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近松門左衛門と虚実皮膜Chikamatsu Monzaemon and Kyojitsu Hiniku

侍と聞くと、イメージばかりが先行して実態を見失ってしまうもの。エリートの身分として勘違いされる侍は、封建主義の江戸時代という偽装された誤認と絡まりながら、もはや実態ではない存在として今や見做されています。そもそも、誰も侍を見たこともなければ、会ったこともない。彼らがどのような目をしており、どのように物事を考え、どのように歩いたのかを私たちは知らない。江戸時代が封建主義だったという聞き慣れた嘘も、徳川将軍家を軍事革命によって打倒し、新時代を装って明治政府を作り上げた新たな為政者による印象操作でしかない。そう考えると、まるで様々な言説が空虚に投げ捨てられ、その残骸でこの日本という実像を無理に拵えてきた160年に思えます。江戸時代とは言いますが、300年程度も続いた時代であり、そこを弁えていれば、江戸時代=封建主義という馬鹿げた論理は登場しないはずです。

刀を持ち、厳格な礼儀作法を守り、藩や幕府のために生涯を捧げる侍ばかりが数世紀に渡って君臨していたわけではない。特権階級として語られる武士の身分を捨ててでも、己の信念に従い生きることを貫いた者だって多かった。しかし、そうした人々は「世捨て人」と呼ばれたことから、文献的記録に残ることはない。文献的記録に残る歴史など、僅かな粕でしかない。それを歴史一般と打ち立てる偽装と暴力は、真理を常に誤り、そしてその誤った真理のもとで現代的に主張されるイデオロギーの詭弁を支える論拠となってしまいます。ただ、非常に稀に記録として残った世捨て人も居ました。その象徴的存在が、近松門左衛門(1653-1725)です。

今日までの近松門左衛門の評価と言えば、日本の古典演劇史上最高峰の作家と見ることが普通です。実際、劇作家としての生涯を生き抜いた近松門左衛門は、多くの作品を残しています。しかし、意外と今では焦点が当てられませんが、近松門左衛門は元々侍です。ちょうど江戸時代が始まってから半世紀程度が経った1653年に武士の家に生まれた近松門左衛門の半生は、当時の人々同様に殆ど明らかではありません。推定では、彼の父が越前にある福井藩で仕えた後、続いて吉江藩(現・福井県鯖江市)で仕えたと考えられています。少なくとも、近松門左衛門は福井県のどこかで生まれ育ったのですが、1664年以後に突如、父が藩の仕事をやめて浪人となって京都に流れており、近松門左衛門も帯同して京都に移住したことが分かっています。ただ、この時代は江戸時代においても政権が安定している時代です。さらに半世紀も経てば、これまで数世紀に渡って戦いを専業としていた侍も、戦いのない世界に慣れてしまい、武士の誇りとは名ばかりで、一体自分が何のために刀を帯刀しているのか分からなったことでしょう。思えば、第二次世界大戦後から半世紀後の1985年の日本は、半世紀前に世界大戦を戦ったとは思えないほど、金を絶対的な価値として崇める空気が広がったバブル経済期を生きていました。同じとは言えないかもしれませんが、当時も近いようなものだったのでしょう。

この時には、後に武士道などとして厳格な哲学で語られるようなものは生まれていませんから、一体この時代の侍は、どのように戦いのない世界で生きていたのかという永遠の謎が残ります。少なくとも、彼らは身分的に積極的に働く必要はなかったわけですから、こんな身分やめてしまった方が気が楽に生きられると感じた人も居たかもしれません。実際、そうしてしまったのが近松門左衛門です。近松門左衛門が19歳頃には福井から京都に移住していたことは判明しているのですが、この時には京都で公卿の一条恵観に仕えていたとされています。ただ、1672年に一条がなくなり、同じ年には近松門左衛門が師事していた山岡元隣も亡くなっています。この山岡は、江戸時代で普通だった儒医と呼ばれる儒教の講師と医術を兼ね備えた町医者として京都に住んでいました人物ですが、とにかく俳諧や和学に通じており、その見識は相当高かったと伝わっています。この人物を師匠と仰ぎ、学びに励んでいた若き近松門左衛門にとって、この二人を通じて古典や俳諧を領有した可能性が高いため、同じ年に二人を失ったことは大きな転機になったことが考えられます。ただ、その周辺の生涯も全く不詳です。

そして謎は謎を呼ぶと言いますが、早くも翌年の1673年には近松門左衛門による幾多の浄瑠璃作品が著されています。つまり、彼は侍なのか俳人なのか浄瑠璃作家なのか、一体何者なのか誰にも分からないため、今日まで研究者の頭を悩ませているのですが、私が近松門左衛門に惚れ込む理由は彼自身も自分が何者か分からないと独白しているからです。本人でさえ何者か分からないものを、一体どうして後代の研究者が分かるというのでしょうか。そう考えると、この近松門左衛門という一人の男に興味が湧いてきます。それほど時代柄、侍の身分に大きな衝撃があったということでしょう。

遡ること1639年、宣教師を通じた布教と交易が、日本を他国同様に海外の影響下へ組み込む動きにつながることを警戒した徳川将軍家は、ここで鎖国令を発布して海外への門戸を公式に閉ざします。これは武士階級にも相当な衝撃があったでしょうが、これを契機として、新時代の息吹と捉えた新たな勢力が国内で台頭し始めます。それが町人です。ややこしいのですが、町人とは身分ではなく、江戸・京都・大阪などの都市部に暮らす侍ではない人々という具合の漠然としたイメージで、階級としては主に商人に相当します。商売によって財力を蓄えた町人は、戦いがなくなって困惑している侍に替わって一気に台頭。そこに鎖国令が発布されたため、国内市場の拡大に全ての神経を集中することができ、財力を背景に武士の権威に反抗し始めます。時代の権威に対する反抗精神は、いつの時代も新たな文化の源泉となるものです。この時代も例外ではなく、ここから町人主導の文化黄金期に向かって突き進んでいきます。近松門左衛門が生まれたのは1653年ですから、この文化黄金期に向かう町人の驚愕的な勢いに心を奪われたでしょう。

ただ、彼が生まれ育ったのは北陸の福井でしたから、町人文化とは言っても江戸・京都・大阪のようには派手で活気を帯びたものではない。ですが、理由は定かでないものの、父は藩をやめて京都に浪人として流れてくるという結果となり、近松門左衛門はここで爆発的なエネルギーを持って生きる町人の姿に直面します。こうなると、いつの時代も若者は迷いに迷ってどん底に落ちるものです。なぜ、同世代の人々がここまで活気を持って生きているにも関わらず、自分は使わない刀を持って侍の誇りだと主張して厳格に振る舞っている。一体、自分は何をしているのだ。どうせ、父は藩の仕事をやめて浪人して流れてきたのだから、京都の人々にとっては素性の知れない身分と等価。京都で仕えていた公卿も文化を教育してくれた師匠も亡くなった今、自分がこれからも侍として生きる意味がどこにあるのか。一層のこと、こんな身分やめてしまって町人のように生きた方が良いのではないか。短い生涯、ここで決断しなければ人生は終わってしまうのではないか。

活気ある町人の武士に対抗する勢いに感激した近松門左衛門は、この動きに感化されて、何と自らの武士階級に反逆。侍の責任や仕事などを全て放り出して、町人と共に遊び回る暮らしを始めます。これが彼の肌に合っていたのでしょう。いつの時代も遊び人には新たな時代のチャンスが巡ってくるものですが、この時代も同じでした。どのように知り合ったのかは不明ながら、近松門左衛門は公卿に仕える暮らしから距離を取ると、京都で評判を高め始めていた浄瑠璃語りの宇治嘉太夫のもとで浄瑠璃の作品を書き始めたのです。宇治嘉太夫(1635-1711)は後に宇治加賀掾と名を改ますが、この宇治加賀掾との出会いが近松門左衛門の生涯を大きく動かしていきます。実際、この時期に彼の兄弟は他藩に召し抱えられて侍としての生活を続けているのですが、もはや近松門左衛門はその動きとは無縁に生きています。これは多感な20代の近松門左衛門が、もはや侍として生きる意志を持っておらず、既に侍の身分を自ら捨てて生きていたことが分かります。何より、ここで宇治加賀掾が理想に抱いていたのが浄瑠璃の現代化だったことが、近松門左衛門にとって幸いでした。

浄瑠璃の歴史も大変興味深いのですが、あまりにも深淵なので今回は省きます。ただし一つだけ言えば、17世紀後半までの浄瑠璃のイメージは、まだ一つの芸術として認められる次元に達しておらず、あくまでも低俗な芸術という負のイメージを背負っていました。しかし、時代はむしろ町人のための文化隆盛に向かっていたため、町人のエネルギーの勃興によって、時代の主役が従来の武士階級から町人へと移り変わりつつあったのです。この千載一遇の流れを捉えた宇治加賀掾は、従来の浄瑠璃の負のイメージを払拭し、芸術として認められるために生涯を本気で捧げます。奇遇にもここで彼と協働を始めた近松門左衛門が、やがて一時期本業となる歌舞伎作家以前に、浄瑠璃に深い知見と敬意を示すようになっていたことが重要です。近松門左衛門は、宇治加賀掾との協働によって試行錯誤が行われた浄瑠璃こそが、町人文化のエネルギーを体現する先駆的文化と捉えていたとも言えます。

そして侍の身分を捨て、己の存在だけで生き抜こうとした近松門左衛門も情熱は負けてはいません。彼も自分なりに格闘を行なっており、最も興味深いのは作家名を主張する動きを取ったことです。この時代まで浄瑠璃や歌舞伎などの作品には、作家名を出さないことが普通でした。これは単純に、客が見たいのは作家の名前ではなく俳優だからですが、後に近松門左衛門は作家の存在意義を高める潮流を作っており、実際に1680年代には「作者・近松」と掲げたことから批判を受けた記録が残っています。しかも彼は己の才能を存分に発揮するために、京都に集まるどこの誰か分からないような人々と共に暮らし、芝居の道具直しも手伝い、とにかく劇という文化芸術の全てに積極的に関わります。ただし、如何にそうした生き方を貫きたいとは言っても、時代が味方をしなければ、こうした存在は躍動できないものです。幸運にも近松門左衛門は、時代の急展開によって躍進するチャンスを掴みます。何しろ、時代は1688-1704年の元禄時代に突入したからです。この元禄という時代は特殊で、第5代将軍・徳川綱吉(在職: 1680-1709)の執政下で、大阪・京都の上方と呼ばれた都市の文化が全盛期に突入することから、元禄文化と呼ばれます。

これは徳川綱吉が優れた経済政策を執政したことの影響によって、好景気の時代が続いたことに起因するのですが、何よりもこの将軍自体が人格者であり、人々から広く深い尊敬を受けていたことが知られています。実際、この徳川綱吉の時代に浄瑠璃・歌舞伎の近松門左衛門、文学の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、琳派の尾形光琳など、象徴的な文化創成者たちが続々登場しています。同時に徳川綱吉は、将軍自ら先頭に立ち、江戸幕府のシステムに寄生していた既得権益層を刷新する改革を断行しており、何と46の大名を改易・減封、約1300人の旗本・御家人を勤務不良や汚職などで次々と処罰しています。要するに官僚機構の大胆な改革を行なったのですが、これによって社会の風通りが良くなり、町人による文化が勃興する土壌を作ったということです。元禄文化の特徴としては、貴族的な「雅」と町人的な「情緒」の芸術文化の勃興が同時に起きており、都市部の町人勢力が財力を持ったことから、独自に芸術家を支援する動きが加速。芸術家側も従来の貴族や武士をパトロンとする必要がなくなり、町人のための文化勃興に全力を尽くす活気ある時代に入ります。近松門左衛門は、まさにこの元禄文化と共に生きた象徴的存在の一人でした。

彼の活動の動きとしては、浄瑠璃から歌舞伎、そして再び浄瑠璃という大きな流れの変遷があり、元禄文化が終わりを迎えると、住居も京都を離れて大阪に移しています。ここで彼は、当時の劇作品における二つの重要なジャンルである「時代物」「世話物」を書き分けながら、次の可能性を探ります。世話物とは時代を象徴する町人に向けた作品であり、町人社会の出来事や人物、さらには当時起きた世相などを反映したものです。一方、時代物は当時の江戸時代より以前の時代である平安時代や戦国時代などの時代軸から、公卿や武家社会で起きた出来事や人物を題材にした演目です。ただし、元禄時代の歌舞伎は時代狂言、世話狂言、武道狂言と三つにジャンルが分かれており、時代狂言は江戸の気風が強かったのですが、武道狂言と世話狂言の本場は大阪でした。

近松門左衛門は歌舞伎脚本の作家として、専属で30歳頃から約20年間活動して実績を積み上げるのですが、主に京都を拠点に活動した名俳優と称された坂田藤十郎のために作品を書いています。同時に、前述の宇治加賀掾のために浄瑠璃脚本も書き続けていますが、この元禄時代はまさに絶頂の町人文化時代においてチャンスを掴んだ近松門左衛門にとっては、眩暈がするほど忙しい仕事の日々。こうして多くの作品を発表しますが、この時点では彼の傑作と呼べる作品は生まれていません。こうして彼は、孔子が天命を知ると語った50歳を迎えます。彼にとって歌舞伎と共に過ごした日々は、生きた役者のリアルで現実的な歌舞伎の性格を前提に、その伝統と因習を如何に踏襲・打破・改革するかを問い続ける修行の日々でした。実は、この歌舞伎との格闘こそが、後に近松門左衛門が50歳を超えて浄瑠璃作品で花開くための基盤を作ったのです。それが浄瑠璃の人形をただ動かす生命のない劇という次元を脱して、人形自体に生命を与えて浄瑠璃の劇を為すことです。つまり、浄瑠璃を低俗な芸術という評価からの突破に対して、近松門左衛門は生きた浄瑠璃劇を展開することによる革新に未来を見たのです。

事実、彼は「昔の浄瑠璃は今の祭文同然にて花も実もなきものなりしに、某出でて加賀掾より筑後掾へうつりて作文せしより、文句に心を用ふること昔にかはりて一等高く」と述べています。ここで彼が言おうとしていることは、端的に言えば、自分こそが浄瑠璃という芸術を、芸術の域まで高めたのだという自負です。本義は、昔の浄瑠璃には華やかさもなければ実質もない。つまり、芸術的な美しさもなければ物語としての内容も感激もないもので、それはまるで神仏へ祈りを捧げる祭文のようなものでしかなかったが、自分がこの浄瑠璃に関わるようになって二人の太夫と組んで脚本を書くようになってからは、言葉の一つ一つに心を砕くようになり、昔とは違って格段にレベルの高いものになったということです。そしてこの近松門左衛門の生み出した生命を帯びた脚本を、生命を持って語る天才的な才能を持っていた義太夫との運命的出会いによって、浄瑠璃は物語の筋を追う次元を脱し、言葉の響き、心理描写、格調高さを獲得したのです。これが文学としての浄瑠璃の始まりであることから、近松門左衛門は未だこの分野では神同然として崇められているのです。

これが実現できたのは、彼が歌舞伎の性格を自ら歳月をかけて消化しながら、中世的で平板な語り物に停滞したままの浄瑠璃の中に導入する画期的な手法を発明したからです。つまり、浄瑠璃はただ語られるものではなく、生きて語るものでなければならないという強い信念のもとで、彼はただの人形(当時は木偶と呼びました)に生命を吹き込み、歌舞伎のリアリズムを取り込んで人間の息吹を与えたのです。とは言っても、これは町人の社会的勢いと、高度経済成長、さらには名人と呼ばれる天才的な職人が登場する元禄文化前後の話。当然、私たちはこの当時の浄瑠璃を見ることはできないわけですから、現代次元でこの境地を感じることは不可能です。だとすれば一体、近松門左衛門の核心はどこに据えられていたのか。それを知る鍵は、彼が到達した究極の芸術論に潜んでいます。それを「虚実皮膜」と言います。

虚実皮膜とは、浄瑠璃を極めた近松門左衛門だからこそ到達した思想ですが、「芸術はフェイクとリアルのギリギリの境に存在する」という考え方です。この概念を掴み取るために重要なことは、眺めて理解した気にならないことです。なぜならば、この虚実皮膜からは得体の知れない緊張感を感じます。つまり、現代的な意味でのフェイクかリアルかという低次元の問題ではなく、フェイクとリアルの所在自体が当時と今では全く異なるということです。いわば、自分という存在そのもののフェイクとリアルが対峙するギリギリの境を凝視することであり、それは現実それ自体と疎外される現実性の裂け目を見ることにあります。近松門左衛門の目には、町人の生きる姿はまさにこの裂け目そのものであり、境界そのものであった。ゆえに彼は浄瑠璃においても完全なリアルを追求するリアリズムでもダメで、完全なフィクションでもダメだと捉えたのです。これはリアルとフェイクを分離させてはならない、両者を非分離に合一する境にこそ真理があると見たと言えます。このギリギリの緊張関係にある境は生死の境界でもあるため、ここを浄瑠璃が抉ることによって、観客は浄瑠璃が公演されている間、時間も空間も無化され、虚構として疎外されている現実性も現実それ自体の不安と隣り合わせとなり、そこにおいて自分なる存在自体が生死において対峙するということです。

江戸時代の言葉は現代翻訳不可能ですが、「虚」とはイコールでフェイクではなく、「実」とはイコールでリアルを意味しません。さらに「皮膜」はフェイクとリアルは別々の領域に存在するのではなく、薄い膜一枚で背中合わせになっていることを表しており、非分離のことです。そして芸術の真の感動は、この膜の隙間を縫うような極限の緊張状態の表現が実現された時に起こると彼は考えました。この虚実皮膜は浄瑠璃だけではなく、当然ながら歌舞伎自体も同じこと。本物の女性が舞台に出ても、必ずしも女性らしく美しいとは限らない。男性が女性になりきって(虚)、理想的な女性の仕草を研究して演じるからこそ、本物の女性以上に女性らしく(実)、色っぽく見えるのだと論じていることから見ても、既に彼は現代の諸問題を完璧に論じ切っていることが理解できます。

この近松門左衛門の虚実皮膜は、まさに芸術というか世界それ自体の真理を提示している。そしてこの真理に到達していた先人が彼よりも200-300年前の日本に存在しました。それが能の大成者である世阿弥(推定1363-1443)です。今でこそ、国内外で世阿弥が残した能の理論書である『風姿花伝』が有名ですが、この本は約600年に渡って秘伝であり、基本的に一子相伝で伝来したものです。ここまで広く読まれるようになったのは、20世紀初頭に公開されて以降のことですから、近松門左衛門が目にする機会はなかったでしょう。しかし、風姿花伝に記されている深淵な理論は、まさに近松門左衛門の虚実皮膜と同一。時代を超えた二人の芸術の大成者が、同じ境地に到達したことを示す好例です。

この近松門左衛門の虚実皮膜は、現代においても色褪せない輝きを放っています。特にAI時代を生きる私たちにとって、この虚実皮膜の観点を誰よりも早く実装できた者のみが、先に進むことは目に見えて明らかです。次回の記事では、この近松門左衛門が死期に際して残した言葉の世界を探究していきます。