道元論7On Dogen, Part 7
1169年、数千人が平安京の御所前で対峙した時代の覇権を巡る新たな戦い。旧勢力の比叡山から雪崩れ込む武装した僧兵と、新勢力の武家として朝廷に深く入り込んだ平清盛が支配する平氏の軍勢。しかし、その結末は決まっていたのかもしれません。なぜならば、いかに僧兵とは言っても所詮は比叡山で訓練された宗教教団専門の武装組織のような存在でしかなく、彼らの目的は脅しであって戦闘ではなかったため、平氏のように各地で強敵と実際に戦闘を行い、勝利し続けて自らの覇権を己の手で築いた武士という、戦いを専業とする集団と対峙した場合に勝てるわけがなかったからです。つまり僧兵の実態は、宗教的権威を掲げて比叡山の共同幻想において威勢を張り、約束された安心のもとで暴徒化した僧侶に他ならず、同じ他宗派の僧兵同士などでは小競り合いはあったものの、本格的な戦闘経験で言えば、平氏の足元にも及ばなかったからです。
いわば、平安京それ自体を築いた原動力として君臨し続けた比叡山の虚構による権力機構は、武力自体をそもそも生業とする平氏という新時代を象徴する人々の登場によって、一気に形勢が逆転したということです。これが比叡山没落、さらに言えば平安時代の息の根を止める瞬間となり、この時点で数世紀に及んだ貴族ー皇族ー比叡山によって構築されてきたシステムは崩壊します。京都の小さな一画を世界そのものと見做して安寧してきた人々は、突如システムに内も外もなかった現実自体に直面します。これがいつの世も、文明が終わる過程で起きることです。
こうして激動の1170年代に突入します。比叡山の覇権が崩れ去り、新時代に移行する象徴的契機となったのは1177年です。覇権の終わりにあっても、加速して失われる自らの築いた利権システムに固執し続ける比叡山は、既に覇権が自らの手中になく、新たな武家へと移ったことを認めようとしませんでした。つまり、数世紀の覇権を握ったからと言って、永続的に覇権を維持できることは有り得ず、何よりも最強のシステムに思えた虚構が崩壊するのは一瞬です。現在、世界は同じ事態に直面していますが、旧勢力は比叡山同様の醜態を晒しています。既に覇権が自らの手中になく、新たな勢力に移ったことを認めることができないのです。この結末は、いつも悲惨なまでに残酷です。
時代を見極める力を失った比叡山は、ここでも再び数千人の僧兵を動員して強訴を計画。この時点で比叡山がもはや新たな方法を用いて体制を揺るがす力はなく、前例のあることしかやっていないことが見えてきます。しかも8年前の1169年に、僧兵を数千人動員して同じく強訴で朝廷を揺さぶろうとするも、平安京で対峙した平氏の武士を前にした時、あまりの殺気と圧力で僧兵は比叡山権力の象徴である神輿を置き去りにして逃げ帰った完全敗北を喫しているにも関わらず、相変わらず前例以外のことはできない醜態を晒していました。
もはや、比叡山に時代に抗う術はありません。このまま比叡山衰亡は決定的かと思われた時、時代は興味深い動きを見せます。ある意味、この動きが比叡山を救うことになり、今日まで存続できた主因だと言えます。それが、このシリーズで触れてきた時代の独裁権力に依存した後白河法皇の暴走だったのです。ここで後白河法皇が暴走しなければ、もしかすると現在の比叡山はなかったかもしれません。なぜならば、弱体化して再起不能と思われた比叡山は、後白河法皇の暴走によって生まれた平清盛との間の亀裂によって、それまで比叡山に対する強硬姿勢を取ってきた平氏の政治戦略が、方針を変えて比叡山側と折衷する方向へ向かい始めたからです。
ここは考察がかなり難儀ですが、丁寧に見ていきます。まず、後白河法皇が独裁体制を敷き始めた頃の懸念が比叡山の暴走と、平氏台頭にあったことを既に書きましたが、この1170年代はまさに両方が重なり合った時代です。ここにおいてもなお、後白河法皇は独裁者として君臨し、自らの側近と共に覇権維持を目論んでいたのですが、新時代の才覚を持って台頭した平氏のリーダー・平清盛は、既に皇族の覇権も終わったと見ていました。
実際、完全な武家の時代が到来する姿を自らの存在によって示した平清盛は、1167-1168年にかけて病気などを理由に表舞台から退き、出家をして入道として新たな支配構造を目論みながら、平安京を離れた現・神戸付近の福原に本拠を移していました。この時、平氏の家督は長男の平重盛(1138-1179)に委譲されていますが、事実上、平氏の影として君臨していたのは平清盛です。ある意味、平清盛の登場によって平安京システムの権力構造が崩壊し、再構築に入る寸前の最も難しい舵取りの時代に入ったということです。この時、比叡山や貴族同様、院政の覇権を握り続ける後白河法皇にも、この動きを見切る力はありませんでした。
大前提として重大なことは、既に最高権力を獲得していた平清盛が、これまで敵対していた比叡山に対する考え方を刷新していることです。これは平氏と比叡山が真っ向から軍事衝突すると、平氏が勝利しても双方共に壊滅的打撃は避けられないことを当然ながら熟知していたからです。また双方の兵力は、合わせれば数千人規模の軍事力の正面衝突となり、主な戦場となる平安京が焼け野原になることは目に見えています。元々、平氏の台頭は貴族や皇族や比叡山とは異なり、庶民に近い立場から出世しているため、平安京庶民の支持を裏切れば、平氏も旧勢力と同じと見做されてしまい、これまでの苦労が水の泡です。
そして、平氏と比叡山が全面的に軍事衝突することを願う勢力が居ることも、平清盛は朝廷での執政経験から理解していました。つまり、武士の時代の原型を築き上げた平清盛は、ここから始まる武家の本格的な時代の形成を見た時、ここで巨大勢力である比叡山と真っ向から衝突することは双方に何の利益も生まないと判断したのです。さらに平清盛からすれば、既に比叡山は平氏に事実上屈服していたため、もはや大した問題ではなく、むしろ問題の矛先は院政自体に向かっていきます。この平氏の実権者である平清盛の比叡山に対する考え方の転移は、文字通り、比叡山を救うことになります。
ここで重要なことは、この視方は単に平清盛だけが理解していたわけではなく、比叡山側で1167年に最高権力者の座主に就任していた明雲も、同じ考えを共有していたことです。明雲は平清盛とも後白河法皇とも関係が深かく、双方の出家に関わっていたのですが、何より平清盛と深い関係を築いていました。つまり、平清盛にとって明雲は、従来の比叡山のリーダーとは異なる話の通じる相手であり、双方共に院政の意向で争うことは得策ではないと判断していたのです。この従来敵対していた平氏と比叡山の関係が、平氏のリーダー・平清盛と比叡山の座主・明雲の接近へと転化したことを危惧したのは、言うまでもなく院政の権力者・後白河法皇です。つまり、歴史はここで平氏と比叡山の関係を安定させる驚くべき動きを見せたことにより、むしろ皇族の最高権力者を抑止する動きへと向かったのです。
この両者の接近に強烈な不満を抱いたのが、後白河法皇とその側近です。そして彼らは平氏と比叡山が結託すれば、自らの覇権も一掃されることを懸念し、ある行動を起こします。その発端は1177年、平安京から離れた加賀国(現・石川県)で起こります。この時、延暦寺の末寺として巨大な勢力を誇っていた白山と、加賀国の地方官僚が紛争を起こし、平安京を巻き込む大事件へと発展していきます。実は、この事件に関わった加賀国の地方官僚とは、後白河法皇の第一の側近として寵愛された西光(-1177)という人物の二人の息子です。
簡潔に言えば、西光の子が3月に白山側と問題を起こし、一方的に寺院を焼くという問題を起こしたのですが、これに激昂した比叡山の僧侶や僧兵が神輿を担いで平安京に押し寄せる強訴を行い、西光の息子の処罰を求めたのです。しかし、独裁者として自らの言いなりになる友人で周囲を固めていた後白河法皇は、最も近い側近であった西光の子を処罰するも、むしろこの事件は比叡山僧侶による院政への挑発だと主張し、僧侶の分際で院政を脅すとは何事かと逆に憤激します。ある意味、延暦寺からしても西光という独裁者の右腕を地位から挫く目論みが見え隠れしていますが、ここで後白河法皇は僧兵に対抗する形で平重盛の軍勢を派遣するも、ここで双方が衝突したことによって問題が肥大化します。
一時は鎮静したかに思えたこの事件の処置でしたが、一ヶ月後の4月28日に平安京で大火災が発生し、天皇の大極殿や公卿の邸宅が無数に焼失すると、事態は動き始めます。この火災の原因は不明となっていますが、直後の5月4日に後白河法皇は、自らの寵愛する西光の地位を保持するために、比叡山の最高権力者である延暦寺の座主・明雲を逮捕する命令を下しており、5月5日には延暦寺の座主を解任、所領を没収した上で伊豆国へ配流するという暴挙に出ていることを見逃してはなりません。この間、自らの子が流罪となって嘆き悲しむ西光は、この事件の黒幕は明雲だと後白河法皇に何度も訴え、処罰を進言していました。
明雲は院政権力の暴走によって、座主の地位を剥奪されて伊豆に流罪と決まったのですが、その背後で、実は暴走を始めた後白河法皇と西光が平氏に対して武力で比叡山を制圧せよという指令を下していました。これは、明らかに旧勢力の筆頭である後白河法皇の院政勢力が、邪魔だった平氏と比叡山を一気に潰そうとする謀略です。この時、西光は明雲を拷問しており、その上で伊豆国という当時の平安京から見て東の彼方の離島に流罪にする措置を取るのですが、比叡山のトップを拷問し、流罪に処す措置に対して、強烈に反発したのが1万人を超える比叡山勢力です。こうして、大事件が勃発します。
明雲を配流する道中、比叡山勢力の本拠地・近江国(滋賀)で比叡山の僧兵が朝廷の護送車を襲撃し、明雲を奪還して比叡山に連れ戻します。これは朝廷から見れば反逆です。ある意味、朝廷を掌握する後白河法皇にとって、延暦寺破壊の理由が生まれたのですが、それは宗教が皇族の法律を拒むなら、その本拠・比叡山を破壊しても構わないという論理です。もはや幼稚な私欲の喧嘩になっていることが分かります。実は、この奪還が行われる可能性は院政勢力も念頭に置いており、身柄輸送時の責任者だった人物に対して、仮に奪還作戦が行われた場合、即座に明雲を斬首することを命じていました。しかし、そうした指令まで伝えていたにも関わらず、奪還作戦が行われて成功したという事件を聞いた後白河法皇と西光は絶句します。そこで即座に西光は後白河法皇に対して、明雲と比叡山に厳罰することを進言したのです。
独裁者である法皇に反逆する比叡山の態度に激昂した後白河法皇は、強硬姿勢で平氏を率いる平清盛の子の平重盛と平宗盛に対して、即座に軍勢を派遣して比叡山を攻め滅ぼせと厳命します。要するに、延暦寺を襲撃して焼き払えということです。この後白河法皇自らの攻撃命令の指令は、1177年5月末に発布されています。
1177年から数年後の1181年に平清盛は没しますので、彼は既に晩年を迎えており、平安京を離れた神戸付近の港付近にある福島に本拠を構えていました。ですが、この後白河法皇による衝撃的な攻撃命令を受けた平重盛と平宗盛の両名は、流石に自分たちでは判断できないと思慮し、即座に父・平清盛に判断を求めて福山に向かいます。ここで晩年だとしても、己の腕だけで最高権力まで上り詰めた武士の気概は並大抵ではなく、平清盛はこの朝廷の動きが後白河法皇勢力による陰謀であることを見抜き、ただ事ではないと事態を理解した平清盛は、即座に息子の要請に応じる形で平安京に向かい、5月27日夜に平安京入りします。
そして翌28日、平清盛は直接後白河法皇と会見し、自らの子に下した比叡山攻撃命令について、思いとどまらせようとします。平清盛は後白河法皇に対して、平氏としては比叡山と正面衝突することは避けたいと主張し、攻撃命令に対して消極的な態度を見せるのですが、この態度に対して後白河法皇は激昂し、命令を効かない平清盛を強硬説得します。結果、平清盛は院政の暴走に対して為す術なしと判断し、即座に子に命じて平安京を筆頭とする比叡山周辺諸国の武士を動員し、6月1日に攻撃作戦実行と決断します。
運命の1171年6月1日の夜半。もし、準備万端の平氏の軍勢が比叡山に攻め入っていれば、周囲から総攻撃を受ける比叡山に勝ち目はなかったでしょう。しかしこの日、平氏が比叡山を攻撃したという記録は何も残っていません。一体、何が起きたのか?
実はこの夜半、一人の人物が平清盛が最後の覚悟を決めていた邸宅をひそかに来訪し、重大な密告を為したことによって、歴史の運命は一変したのです。この一つの密告により、平清盛は比叡山襲撃を即刻取りやめ、この軍勢を別の作戦行動に転用します。本当に平氏による攻撃が行われていれば、この日に没することになったのは比叡山の明雲ですが、この日に没したのは意外な人物でした。それが院政最大の陰謀者で、後白河法皇の最側近として寵愛されていた西光だったのです。
この密告の内容は、院政の為政者が結託し、平氏と比叡山を全面衝突させることによって弱体化した平氏を打倒する謀略です。この謀議の先頭に立っていたのは西光で、西光を中心とする院政の政治家が結託して行われたものでした。この謀議を聞くなり、平清盛は比叡山攻撃を中止、既に大規模戦争に備えていた軍勢を動員し、一転して平安京市内に作戦指令を転化します。それが謀略を行なった西光を捕らえて自供させ、そこで名前のあがった人々を捕らえて反平氏勢力を一網打尽にすることでした。より正確に言えば、暴走して歯止めの効かない旧勢力の独裁者・後白河法皇率いる院政を瓦解することです。
こうして瞬時に平安京市内は平氏の武士で溢れかえり、異様な雰囲気に包まれます。軍勢は西光を捕縛して平清盛の前に連行し、拷問をかけて謀略の全容を自供させた上で即時斬首。この西光の自供で名前の上がった政治家は、次々と一網打尽にされます。
当時、比叡山側も平氏がいつ攻めてくるかと恐れ慄いていたわけですから、この軍事作戦に驚いたのは延暦寺も同じでした。そこで事情を知ると、比叡山側の僧侶は平清盛に使者を送り、西光をはじめとする院政勢力の敵を討伐したことへの感謝を述べ、おとなしく比叡山に引き上げていったのです。こうして5日に明雲は配流を解かれ、9日には配流されていた西光の子の一人が平氏の襲撃によって惨殺。もう一人は崖から突き落とされて殺害されて、全ての問題は平清盛の手腕によって迅速に片付けられました。
この事件は、当時から西光の謀議が事実か否かなど議論が続いていますが、少なくとも、早急に全ての作戦を終えた平清盛は、作戦終了後に福原に引き上げています。つまり、ここで後白河法皇には何のお咎めもなかったのですが、これは皇族に直接手を下すことは、平氏の後の覇権に様々な遺恨を残すことを憚ったからだと考えられます。真相は定かでないものの、実は平清盛が既に子の世代に次を委ねている中で、平氏内部の権力闘争が起きていた側面もチラついており、実際、当主となっていた平重盛は、事が終結した6月5日に重病もあって職を辞任しており、かわりに平宗盛が平清盛の後継者として台頭する契機となります。この平重盛は親院政派と言える穏健な人物で、当時最高の権力者である後白河法皇と平清盛を結ぶ最後の要となっていたのですが、平重盛が表舞台を退いたことで、遂に両者の衝突が起きます。
何しろ、平清盛が比叡山側との衝突を回避して院政側の主勢力を一掃したことは、長年権力維持のために深い関係にあった平清盛と後白河法皇の関係に決定的な亀裂が生まれることになったからです。そしてこの結果、一時代を築いた平清盛の権力に綻びが生まれ、平氏の絶対的覇権の掌握という夢は、思わぬ形で崩壊することになるのです。