道元論6On Dogen, Part 6
これまで数回に分けて、現在の京都が初めて首都機能を持ち、歴史を形成する794年の平安京遷都という大きな出来事を契機に始まったシステムの動きについて見てきました。平安時代とは、貴族による統治システムの樹立が皇族の権威を上回るようになり、数世紀をかけて皇族との間で実権を巡る闘争が起きた時代と言えますが、新時代のシステムが樹立・形成される動きにおいては、常に新たな利権を巡る様々な思惑が交差するものです。欲望という人類の果てのない問題は、常に歴史に通底していますが、平安時代を見る場合、特に注目すべきは、当時最大の覇権を握った仏教を隠れ蓑とした巨大な権力機構の存在です。
そもそも、平安京を建立する際の初期設計は、極めて高度に計算されて行われています。今回は限定して見ていきますが、まず、古代中国で鬼門という厄災や鬼が入る方角として問題視された北東の位置には天台宗の比叡山延暦寺を構え、そこを平安京の皇族・貴族の絶対的守護として設定します。つまり、平安京の絶対的守護という要を、既に日本で広がっていた仏教諸宗派の中でも、平安京遷都時に最新宗派であった密教の天台宗を有する比叡山がその役割を強く担ったのですが、同時に麓の都市自体の設計は、仏教ではなく、道教にルーツを持つ陰陽道という見えない世界を構築する専業集団によって、結界が四方に巡らされています。いわば平安京の都市設計は、密教的守護の絶対的権威として比叡山が北東、都市自体の四方は陰陽道によって守護するという重層的構造が取られています。さらに仏教、道教だけではなく、神道も関わっていますが、今回は触れずに進めていきます。
つまり、平安京システム、いわば京都の源流に流れて今も継承されているシステムは、見えない世界との対峙という強い意味を保持し続けながら現在も機能しています。事実、京都の最大の魅力は、この目には見えないシステムの探究にあります。ですが、一時代を作り上げたシステムが、数世紀の時を経て疲弊を起こす時、必ず大きな社会変動が起きます。この時、日本そのもの、あるいは世界そのものだった平安京という非常に小さな区画に生きた人々は、巨大な虚構から目を覚まさなければならない変革の時代を迎えます。誰もがある日突然、巨大な虚構から目を覚まさなければならない時、それまで己自身と向き合ってこず、システムに自己家畜化してきた人々は必ず惑います。同じことが現在、世界規模で起きていると私は見ています。
現在も、私たちは全体像を掌握することが不可能な巨大システムに、程度の差はあっても自己家畜化しています。そこから完全に抜け出してシステムの外を目指す動きは20世紀後半頃に高まりましたが、結局、何もできないまま疲弊して後退した現在の姿を考慮すると、そもそも、ここまで肥大化したシステムの外に出るという考え方自体が誤りの元凶だったことが見えてきます。個人的には、システムの外に出るという考え方自体が間違っており、その不可能をまずは自覚した上で、むしろシステムには内も外もないという考え方を実装する必要があると強く感じます。
なぜならば、私たちが実際に日夜経験している絶対的強度があるように思えるシステムでさえ、幾度となく崩壊してきたことを歴史は教えているからです。つまり、永続的なシステムなど存在しません。民主主義が典型的ですが、たかだか数世紀うまくいったシステムだからといって、それを普遍として見做すことが誤りのもとです。ただし、崩壊速度はシステムが巨大になればなるほど遅延を生じます。この理由は、システムの巨大化によって利権が複雑かつ広範囲に広がってしまうため、そこに寄生する旧勢力を一掃するための時間が非常に長くなるからです。
特に私たちが生きている世紀は、グローバルにおいてシステムが打ち立てられながら、同時にそれぞれの国家におけるシステム、あるいはさらに細部のシステムなど、無数のシステムが並行して同時存在しているため、四方八方に逃げ場がないという現実があり、常にオンの状態を求める生物の観点で見れば、あまりに過酷な時代に誰もが生きています。ここに便乗して、利権がグローバルに複雑化した実態については、この10数年で随分告発されてきましたが、だからといってこのシステムを完全に崩壊させることはできていません。
ですが、こうした絶対的に見えるシステムでさえ、確実に制度疲弊を起こしており、現在は崩壊が進んでいるわけですが、この崩壊がいつ頃まで続くかは分からないにしても、少なくとも今世紀の間で大きな変動を迎えることを私たちは予感しているはずです。そうした動きが日常的な些細な動きとして、特定の国家の動きなどとして多面的に現れてくるわけですが、要は旧勢力のシステムの利権が一掃され、新システムの新たな為政者の台頭が実現してくる時、大きな混乱が起こることを歴史は何度も何度も証明してきたということです。
こうした時代の結節点は、日本の歴史を考えるだけでも無数にありますが、大きな変化を考える場合、極めて限定的となります。そして、その時代の動きがいかなる動きを持っていたのかということを見極めることは、私たちにとって重要な学びとなります。ただし、そこにおける動きという意味は、歴史に描かれているシニフィエではなく、そこに生きた人々の心の動きをどう掴み取るかという心の技術になります。
はっきり言えば、歴史考察はここまでできないのであれば、ほぼ無意味であって、単なる参照でしかない。ゆえに歴史を見る場合、大きなフレームワークとして時代の整理されたシニフィエを前提にしながらも、決してそこを見るのではなく、シニフィエが際限なく生成されているシニフィアンの連鎖を掴まなければならない。この時に有効なのは、その時代を生きた意欲的な人物に徹底して焦点を据えて、その人物の心の動きを時代において洞察することです。なぜならば、そうした人物は、常に古い時代の動きと新しい時代の動きの結節点の中で心を変容させているからです。要するに、この時代の節目で心を真っ先に変容させることができるか否かが、次に進むことができるか否かの選別の見えない境界線となっているのです。さらにこの心の変容は、文化の創成などにも繋がる重要な動きとなるのですが、この動きの蓄積と全方位的な動きこそが、歴史それ自体だという捉え方を持つことは有効に思えます。
この視座を前提すれば、前回焦点をあてた巨大な権力システムとして裏首都、あるいは裏平安京と呼ばれる都市を征服していた天台宗の総本山・延暦寺を擁する比叡山という巨大な権力システムが一気に瓦解した動因に、たった一人の人物の登場があったことの本義が浮上してくるでしょう。つまり、数世紀に渡る時代の覇者であった比叡山とて、新時代を担うたった一人の人物の登場によって、脆くも瓦解することを歴史は伝えているのです。その新時代の頂点に君臨したのが、武家の筆頭格・平氏に出自を持つ平清盛(1118-1181)です。
これまでは、比叡山がなぜ巨大な権力システムになったのかという虚構の実態を浮上させるために、表のシステムである平安京における皇族と貴族の思惑に焦点をあてながら、その欲望の網目を縫って台頭する平清盛の父・平忠盛(1096-1153)の動きが、いかにして軍事を有する武士階級が台頭するために欠かせないファクターだった経済・政治の礎を一代で築き上げ、それを子・平清盛に引き継いだのかを見てきました。そして父が一代で用意した武家台頭の基盤を継承した平清盛にとって、彼が解体しなければならない最大の存在は、朝廷ではなく、比叡山でした。
既に伝えたように、比叡山システムの力の源泉は宗教にあるわけではありません。むしろ宗教的権威を悪用しながら、巧みに政治・経済の覇権を裏で掌握するコングロマリットの姿にありました。ゆえに、比叡山が一元化している莫大な資金源を断たなければ、比叡山の権力を打ち崩すことはできない。そこで平清盛は、日宋貿易の主要経路を一変させて、比叡山の利権が及ばない新たなルートを開拓してメインルートを構築します。この時、必然的に比叡山側との間に利権の衝突が発生したわけですが、大きく見るならば、平清盛と比叡山との衝突は様々な形で既に起きていました。まず最初は、比叡山の権威に屈服しないという、武士としての強い姿勢を示した大きな出来事が1147年にありました。
当時、平清盛は30歳で父・平忠盛が存命だったのですが、この時、平清盛の家臣が延暦寺の末寺である祇園社という場所で乱闘騒ぎを起こしたと伝えています。要するに、比叡山の僧兵(武装した僧侶)が平氏の家臣と知って挑発し、家臣がその挑発に乗ってしまったことから生まれた事件です。それほど比叡山側にとって、平氏の台頭は厄介な問題でした。
この時に、平清盛は家臣の責任問題を平氏に押し付けて勢いを止めようと謀り、強訴という比叡山伝統の卑怯な方法で、朝廷に揺さぶりをかけようとする僧兵の担ぐ比叡山の御輿に向かって矢を放ちます。この御輿は当時は比叡山の権力の象徴であって、イコールで平安京の幻想の実体でした。つまり、この御輿の存在こそが皇族や貴族が比叡山に対して手出しできなかった最大の理由だったのです。それは平安京遷都の主軸であった桓武天皇以来の御霊を奉祀し、皇族の平穏無事を祈る加持祈祷の担い手である比叡山の象徴が神輿だったからですが、要するにこの神輿は、皇族ー比叡山の権力の象徴的源泉でした。つまり、平安時代に生まれていた共同幻想の実体化としての象徴が比叡山の神輿なのですが、この数世紀に渡る誰も手を触れることの許されない神聖な神輿に対して、当時はまだ野蛮と見做されていた一人の武士が一本の矢を放ち、神輿を射ても祟りがないことを自ら証明したのです。
これは平安京始まって以来、はじめて起きた大事件でしたが、平清盛の名前が高まる契機となります。何しろ、それまで比叡山僧兵が神輿を担いで数千人の僧兵を従えて平安京で強訴を行う際、宗教的厄災を恐れて逃げ惑うことしかできなかった貴族の無力を晒すことになり、武士こそが新時代のリーダーに相応しいという姿を平清盛は人々に示したからです。同時に、貴族ー比叡山の結託による利権に掌握に苛立っていた皇族にとっても、比叡山を抑えるためには平氏の武力が必要だと判断する材料となりました。
平清盛が放った一本の矢が、まさに時代を変革したのです。つまり、この比叡山の神輿に放った矢は、比叡山による裏首都の権力機構の虚構を解体する最初の攻撃となったのです。
比叡山の御輿を傷つける行為は、当時は死罪です。しかし、既に朝廷に深く入り込み始めていた平氏の跡取・平清盛に対する処分は、罰金刑だけで済みます。この朝廷の簡易な措置に対して、比叡山は数千人の僧兵を再び平安京に遣わして強訴を行い、平清盛の流罪を求めたのですが、朝廷が強訴に応じなかったため、比叡山の暴走に不満が募っていた朝廷や平安京の人々は、神罰を恐れずに武力で対抗した英雄として平清盛を祭り上げます。これは比叡山にとっては、致命的なネガティブ・キャンペーンでした。なぜならば、比叡山の権力の源泉は、幻想自体を実体化し、それが永続的に神・仏の威光を放って存在するという虚構を作り上げることにあったからです。しかし、武士が放ったたった一本の矢によって、比叡山の虚構は崩れ去ります。これが、平安京の庶民たちに強烈な影響を及ぼしたのです。既に貴族も皇族も比叡山にも期待も希望も持っていなかった庶民たちは、平氏という自分たちとかなり近い存在に、新時代のリーダー像を求めていったということです。同時に、比叡山延暦寺の天台宗に対する宗教離れが高まる重大な契機が生まれます。
この1147年がターニングポイントだということを頭の片隅に入れておいてください。数世紀に渡る絶対的な宗教権威だった天台宗の瓦解の決定的となった1147年、既に新時代の宗教家の萌芽は、この延暦寺の中にあったからです。それが、法然(1133-1212)です。
この時代の人々の生涯は不明瞭なことが多いのですが、少なくとも法然は、12歳の1145年には比叡山延暦寺に登っており、優秀な才覚が評価されてエリートコースを邁進していました。実はちょうどこの1147年に、法然は当時の天台宗座主(最高指導者)を担った行玄(1097-1155)から直接教えを授かっており、授戒を受けています。つまり、エリートコースとして延暦寺の出世街道に乗った若い時代に、その精神的支柱である比叡山の覇権が武士の平清盛に打ち砕かれる衝撃的な事件があったのです。実際に法然が延暦寺に見切りをつけて比叡山を降り、浄土宗という新たな宗派を説き始めるのは1175年の43歳の時ですから、いわば1147-1175年の約30年間という期間は、法然にとっても平安京と一体であった比叡山の覇権が瓦解する渦中と共にあったということです。ここが浄土宗勃興の肝心です。
法然の存在を考えると、私はいつも1997年頃から始まった現代日本の「失われた30年」(実際、現在も失われた40年に向かっていますが、、、)と重ねるのですが、法然にとって1147-1175年はまさに比叡山の失われた30年の渦中そのものであり、やがて自らの使命に生きるための準備期間であったと言えるでしょう。実際、この失われた30年に比叡山は平清盛に完全敗北します。なぜ、法然が長年修行した比叡山を去り、浄土宗という新たな信仰に目覚めたのかは、実は平清盛と比叡山の戦いから開示することができます。
現代日本は、官僚主義の最悪の形である前例主義によってシステムが強固に形成されており、前例のないことは絶対にやらないことが横行していますが、当時も事情は同じです。しかし、前例主義の社会の仕組みとして興味深いのは、一度誰かが新たな前例を作ってしまえば、一気に時代の風向きが変わることです。この視点を平清盛に適用すれば、まさに平清盛は1147年に最高権力であった比叡山の神輿に矢を放つ行為によって、神罰を恐れずに武力で権力に対峙できるという新たな前例を作りました。これが、一気に比叡山の覇権が瓦解する合図となったということです。前例が崩れる時の、場の力学の働き方を示す出来事と言えます。
そして前回の記事で示した通り、1156年の崇徳上皇と後白河上皇の皇族内部対立から始まった内戦の勃発で、平清盛は後白河上皇側の軍事勢力として敵方を破って台頭すると、武士の力が国家の命運を握るという新時代のイメージが決定的となります。ここから躍進を遂げた平清盛は、1167年には太政大臣という朝廷の最高職に武士として初めて上り詰めます。これはまさに、文字通り国家運営の政治のトップに武士が立った象徴的瞬間でした。ただ同時に激動の時代を生き抜いた平清盛は、翌1168年に病を理由に出家します。しかしこの時、天皇が権力を裏で掌握し続けるために、あえて退位して上皇の座につく院政システムが樹立されており、これと共に平清盛は躍進してきたわけですから、このシステムを独自に応用し、出家しても俗世のルールに縛られずに、権力維持を行う「入道」という形で影響力を保持し始めます。
続いて1169年6月、平清盛と共に一時代の権力を掌握し続けた後白河上皇も出家して法皇として在位。こうして一旦、表向きに新時代の指導者二人が出家した契機を見計らい、再び比叡山が数千人の僧兵を動員して、失った利権奪還を目論んで強訴を行います。この強訴は、一応表向きの理由は、後白河法皇の最側近である藤原成親という人物が、当時尾張国(現・愛知県の一部)の知事を兼任していたのですが、ここで藤原成親の部下が尾張国にあった延暦寺の末寺と紛争を起こして、その建物を焼き払った事件に始まるとされています。これに比叡山側が激昂し、藤原成親の配流を要求する強訴を行なったのですが、ここまで読んで頂ければ分かる通り、これは長年の後白河法皇ー平清盛という時代の為政者に対する比叡山側の恨みの爆発です。
比叡山の意図は、朝廷が藤原成親を配流すれば、それはイコールで後白河法皇の最側近を罷免することを意味して朝廷を動揺させられること、それと同時に激しい強訴を平安京で行うことは、首都警護を一任されている平清盛の責任問題へ繋げることができるからです。要するに、一気に邪魔な二人を叩こうとする比叡山側の目論みですが、出家しても裏で覇権をがっちりと握っていた平清盛は、この強訴の話を聞くなり、即座に数千人の平氏の武士を平安京の御所に配備し、僧兵と真っ向から対峙します。この時、数千の重武装した平氏一門の武士たちが御所の門前に配置され、数千の僧兵が御輿を担いで御所に強行突破しようとすると、武士は僧兵に矢を構え、刀を抜き、力で押し返すという武力による威圧を行います。
つまり、数千の武士と数千の僧兵が真っ向から対峙した時代の節目です。それほど時代は狂っていたということです。しかし、既に比叡山の僧兵は平清盛が神輿の権威に動じないことを知っていますから、平清盛が率いる武士の強烈な殺気を受けて、何と僧兵側が恐れを為してしまい、数千人の僧兵は比叡山の御輿を残して逃げ惑い、比叡山に一斉退却するという不様な姿を晒します。
これが比叡山没落の決定打です。この結果、神の威光を掲げた御輿という比叡山にとって支配の精神的武器が、物理的暴力である訓練された軍隊の軍事力の前では全く通用しないことを平清盛は証明し、平安京の人々は比叡山の終わりを確信し、武士の時代を認めたということです。この瞬間、比叡山の権力は瓦解し、平氏の権力が一気に増大化する契機となります。
こうして平清盛は、弱体化した比叡山の権力機構に留めをさすのですが、この徹底的な旧勢力の一掃があまりにも短期間で行われたことから、そこから数世紀の大問題となっていきます。次回以降は、比叡山が終わった瞬間と照応して起きた旧勢力の宗教宗派の一掃。そこから台頭する浄土宗の動き、さらに新時代の覇権抗争となる激しい武家同士の対立について見ていくことにします。