率いる高市首相の現政権は、またもや解散と選挙を発表。今回を含めると、何と自民党政権へ政権交代した2012年12月からの13年程度で、約6回も解散・総選挙が行われることになります。結果、今日は各メディアで次のファーストである「高市ファースト」という言葉を次々と報道で用い始めていますが、まさにここに日本の政治動向における滑稽な「ファースト・カルト」の実態が露骨に現れています。
まず、このファースト・カルトの彼らの特徴は、いつもファーストは語るがラストは語らないことです。本来、何をファーストにするかを語るのであれば、何をラストにするかを語らなければなりません。なぜならば、何かをファーストにするということは、何かがラストになることを意味しているからです。しかし私の知る限り、ファーストを語る政治家だけは幾度も見たが、ラストを語る政治家を一度も見たことがない。やたらとファーストという言葉を乱用して政治潮流のように見せ掛ける時代遅れなことを国際社会に提示する恥辱を無視して、誰もラストを語らない。そして単に「利権ファースト」でしかないにも関わらず、この言葉は誰も絶対に口にしないことだけは共通して合意している。何より、不都合な真実として、ここでラストになっているのが実は日本国民だという事実も、彼らは知っているのに口にしません。
ここまで政治家の戯れに対する関心が国民の内から消え去っているのだから、いっそのこと「利権ファースト・国民ラスト」と言えば良い。そう言ったほうがよほど正直で時代に合っている気がしますが、そうしたことは決して言わない。この結果、詭弁が詭弁を重ねて詭弁だけで何かが成り立ったようになる。これがかつて山本七平が猛批判した日本の「空気」の醸成原理です。今回の高市政権の解散を「国民より首相の自己都合ファースト」と朝日新聞は揶揄しているが、国民がラストだからこそ、日本人ファーストを掲げる参政党のような政党が躍進できるわけです。ここで見落としてはならないことは、このように日本の政治では日本国民自体がラストになっているわけですから、日本に居住している外国人のことなど眼中にもないということです。つまり政治家が何をやっているのかと言えば、ラストを提示しないことによって、実はファーストとラストにも入らない層の存在を隠蔽して議論から排斥しているのです。これは確実に後に問題となってくるでしょう。既にかなりの母体数を抱える日本の外国人居住者は、現在の政治におけるファーストとラストの圏外に置かれているため、いざ何か起きた時、そもそも存在自体が政治において省かれている彼らは、為す術がありません。この出来事を甘く見ない方が良いのは、歴史が教えています。
実は、これと全く同じ構造で惨劇が起きたのが約100年前の関東大震災です。未だに公式に政治家は認めようとしませんが、この関東大震災の動乱時、警察と役人と町の自警団がグルになり、関東各地で社会主義者に扇動された朝鮮人が暴動を起こしているというデマを散布します。この大震災は9月1日11時58分に起きたのですが、何とこのデマは東京が大混乱に陥る渦中の1日の時点で東京・神奈川に拡散されており、翌日正午までには既に全域に伝わっています。この結果、彼らは朝鮮人虐殺を各地で横行し、とにかく首を刎ねて河川敷に放置するなどの惨劇を行います。ここでターゲットとなったのは朝鮮系移民に限らず、無政府主義者や社会主義者など多数に及び、未曾有の災害を利用して警察・役人・自警団が結託した虐殺が起きたのです。未だにこの虐殺について認めようとしない人々は多いのですが、憲兵大尉であった甘粕正彦が無政府主義者・大杉栄と伊藤野枝を関東大震災に便乗して虐殺したことを考えても、規模は定かでなくとも虐殺が行われたことは事実です。個人的には政治的ファーストの問題は、ラストを語らないことによって議論の土台からそもそも消去されている層にあると考えていますが、これを極右だ云々と言って誤魔化していると実態は見えてきません。また日本の場合、土壌が特殊であることから、西洋で見られる典型的な独裁者は登場し難い環境にあり、こうした独裁を目論む人々は、ほぼ例外なく天皇を擁立することが歴史から明らかです。
さて、自国の政治を議論する土壌が良いか悪いかを一旦抜きにして考えた場合、政治を議論する土壌がここまで世界的に見ても活発なアメリカの土壌と、反転して議論自体が根本的に存在しない日本の土壌というコントラストには興味深いものがあります。どっちが良い悪いということは、今の私たちにとっては問題になりませんが、いずれにしても一つだけ確かなことは、私たちは船が沈んでも国が滅んでも生き続けなければならないことです。この観点で見れば、ある意味で日本とアメリカという二つの先進国の現在の姿は、政治議論という観点に注目しても、極端な位置を占めているように思え、ものすごく活発な国とものすごく不活発な国という印象を受けます。実際、このSubstackでも「American Politics」というジャンルが独立して用意されているほどですから、それだけ関心のある人は多いわけで、欧州や英国政治よりも遥かに熱量は高い。もはや私たちは、国家と母国を同一視しないという強い意志を持って生き続けなければならない時代に入っているのです。そう意志を固めると、この大きな二つの極端な領域から一つの重要なことが見えてきます。それは「議論についての意義」です。
今の日本とは対照的に、政治議論が非常に活発だった100年前の日本を振り返ってみると、ちょうど時代は大正(1912-1926)と呼ばれる時代が終わりを迎える頃に相当していました。ここでは一部の人々が激しい政治議論を日夜展開する熱気を持っていたのですが、中でも個人的に感銘を受けたのが作家・与謝野晶子(1878-1942)です。大阪の堺生まれである与謝野晶子は私と同郷であるため、小さい頃から名前は知っていましたが、最近改めて彼女を調査していて短歌に関する文章を読んでいて、まさに今回の記事と共鳴するようなことがありました。彼女は短歌について以下のように記しています。
「私は元来歌の議論をすることを好まない。その理由は議論と創作とはほとんど没交渉だと考えているからである。今日も専門歌人の間には議論が多い。しかし論じる人自身の作品には、存外私たちを啓発してくれるものがない。昔から詩歌についてくだくだしく論じるような人たちに卓出した詩人が少ないのは、無駄な議論に精力を用い、そのために他と争って腹を立てたりして、大切の創作の苦労を怠ってしまうからである。」
このように冒頭で批判し、詩については以下のように続けて記しています。
「詩は感性の所産であって、詩学や修辞学からは芽生えない。歌を作りたければ何よりもまず人生と自然とに直面して、ハツラツとした心で感じることである。この体験を元として言葉の音楽による表現の刻苦を重ねる人にのみ、その人の名を署して「創作」と称するに値する歌が収穫されるのだ。」
この文章は約100年前に発表されたものですが、今も本質は全く変わっていません。この意味で言えば、議論が盛んなこと自体は社会的に健全と言えるでしょうが、一方で問題になることも見えてきます。それは議論ばかりしている人たちの存在です。実際にその人たちとて議論ばかりしているわけではないのでしょうが、あまりにも議論に日々を忙殺されており、本来自分がやるべきことであったはずの創作、思索、実行などを怠り、蔑ろになっているということです。現在の国際的な政治議論など、典型的にその象徴に見えます。大抵、国際的な議論に招かれる人は、それなりの発言力を持っていることから、どこを見てもほとんど同じ人で、特定の人物が議論の場所だけを移り、似たり寄ったりの議論をしているだけです。要するに、使い回しが横行しているだけに過ぎない。本来であれば、論者が行う特定の議論は、その場所に限って行えば良いだけであって、それを配信したりアップデートするだけで十分であるにも関わらず、信じ難いことに現代ではYouTuberを含めて、自分たちのチャンネルによって収益化をしたいという人がやたら多く増殖し、しかも誰でも開設できてしまうことから問題が生じます。何しろ、こうした発言力のある著名な人々を招いて議論をすることで購読者数を増やすという目的に寄ることは避けられないため、必然的に似たような議論をその論者に求めてしまうことになるからです。つまり、既に別のチャンネルで語ったことを焼き直して別のインタビュアーに向けて語り続けるという馬鹿げた行動に、この論者自体が慣れてくるということです。なぜならば、簡単に収入になるからです。
これは双方にとって収入や名声というメリットの利害が一致しているため、どんどんこの手法だけがパターン化されて拡散されながら再生産されていき、しまいには1年経っても論者の言っていることは何も変わらないという惨状を呈します。ですが、こういう人たちは発言力だけは持っていますから、この焼き回しに特化して発展を拒絶した議論が、国際的な知識人の意見として語られて標準化されていきます。そして、それに影響される人々が同じ方法で増殖していくという具合です。議論が重要であることは誰もが認めることですが、それは別に議論ばかりに明け暮れていることではなく、むしろそうであってはならないはずです。議論というのは、非常に深い思索と日々の格闘を経て、機が熟した頃に一度きりとして本気で対峙しなければ、何の意味があるというのでしょうか。くだくだしく同じ議論を論じることなど、全く世界にとっては無意味ですし、そこには生命がありません。私の疑念は、本来であれば議論の質と発展を高めるために必要不可欠であるはずの日々の内的な思索などを、もはやこの人々は簡単に収益化できることに慣れてしまったことから、放棄してしまったのではないかということに尽きます。これは、世界にとっては悪害以外のなにものでもない。
何しろ、如何に現代が様々な声を反映すると表向きには語っていても、実際に世界の主要な認識や見方や発言などは、このような一部の人たちを中心に構成されています。そして問題は、この種の人々がある特定の狭い空間で、たらい回しになることによって世界の言説を成立させているわけですから、結果論で見ると、この人たちの議論を前提すると何も進歩しない逆作用に陥って身動きが取れなくなります。なぜなら彼らは議論ばかりしており、創造的な行為、創作に割く時間というものを圧倒的に失っているからです。一年後に同じようなことを言っているなら、人類のために即座に自ら舞台から降りるべきですが、一度味わってしまった容易に稼げるシステムを手放すことはできません。この状態に陥ると、必然的に政治議論にしても名もなき人の発言の方が、本質をついている可能性が非常に高くなります。現代はソーシャルメディアが象徴するように、誰もが発言できるからこそ、ここが非常に強いウェイトをカウンターのように示し始めていることは疑えません。実際、昨年まで無名だった人物がいきなり政治家としてそれなりの地位に就くということは、現在ではもはや当たり前の現象になってきました。
この反動的な兆候が起きている背後には、発言力のある人や、それなりに名声を持っている人が議論という名目でたらい回しになって時間を浪費して、何の発展もしていないからです。この構造の中で彼らが安寧し、そこでチマチマと金を稼いでいることが、実は厄介な土壌を作っている源泉であることに彼ら自身は気づきません。その厄介な土壌とは、政治家でも知識人でもない無名の人たちが、どんどんカウンターのように浮上して歯止めが効かなくなる土壌です。ここでは議論は極端に先鋭化していくことは避けられないため、現在問題視されている責任の所在は、世界的に発言力を持っている人々自身の怠惰にあるということが射程に入ってきます。
一方、ここでもう一つの大きな潮流が見えてこなければなりません。それが「流行」です。流行は潮の満ち引きによって表現できますが、満潮時であればその勢いは素晴らしいが、それに次いで干潮が来ることは自然の原理です。この時、流行が人間に役立つものを浮かべてくるならば、それらのものは採取されるが、無用なものも一緒に混在して流れてきます。無用なものは、やがて干潮が忘却の彼方へ持っていってしまい、あるものは不要でありながら磯の貝殻のように残されるが、誰もそれを重宝して拾うものはないように、良い流行に出会ったものは幸いだが、大抵の流行には浮遊する異物が多いのだから、それを最上の宝のように思って抱き上げた人は、流行の過ぎ去った後で自ら呆然とするのです。つまり、流行には満潮と干潮という大きな動きがあり、これが現象の正体なのだから、新たなイデオロギーや思想などが次々と産出されても、大抵は3年や5年程度の体力を持っていません。現在のように速度が異常に速い時代では、もはや数ヶ月でその余命を迎えるということです。
どんなに母国の政治が惨状を呈していても、前述の通り、船が沈んでも、国が滅んでも、私たちは生き続けなければならないのです。