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道元論10On Dogen, Part 10

「平氏でなければ人ではない」。そう豪語されたほど時代の寵児として圧倒的な力を獲得し、黄金時代を謳歌した平氏。カリスマの当主・平清盛(1118-1181)の躍進によって、もはや敵がいなくなったかに思われた平氏でしたが、不思議なことに繁栄は未来に向かって広がることはなく、歴史は平氏が呆気なく滅亡したことを記しています。一時代を築いた繁栄の君主でさえ、呆気なく滅亡してすぐ忘却される姿は、やがて『平家物語』として語り継がれていき、諸行無常の教として後代の人々の教訓として今日まで読まれてきました。では、なぜここまでの繁栄を遂げながら、その覇権が長く続かなかったのか。

決定的だったのは、後継者の力量不足です。父・平忠盛(1096-1153)から子・平清盛の二代で平安京を席巻した実力者の系譜も、次が出てこなければ覇権も何もありません。歴史はこうした例が複数あったことを教えており、古い時代で言えば、日本に仏教勢力が根付く最初の大動乱となった6-7世紀にかけて、大和(現・奈良県南部)の朝廷の覇権を掌握した蘇我氏における父・蘇我稲目から子・蘇我馬子が平氏の動きと類似しています。父・蘇我稲目(推定: 506-570)が朝廷で躍進して政治基盤を作ると、続いて子・蘇我馬子(551-626)がカリスマ的才覚を発揮して、あっという間に蘇我氏の黄金時代を築きました。当時、蘇我馬子は表舞台には天皇を擁立しながら、自らは裏で執政の覇権を掌握する仕組みを生み出しており、4代の天皇に仕えて54年も実権を掌握し続けました。

第32代・崇峻天皇(在位: 587-592)に至っては、蘇我馬子の覇権の凄まじさと、自らが彼の操り人形でしかないことへの不満を周囲に漏らしたために、蘇我馬子側が紛れ込ませていたスパイから情報が漏洩し、天皇が暗殺されるという歴史的には唯一の事件が起きています。こうして逆らう者が誰もいなくなった蘇我馬子は権威を謳歌しますが、蘇我馬子が没すると、後継者には蘇我稲目ー蘇我馬子のような力量がなかったため、蘇我馬子の没後から20年程度で、呆気なく蘇我氏は革命によって滅びてしまいます。この時代の出来事は、平氏台頭から見れば数百年前の話ですが、歴史は繰り返しているという至言が語るように、同じような動きを持っていることが分かります。そして平清盛にも、この権威を引き継ぐに相応しい後継者の登場に行き詰まったために、滅亡の一途を辿ることを避けられなくなります。

決定的だったのは、嫡男の平重盛(1138-1179)が若くして病で死去してしまったことです。平清盛は平重盛こそ後継者に相応しいと育てあげ、実際、かなりの政治才覚を持って台頭していましたが、混迷の時代に体がついていかず、無念なことに激動の時代を迎える前に没してしまいます。これに嘆き悲しんだ平清盛は、暫定的にその弟・平宗盛(1147-1185)を後継者に据えるものの、兄ほどの力量を持たないことは父から見て自明のこと。そこで平清盛は、首都・平安京における私欲や陰謀渦巻く中央政治に平宗盛は対峙できないと判断し、一層のこと平氏の繁栄のためには平安京を放棄し、平氏に対する支持者が多かった福原(現・神戸)に遷都することを画策します。しかし、これは準備不足から大失敗に終わり、僅か半年後の1180年11月には平安京に再び戻ることになります。ここで一瞬の隙も見せなかった君主・平清盛への崇拝に綻びが生じたのです。一度生まれた綻びは、あっという間に全てを瓦解します。

平清盛は、かつての蘇我馬子の手法に倣い、平安京内の情勢を平氏優位に構造化するために、天皇を自らの血筋から擁立する強硬策に出ます。こうして1180年3月に即位したのが、母を平清盛の娘に持つ安徳天皇です。かつて蘇我馬子も自らの影響力にある天皇を次々即位し、敵対する皇位継承者を次々殺してきたのですが、同じような時代の動きに入ったということです。しかし、平清盛は蘇我馬子とは異なり、この天皇の皇位継承権を巡る闘争が、歴史的に時代を混乱させる原因になってきたことを甘く見たと言えるかもしれません。事実、日本の天皇史は冷静に見るならば、皇位継承権を巡る醜い争いの連続です。今でこそ天皇は非常に穏やかに見えますが、個人的には次の皇位継承問題が既に浮上している現在、今後似たような状況になっていくだろうと見ています。実際、現・天皇の身に何かあれば、皇位継承権はその一人娘の愛子内親王ではなく、天皇の弟・秋篠宮、続いて秋篠宮の息子・悠仁親王が皇位継承権を順位として持っているのですが、私を含めて大勢の国民が望んでいるのは愛子内親王の即位であることは政治的には無視されます。個人的な理由としては、まず皇位継承の仕組みが、天皇史を鑑みれば為政者の思惑に利用されやすい構造を持っているからです。その構造が働く現在の日本政治から判断すると、日本が危うい方向へ向かう可能性が高まります。一方で愛子内親王は次世代を担うに相応しい風格が備わっており、新時代の天皇に相応しい。

また、正史としての天皇史からは都合が悪いので消去されていますが、3世紀頃に大和で男王同士が覇権を巡って争いを続けて混迷の時代を迎えていた頃、あまりにも民が疲弊して戦いどころではなくなったことから、部族を率いる複数の男王合意のもとで女王・卑弥呼が即位した先例があります。この時代は日本の時代区分で言えば弥生時代と古墳時代の転移点ですが、実は現在大勢の人々が歴史観を誤っていますが、弥生時代は全国各地に女王が君臨していた時代です。一般的に日本の天皇や氏族の当主の系譜は歴史的に家父長制だと言われていますが、これはとんでもない無知な間違いです。

平清盛の判断も、天皇即位まで独断で実行してしまうと、破滅を避けられない事態に陥ることは避けられません。こうして安徳天皇即位の翌月1180年4月には、早くも皇位継承を巡る反乱兆候が起きており、皇位継承権を除外されていた以仁王(1151-1180)が平清盛の最側近の一人であった源頼政(1106-1180)と共謀し、平氏の覇権を革命によって打倒する扇動を行います。ここで両者が皇位継承問題を前提に、各地の源氏勢力に対して以仁王の勅令という形で公的に革命を許可する文書を一斉送付したことが、日本史の中でも稀に見る大動乱を迎える狼煙となります。以仁王と源頼政の陰謀は平清盛側に知れることとなり、両者は平氏の軍勢を恐れて一度平安京から山を越えた滋賀の園城寺に隠れて、同じ天台宗の比叡山に援軍を求めるも、両寺院共に平氏と争うことは得策ではないと考えて拒否。これによって両者は平安京界隈に滞在することができなくなり、平安京遷宮以前の首都・平城京(現・奈良市)側の仏教勢力に援軍を求めます。東大寺と興福寺という当時最大勢力を誇った寺院を擁することから南都と呼ばれますが、特に興福寺は平安京の貴族システムの開祖・藤原氏の庇護下にあったため、平氏と南都の衝突は事実上、武家の台頭を快く思わない旧態依存した貴族との間の新旧勢力による場所を変えた代理戦争と言えます。しかし、以仁王と源頼政は南都へ逃れる途中で平氏軍勢に発見されて即時処刑。平清盛は裏切り者に援軍を許可した南都の寺院勢力一掃のため、五男・平重衡(1158-1185)に4万の軍勢を率いて進軍させ、結果的に南都焼き討ちという大規模な戦乱になってしまいます。

ここには、若干複雑な事情があります。平安京において平氏という新時代の勢力は、最強の権力者で裏平安京システムの覇権を握っていた天台宗・延暦寺を擁する比叡山の暴走を抑止したことで庶民からの信頼も厚かったのですが、この事情を平清盛は誰よりも理解していたため、一定の政治力を獲得すると比叡山側との対立を回避し、穏和な関係を築くことを目論む転換を為していました。比叡山側も数千の僧兵を抱える軍事拠点でしたが、戦闘自体が職業である平氏に勝てるはずもなかったため、この平清盛の転換には迎合しています。しかし、それはあくまでも平安京という小さな世界に限定されることであって、広大かつ歴史的に首都機能を持ってきた南都においてはこのルールは通用しません。南都側は仏教が根付き、繁栄した日本最初の地域であり、とにかく複数の寺院勢力が領土持つ形で乱立していました。中でも圧倒的栄華を誇ったのが大仏有する東大寺と興福寺ですが、特に興福寺も大勢の僧兵を抱えて頻繁に比叡山同様に平安京の朝廷に圧力をかけていたため、平氏にとっても頭を悩ませる存在でした。そして実際に朝廷内の謀略を契機とする源頼政側の依頼を受けて、そこに興福寺が便乗してきたため、平清盛は激昂し、軍事的威圧を持って抑止する措置に出ざるを得ませんでした。ただ本心としては時代の覇権を握っていた君主は、巨大な寺院勢力と対立することは得策ではないことを誰よりも熟知していた。ゆえに4万の軍勢を南都に派遣したのも、あくまでも軍事的威圧が目的であり、その威圧感によって興福寺側が屈することも目に見えていましたから、あくまでも脅しを目的にしたものです。しかし、不幸なことに脅しを目的としていた南都攻撃が、当日の暴風のために放った火が一気に燃え広がり、何と東大寺の大仏を焼失させ、興福寺などを全焼させるとんでもない事態になってしまったのです。

これは平氏にとって最大のネガティブキャンペーンとなりました。何しろ平安京の政治的思惑に疎い南都側の庶民からすれば、4万もの軍勢を率いて現れた平氏の武士が、最高峰の信仰対象であった大仏や寺院を焼き払い、無数の僧侶を焼き殺した上、生活基盤の町を壊滅させたとしか映らないからです。ここで南都側の怨念を買ってしまったことが、後に平氏滅亡の重要なファクターとなります。何しろ、それまで平清盛を恐れて抑止されていた比叡山など各地に勢力を分散していた勢力も、この南都側の寺院勢力の憤激に便乗すれば、宗教的な大義が立つため、反平氏の潮流に転換する機会が生まれたからです。これが平清盛にとっては、あまりにも痛い失策となります。

同時に厄介なことは、新天皇を自称する以仁王の勅令を名目にした反平氏の革命命令を平氏側が遮断することができず、各地の源氏勢力に広がってしまったことです。元々この源氏とは、河内源氏と呼ばれる大阪河内地方の豪族を本流とする武家勢力に由来します。ちょうど平氏台頭直前に源義家(1039-1106)という人物が朝廷から絶大な信頼を得たことにより、武士の神として崇められて勢力を拡大した勢力の血筋です。この過程で源氏は系譜を分岐させていたのですが、本流はこの河内源氏に置かれ続けていました。つまり、源氏の中のエリートがこの河内源氏の嫡流です。日本の場合、この血筋の正統性が常に重大な問題となります。戦国時代でも、やたらと自らを「〜源氏の血筋」と名乗る大名が登場するように、ここで生まれている源氏側の血筋問題は後代にまで強い影響を残します。しかし、源氏が平安京で圧倒的権威を誇ることはなく、むしろ後発の平氏側の台頭によって圧迫されてしまいます。そして源氏台頭阻止の決定的な裂け目となったのは、既にこのシリーズで伝えた1159年の戦争です。これを平治の乱と日本では呼びますが、この乱は「後白河上皇ー信西ー平清盛」という新時代の覇権を握るトライアングル構造に対抗する形で、「藤原信頼ー源義朝」が真っ向から衝突した出来事です。しかし、ここで源氏側の頭領であった源義朝(1123-1160)側は、平清盛率いる平氏に完敗。源義朝は平安京を何とか逃れて敗走し、東に向かって逃れる最中に尾張国(現・愛知県)で信頼していた家来の長田忠致の屋敷に隠れますが、平氏が源義朝の首に懸賞金をかけていたため、恩賞に目が眩んだ家来によって源義朝は殺害されてしまいます。

さらに平清盛は源氏の台頭をこの出来事を利用して抑止するために、源義朝を父に持ち、軍才の評判が高かった長男の源義平(1141-1160)を平安京内で捕らえて処刑。次男の源朝長は、敗走中に矢を受けた負傷が原因で死去します。この平治の乱で源氏側が勝利していれば、当然時代は変わっていたのですが、ここで平清盛側が圧勝し、さらに天敵・源義朝の勢力から台頭の可能性がある子供を一掃したことで完全に平氏の時代を迎えたのです。この時代、敵方の勢力が将来に復讐を企てることを避けるために、一族を悉く殺すことは普通でした。ですが、歴史は奇妙なことが起きるもの。なぜか、ここで平清盛は源義朝の血筋を全て殺すことをしませんでした。これが後に平氏滅亡のトリガーとなります。この時、本来であれば殺されていたにも関わらず、不思議な天命によって処刑を免れたのが、源義朝の子で13歳の源頼朝(1147-1199)だったのです。なぜ源頼朝が処刑を免れたかと言えば、平清盛の継母である池禅尼という女性が、捕まった源頼朝の姿を見るなり、幼くして死んだ我が子の生き写しだと感激してしまったからです。この子とは、平清盛にとっては実弟の平家盛のことです。僅か4歳で病によって没していたのですが、当時は仏教の信仰が厚かった事情もあり、この源義朝こそが平家盛の魂を引き継いだ生まれ変わりだと池禅尼が信じてしまったのです。平清盛は即時処刑を要求するも、池禅尼が幾度も懇願し、源頼朝を殺すなら私も死ぬと命乞いをしたため、平清盛はその説得に応じる形で処刑ではなく、流罪に処すことで決します。こうして若き源頼朝は処刑を免れ、平氏と近い関係にあった北条氏という氏族の管理する土地であり、流罪に処せられた人々の巣窟でもあった関東の玄関口である伊豆に流されました。

この時、もう一人の源義朝の子が助かっています。それが生まれたばかりの赤子です。その子の母・常盤御前は、当時平安京では知らない人がいない絶世の美女として評判が高かったのですが、源義朝の勢力壊滅を知ると、常盤御前はこれも運命と諦め、自ら平清盛のもとを来訪し、「子供の命を助けてくれるなら、私はあなたのものになります」と直談判します。平清盛はこの依頼に応じ、赤子や幼い兄弟の命を助けることを約束しますが、一つだけ復讐を回避するために武士にはしないという条件を出します。こうしてこの時に命を救われた赤子は少し成長すると、約束通りに武家の道を辿らず、京都北部の鞍馬寺に預けられ、僧侶になる訓練を受けるように強制されたのです。しかし、この時に命を救われた赤子は僧侶になることなく、当代随一の武士として圧倒的な軍才を持つ人物として登場し、やがて平氏と源氏の正面衝突となった源平合戦の先頭で手腕を振るい、平氏を滅亡させる直接的人物にまで成長します。

その人物の名は、源義経(1159-1189)。鞍馬山で天狗によって武道の秘術を伝授され、圧倒的な才能によって平氏を滅亡に追い込んだ人物です。私自身、この源義経ほど歴史上の人物で思い入れの深い人物はいません。小学生の頃に源義経に魅了されて剣道を習いたいと懇願した記憶もあるほど、私は源義経に惚れ込み、やがて彼の事績を辿って全国各地を巡ってきました。ここで源義朝の重要な兄弟である源頼朝は伊豆、源義経は鞍馬山に流れたことによって、源氏勢力は分断されたように思えますが、血筋という正統性の問題を存続させてしまったことで、やがて兄弟を処刑されたことで正統な河内源氏の末裔となった源頼朝が、平氏淘汰を主張する根拠を与えてしまうことになります。そこにはここまで触れてきたように、平氏の圧倒的権威に対する不満を抱えていた勢力の源氏側への迎合があったわけですが、天啓を授かった人物の生涯というのは、いつも不思議な幸運に包まれています。この源頼朝がまさにそうです。何しろ源頼朝は、正統な河内源氏の後継者でありながら、父や兄が殺された上、20年間も伊豆に流されていたことから、武力も財力もゼロで、もはや平安京に彼の名前を覚えておる者はおらず、名前も知られていない無名の存在でした。しかし、そのまま生涯が終わると思われたある日、突然、新天皇を自称する以仁王からの勅令が届き、源頼朝の数奇な運命は動き始めます。

ですが、武力もなければ財力もない。平氏のような実戦経験もなければ、関東側での政治には加担していたものの、所詮は平安京から離れ、中央政治に疎い伊豆で育った人物に過ぎない。このような人物が、果たしてどのようにして時代の覇権を掌握するに至ったのでしょうか。何しろ、源頼朝は以仁王の命令で挙兵はしたものの、平氏側勢力に即座に鎮圧されており、関東で生き延びるだけでも必死であり、平安京の情勢などに関係している時間も労力もなかったからです。そうした中、源頼朝の事情とは無縁に、平安京から平氏が一掃される大進撃が起こります。その先導を担って大躍進を遂げたのが、同じ河内源氏の出自を持ち、源頼朝や源義経とは従兄弟にあたる源義仲(1154-1184)です。平安京から見て北側の北陸を占拠し、そこから平安京に向かって南下した源義仲は、あっという間に周囲から平氏の軍勢を追い出して平安京を占拠。時代の覇権を握っていた平氏を一掃したことで、有頂天になった源義仲は、次の時代の覇者は自分だと豪語し、平安京システムの利権を自ら領有しようとし始めます。しかし、ここまでシリーズを読んで頂いたならば、なぜ一気に平氏は平安京から一掃されたのかと疑問に感じるかもしれません。実際、あの覇権を謳歌していた平氏が、いきなり現れた源義仲の軍勢に呆気なく破れるとは考え難い。しかし、この時に平氏内部ではとんでもない動乱が起きていました。それが、1181年3月20日の平清盛の死去です。

絶大な覇権を握り、たった一代で平氏の栄華を育て上げた平清盛。この人物の死を待ち望んでいた者は、平安京のみならず、全国各地に居ました。そして平清盛の死を耳にするなり、一気呵成に反乱勢力が声を挙げ、後継者不在の平氏を一掃する革命が勃発したのです。この筆頭を担ったのが源氏だったのですが、君主を失って動揺している平氏には、既に処刑していた以仁王の命令によって起きた反乱を食い止める統率力はなく、あっという間に平安京の覇権を進軍してきた源義仲に渡して西に向かって敗走します。ここで重要なことは、この反乱は平安京から見て東側一帯から起きていることです。平清盛は日本の西部は領有していたが、東部は手薄だったからです。かつて初代天皇に即位する神武天皇は西から東へ向かって進軍したが、今度は東から西へ向かって進軍し、平安京は陥落したということです。そして平氏を一掃して平安京に乗り込んだ源氏の源義仲は、自らの覇権を正統化すべく、ある人物を自らの影響下に置くことを試みます。この政略が、実は源頼朝が躍進する動火線となったのですが、その人物というのが、平清盛のクーデターによって院政停止されて実権を失い、平氏の管理下で幽閉されて身動きを取れなくなっていた前時代の平安京の独裁者・後白河法皇なのです。

こうして平氏からは解放されたものの、続いて平安京の作法を知らない平清盛以上に質の悪い武士・源義仲の勢力が平安京を席巻。この勢力は刀や弓を持つ荒くれ者の寄り合い世帯であったことから、平安京の情勢はさらに悪化します。そして彼が皇位継承に介入したことで朝廷側の反感を買う結果となり、我慢ならなくなった後白河法皇を含めた一勢は、苦肉の策として河内源氏の正統な血筋に位置する源頼朝の上洛を要請する事態になります。これが源頼朝の覇権復古の契機となり、一気に時代が転換する一大契機となるのです。こうして戦いの矛先は、源氏と平氏の二大巨頭の正面衝突と同時に、源氏内部の覇権を巡る内部抗争となり、この両方の戦乱に勝利した源頼朝が次の時代の覇権を掌握する君主となる日を迎えたのです。

この平氏から源氏への歴史転換点は源平合戦と呼ばれ、1180-1185年の6年に渡る内戦ですが、最終的には源頼朝率いる勢力が圧勝し、戦乱に勝利した源頼朝は平安京から遠く離れた東の鎌倉(現・神奈川県鎌倉)に鎌倉幕府を開き、真の武家政権発足の象徴的出来事となります。この時、平安時代は完全に終結し、皇族や貴族は平安京に幽閉される形となり、政治的実権を失い、以後数世紀は武家の管理下に置かれます。これは平安京という小さな世界を凝視すれば、天地がひっくり返るほどの衝撃でした。ゆえに794年以来平安京システムに寄生・依存してきた大勢の人々は、この時代に支えを失い、とてつもない混迷の淵に堕ちていきます。平安京は栄華から一変して荒廃し、治安悪化、食糧難を筆頭とする地獄の世となり、まさにこのシリーズで見てきた末法の世そのものとなります。この時代の転換点についていけなかったのは、平安京の皇族・貴族・庶民に限りません。実は、宗教家も全く同じでした。平安京から首都機能が分散されてしまえば、その分だけ覇権は弱体化するため、必然的に比叡山の権威も下落します。実際には首都は変わらず平安京でしたが、事実上の政治中枢は鎌倉と東に遷移していたため、中身のない首都というイメージです。こうして長年日本最強の虚構を建造して覇権を握っていた比叡山は、その強固な虚構の瓦解によって内部において動揺が生じます。

もはや比叡山の時代ではない。鎌倉幕府が成立して武家時代が本格的に幕を開ける12世紀後半から13世紀初頭にかけて、比叡山僧侶の中からそうした認識が広がります。ですが、彼らは新時代の兆候についていこうとしてこなかったため、いざ比叡山を離れるとなっても、一体自分が何をすれば良いのかは分からない。システムに自己家畜化して甘く生きてきた人々にとって、真に自分自身の意志で生きることは容易ではない。比叡山僧侶でさえこの有様だったのですから、平安京庶民はもっと酷かった。ですがこの時代の変動を見極め、旧来の価値観や信仰ではなく次世代を考え、行動する先駆的存在は既に比叡山を降り、平安京の地で独自の信仰を布教していました。その人物こそ、比叡山延暦寺のエリートコースを放棄して、自らの信仰を人々に広める使命を持って生きた浄土宗の宗祖と仰がれる法然(1133-1212)なのです。