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道元論 3On Dogen, Part 3

日本の禅の歴史で欠かすことのできない、最重要人物・道元の思想を見ることは非常に難しい。彼の哲学自体は単純明快なものの、私の興味は、どうしてこのような本質を抉る哲学が13世紀初頭に現れたのかということにあります。何しろ道元の生きた時代前後は、日本史の中でも有数の動乱期であり、非常に様々な思惑が重層化した複雑な歴史であることから、見抜くことは容易ではありません。ですが、私はこうした時代における道元の生き様の中に、禅の真価があると考えています。

彼の生きた時代を形成する歴史を鑑みると、一体、道元はこうして激動の時代において、どのように信仰を育み、そして如何に生きたのか。道元の生涯は私を感激させますが、そこには現代の私たちに対する多くのヒントが秘められているからかもしれません。特に、彼の生きた時代に仏教界に存在した最大の問題は、当時の首都・京都において、巨大な権力機構の権化となっていた比叡山延暦寺の天台宗と、それに反発する形で登場した法然(1133-1212)と親鸞(1173-1263)が新たに提唱した浄土教の分断です。

この時代、なぜ人々の間に既存の仏教宗派ではなく、新興の浄土教が広まったのかといえば、庶民は当時の生活次元において、仏教でいうところの地獄の現実を生きなければならない時代だったからです。今も貴族政治が行われた平安時代を恣意的に美化して、貴族の華美さや京都文化を強調する捉え方がありますが、それは現・京都市内の極めて僅かな区画の内部だけを安全圏と見做し、そこにおいて凄惨な現実ではなく、疎外した現実性によって作られた虚構の世界を恣意的に語る陳腐なものでしかない。現在も京都に付き纏って離れない強固なイメージは、私から見ると、あまりにも誇張が甚だしい事実があります。

むしろ、794年に京都市内に初めて都を建造する際、四方を守護する結界を巡らせた陰陽師の台頭を考えても理解できるように、こうした視方は疎外された現実性をいつまでも保持しようとする安寧の偽装に他なりません。ですが、偽装は偽装である以上、いつかは暴かれてしまうもの。それこそが、この時代の京都の実像であり、道元に限らず、法然や親鸞が登場した土壌なのです。問題は、彼らの信仰の良し悪しではなく、彼らが何と内的格闘していたのかということを掴み取ることです。そこを掴み取ることによって、信仰の起源を察知することが可能になります。

貴族は危機の時代であっても、広大な自邸に籠っていれば良いが、民はそうはいきません。逆に言えば、貴族が引き籠って現実逃避を高めたからこそ、徐々に現実自体が露わとなり、その現実に生きる武士の台頭を許していったということです。つまり、現・京都市の僅か一区画のみが平安京の世界であり、日本の世界であった状態から、徐々にシステムの為政者である貴族や皇族が自邸に閉じこもり始めたことによって、この僅かな区画で現出されていた疎外された現実性の強度というか虚偽性が弱体化し、一気に現実が発露する契機を開いたということです。そして、元々システムの外を生きてきた武士は、その存在によって京都に張り巡らされた結界という疎外された現実性の虚偽を破っていったと言えます。つまり、武士は存在によって京都の現実性を消失し、現実を露わにする最もラディカルな存在だったのですが、この観点を見極めることが重要です。旧来の疎外自体を破棄する力を、新時代の為政者は持つということです。

武士の台頭によって、これまでシステムによって隠蔽されていただけの現実が露わとなり、抑え込まれていた現実が、洪水のように四方八方から小さな京都という世界に襲い掛かります。当然ながら、数世紀も虚偽の中で安寧を装っていた貴族階級に為す術はない。そして当初は平安京の鬼門を守護する役割を担って躍進するも、歳月と共に権力重視へと転移し、単なる京都システムの一翼を担うに過ぎなくなった天台宗・比叡山延暦寺の僧侶にも為す術はない。

つまり、当時の日本式システムとは、首都・京都の限定的な一帯だけを指すものであり、このシステムを支えたのは、「貴族・皇族・延暦寺」によって構成される為政者の狭い世界でしかなかったのです。言い方を変えれば、これが平安京を構築した一つの正体であり、現在の京都市もこのゾンビ化した亡霊を引きずっています。

この既存システムの利権の外で歴史が始動した武士は、現実性で全てを隠蔽する為政者よりも、当然ながら現実それ自体を生きていますから、従来の為政者が現実自体から生まれる無数の問題に対処できないことを誰よりも理解していました。こうして時機を見極めて、着実に為政者を淘汰し、新たな実権を握る動きに入っていったのです。いわば、現実性に対する現実の復讐と言え、現実性が新たな現実性に転移する契機を担ったということです。そのため、貴族システムから武家システムという日本の重要な為政者の変動は、野蛮な武力闘争から起きたものではないということです。ここには、現実と現実性の問題が潜んでおり、その動きの変動が信仰の形態をも一変させていきます。この見えない動きを見抜くことによって、信仰の発露が見出せるのです。

激動の時代が幕をあけると、決まって先に現実の脅威に直面するのは、為政者ではなく民です。民は容赦ない現実によって、飢饉、疫病、災害、戦乱が日常となる世界において、親兄弟を殺し、食べられるものは何でも食べなければ生きていけない残酷な日常を過ごしていました。この時、既存の仏教宗派の信仰は、民にとって全く役に立ちません。安寧な時代であれば、暇潰しやコミュニティ形成(つまり寂しい感情の隠蔽)、現実逃避に既存の宗派は役立ったが、現実という危機に直面した時、何の実用性もなかったということです。

そして現実に生きる彼らからすれば、巨大な邸宅で過ごす貴族や皇族もそうだが、比叡山に籠ったまま街の現実を知らない天台宗の僧侶や、高野山に籠ったまま街の現実を知らない真言宗の僧侶は同根であり、しかも現実逃避を美化するために密教的世界という神秘に安寧し、何も現実に立ち向かおうとしない卑怯な為政者の一部に過ぎないと映ります。この時、人々の既存宗教に対する信頼が完全に崩壊したのです。

一方で、こうした首都・京都の悲惨な光景を目にして、既存仏教に救いを求めず、異なる角度で答えを提示する新たな僧侶が登場します。その先達となったのが、法然と親鸞でした。そもそもこの頃、比叡山延暦寺は学問の最高峰として君臨しており、貴族や朝廷に重宝されていたのですが、それは表向きのことで、実際には貴族への出世コースの最短ルートとして比叡山が位置づけられていたということです。つまり、根本的に貴族と天台宗僧侶は癒着していたのですが、当時は貴族がシステムの担い手ですから、これを悪用した延暦寺の僧侶は暴走を始め、僧侶が武器を握って僧兵となり、京都市内に出て好き勝手に暴れ回り、欲望の限りを満たしていました。彼らは、信仰を表向きに掲げた私欲の暴虐的な獣でしかなかったのです。

この時代に法然は、腐敗した比叡山延暦寺の中でも随一の知性を持つ僧侶と評価されていたのですが、どれだけ延暦寺で修行しても、あらゆる仏典を読んでも、自分の中に煩悩が消えないことに絶望していました。この苦悩の果てに彼は、既存の仏教の根幹である「自力本願」では、自分のような凡夫は一人も救われないのではないかという懐疑を抱きます。この懐疑が、後に人々の救済を願っていく法然の大きな動きとなり、延暦寺を筆頭とする既存の権力に固執・癒着した仏教教団への強烈な批判となっておきます。簡潔に言えば、反延暦寺です。

ですが、法然は中々次の道が見えなかったため、延暦寺を離れることはありませんでした。しかし、1175年の43歳の頃に、善導(613-681)という古い中国の浄土教家の書物の中にある一文を偶然見出して、法然の人生が決まります。そこに記されていたのは、「ただ念仏を唱えれば阿弥陀仏の誓いによって救われる」というものでした。

一般的に、仏教では膨大な仏典を暗記・暗唱することがエリートコースへの出世とみなされていたのですが、この7世紀の時点で善導は、そのような知識の蓄積には全く意味がない。外に知識を求める僧侶の態度には意味がなく、真理もそこにはないことを断じていました。そこで、念仏だけを唱えていれば救われるという画期的な視座を提唱します。この言葉に救いを見出した法然は、即座にエリートの出世コースに乗っていた自らの全ての地位を捨てて、比叡山を降りる覚悟を決めます。こうして彼は、京都の東山にある吉水で独自の布教を開始しました。これが、日本の浄土宗の始まりです。念仏だけ唱えれば、身分も能力も関係なく救われるという強いメッセージは、ここから始まる末法の時代を生きなければならない人々にとって、唯一の光となっていきます。

11世紀中期の1052年頃から、日本では末法に入ったと信じる動きが高まっており、社会は極度に不安定になっていました。末法とは、仏の教が形骸化し、悟る者が誰も居なくなった絶望的な世界を表す仏教の世界観ですが、要するに、仏教の既存宗派は政治活動にばかり熱心だが、もはや仏に対する信仰は消え失せたと人々が考え始めた転換点を表しています。末法の到来は、元々仏教の予言として扱われていたものですが、この末法の始まりが1052年頃から強く認識されて以降、貴族を中心に極楽往生への執着が強まる時代を迎えています。そこから本格的に末法の時代に入っていくのですが、大体100年程度が経過した後、末法に対して何も為す術がなく、相変わらず私欲に自惚れている延暦寺の天台宗に対する強烈な反動として登場したのが、法然だと捉えれば理解が進むでしょう。

法然が布教を始めた直後から、京都は文字通り滅びの時代を迎えます。その一連の流れを克明に記録した貴重な鴨長明(1155-1216)の著作『方丈記』を見ると、あまりの悲惨さに絶句するほどです。というよりも、かつて京都がこの著作で描かれる光景が広がっていたとは、今では誰も想像できないでしょう。

『方丈記』によると、1177年に京都で大火災が起きて京都市街の3分の1が焼失。吹き荒れる嵐の中で火が飛び火したことによって、貴族の邸宅も宝物も一瞬で灰になったことが記されています。つまり、それまで知識など外に答えを求めて自らに溜め込んでいたものなど、末法の世が来れば一瞬で吹き飛ばされて消失し、何の意味もないということを如実に示したのです。同時に京都の人々にとっては、貴族という為政者でさえ、たった一瞬で全てを失うことを目の当たりにし、為政者への疑念が高まり始めます。

追い討ちをかけるように3年後の1180年、今度は巨大竜巻が京都を襲います。これにより、大半の家は一瞬で砕け散り、空には板や皮が舞い、不穏な地響きが日夜轟き、人々は末法で仏を失った人類が終わりを迎えたのだと絶望します。そして巨大竜巻が起きた1180年に、武士階級から台頭した平氏の最高指導者・平清盛(1118-1181)が、立て続く厄災を京都の貴族システムが終わった象徴と捉えて、独断で京都から現・神戸へ強制的に首都の遷都を宣言します。この騒乱によって、京都から人々は一気に逃れて空き家だらけとなり、残った人心は極度に荒廃し、治安悪化などという言葉では片付けられない事態に陥ります。

この遷都は平氏の勢力拡充と、京都に蠢く反平氏の為政者である一部の皇族や比叡山延暦寺を抑制するための措置でしたが、準備ができていなかったことから、半年で京都に戻ります。ですが、京都の人々から見れば、もはや貴族・皇族・延暦寺の時代ではないことを武士が示した大きな転換点となりました。そして同時期の1180年、貴族システムから武家システムへと変わる象徴的な大規模戦争が勃発します。この戦乱には、当時の様々な為政者の思惑が複雑に重なっていますが、事実上、武家同士の次世代の覇権を巡る戦いと見た方が良いでしょう。その二大勢力として対立したのが、平清盛率いる平氏と、源頼朝率いる源氏です。この日本史上最大の内戦を源平合戦と言います。

そもそも、なぜここまで武家が台頭したのか。そのヒントは、源平合戦に至る直前の1156年から1160年の出来事を契機とする、一連の流れを見ることで概観を可視化できます。794年に始まった平安時代のシステムが崩壊していた最後の時代。興味深いことに、いずれも戦争も発端は皇族の皇位継承や、実権の所在を巡る権力闘争を背後にしていました。中でも、1156年は天皇の皇位継承問題を巡る問題から、内部分裂が発生して、朝廷の勢力を二分する内戦が勃発。これによって、皇族率いる朝廷内部で、皇族が分断する事態に陥ります。

この背景には、前年の1155年に当時の第76代・近衛天皇(在位: 1142-1155)が16歳で死去したことから、急遽、皇位継承者として本来天皇になる予定のなかったある皇子が一時的に即位したことに始まります。しかし、この人物は皇位継承の可能性が最初からなかったことから、皇族というよりも、遊興に溺れる放埒な皇子として知られており、とにかく私欲に塗れて政治的能力など持たない人物でした。そのような人物が、ここで第77代・後白河天皇として即位したのですが、その結果、即位の翌1156年には、早くも第75代天皇として1123-1142に在位しながら、上皇として暗躍していた崇徳上皇との間に、激しい対立が起きて戦争が勃発します。つまり、天皇と上皇の実権を巡る内戦が始まったのです。

ですが、皇族や貴族には自分たちで戦争を行う力はありません。そこで彼らは、これまで番犬のように蔑んでいたある勢力に協力を求めます。それが、武士でした。ここで分断した双方それぞれが武士に依頼したことによって、京都近郊の武士勢力も分断し、皇族の代理戦争が始まりますが、遊興に溺れて育っていた後白河天皇の方が、こうした武力を担う勢力を手なづけやすかったのは事実です。何しろ金・酒・女などを武士に提供することができる後白河天皇側に、末法の時代を生きる人々が寄生することは避け難いからです。

ただし、この時に皇族から武士へ依頼したことが、後に朝廷が武士の存在と影響力を無視できなくなる動因へと繋がっていきます。そして、この戦争で後白河天皇側について、見事に相手を打ち破る最大の功績を挙げたのが、平清盛率いる平氏でした。これによって、平氏は天皇直々の信頼を獲得し、表に裏に利権を獲得します。

勝利を収めた後白河天皇は、不安定な体制を立て直して独裁体制を実現すべく、戦後処理の実務をある人物に一任します。何しろ、後白河天皇には何の政治的能力もありません。ここで後白河天皇は、自らのお気に入りだった一人の貴族に政治実権を全て授けます。それが、信西(1106-1160)という人物です。天才的な学問の才があったと言われ、天皇と最も近かった信西は、天皇の威光を背後に借りて、単独で独裁体制を敷き始めます。この時の信西の強引な方法が、他の貴族からの強烈な反感を生むことになり、次の戦争の契機となります。

1158年、私欲に塗れた後白河天皇が、自ら覇権を掌握する時代を謳歌したいという欲望を持っていることを家臣の信西は見抜き、ある提言を行います。それは天皇という地位に着任していれば、とにかく政治や遊興よりも儀式ばかりが多くて自由がないため、天皇を退いて上皇という立場になれば、表に立たずに裏から全ての実権を握ることができる上、遊興に耽ることができるという魅力的な提言でした。これを日本では「院政」と呼ぶのですが、これは上皇が「院」と呼ばれるからです。要するに、天皇を表向きに立てて、実権は裏で院が全て掌握するという独裁体制です。

この信西の提言を喜んで受け入れた後白河天皇は、1158年に息子を二条天皇として即位させて譲位したフリをし、自らは上皇として裏で実権を掌握し始めます。つまり、腐敗を極めたシステムの末期に起きる典型的なシステムの私物化です。このシステムは、従来の「貴族・皇族・延暦寺」というトライアングル構造ではなく、「後白河上皇・信西・平清盛」という新たなトライアングルによって構成されていますが、単純に見れば、覇権を握る後白河上皇、政治を握る信西、軍事を握る平清盛ということです。この時点で、個人が完全に権力を私物化していたことが分かります。当然、これには旧勢力からの大反発が起きるのですが、ここで再び朝廷内が分断します。

一方は、天皇自身による政治を行うことを主張する二条天皇派で、彼らは譲位した上皇が政治に口出しすることを拒否する新体制樹立を目指し、一方は、院政によって後白河上皇による政治を進めることによって、一部の新たな為政者が権力を保持することを目指したものです。要するに、どちらも私欲でしかないのですが、これは事実上、親である上皇と子である天皇の親子による戦争であり、もはや内戦とも言えないお家騒動に由来します。こうした親子の殺し合いに、朝廷の貴族の出世争い、さらに平氏・源氏という台頭する武士の貴族に対する不満が高まる契機を生み出し、1159年に大規模な戦争が始まったのです。ある意味、この戦争が為政者の思惑が集積した下劣な爆発でした。

この時、二条天皇側についた軍勢が、京都の御殿を襲撃。この襲撃によって、政治実権を掌握していた信西が京都を脱出して山間部に逃れるも、逃れることはできないと察して自害します。敵対勢力は信西が自害した場所を突き止めて首を切り落とし、京都市中に晒したのですが、当時、政治のトップに立って執政を振るった人物が、一夜明けると首を晒されている光景は、京都の人々にとてつもない衝撃を与えました。この襲撃は、平清盛が留守だった時期を狙って行われたのですが、平清盛は信西死去によって、政治的影響力へのアクセスが断ち切られることを懸念し、復讐を誓って躍進します。

とにかく戦闘技術がずば抜けていた平氏の指導者・平清盛は、敵対勢力を次々と打ち破り、後白河上皇側に勝利をもたらします。この戦功は平氏の実権を決定的なものとし、しかも信西亡き後の政治実権を平氏が担う決定打となりました。また、後白河上皇は後に出家して後白河法皇となり、武士を翻弄しながら1192年に亡くなるまで30年以上もシステムのトップに君臨します。つまり、法然・親鸞・道元のような新時代の宗教家が登場する時代の根源を形成していたのが、この後白河の動きであるため、この辺りを見極めることによって、はじめて彼らの独創的な信仰の姿が露わとなるのです。

では一体、この後白河上皇によるシステムの私物化によって翻弄された時代の覇者たちは、この独裁システムの渦中で、どのようにして次の時代を作ることになり、そしてなぜ禅が日本で広がる契機となったのでしょうか。この辺りはあまり注視されていませんが、日本で禅が拡大する契機の背後には、武士の動きが密接に関わります。特に、この時代の流れの背後にチラついているのが、絶大な覇権を掌握し始めていた武家勢力の筆頭格である平氏を率いた平清盛の動きです。逆に言えば、平清盛はどのような未来を見ていたのかを考えることによって、禅の爆発的普及のヒントを掴むことができます。

当時、権力を維持したい後白河上皇が恐れたことは二つあります。一つは比叡山延暦寺の動き、もう一つは平清盛の動きです。後白河上皇は、自身の実権でさえ抑えきれない延暦寺の僧侶の動きに苛立っていたのですが、だからと言って、あまり平氏に頼り過ぎても、いつか武士を抑えきれなくなることは目に見えています。特に平清盛という一人の武士の登場は、後白河上皇にとっては、幸運と不幸が同時にもたらされたものでしたが、徐々に権力の高まりと共に自らの覇権を脅かす可能性がありました。

そこで後白河上皇という狡猾な政治家は、自らにとって目障りだった比叡山延暦寺と、平清盛を衝突させ、共倒れさせようと謀ったのです。この私欲に塗れた利己的な一人の皇族の権力維持の欲望が、末法において民の惨状を招く時代となり、そして最終的に武家の完全台頭を生み出すことになります。

同時に注視しなければならないことは、京都の旧態依存した作法を破壊できるのは、新たに台頭した武士以外には有り得なかったことです。こうして数世紀に渡り、京都守護の名目で貴族も皇族も絶対に手出しできなかった当時最強の権力を掌握していた比叡山延暦寺に対して、遂に平清盛は大規模な戦争を仕掛ける行動に入っていったのです。

To be continue.