道元論4On Dogen, Part 4
12世紀中期頃、首都・京都(平安京)で朝廷の覇権を数世紀に渡って握ってきた貴族が没落すると、失われた実権を掌握するために躍動し始めたのは、皇族でした。皇族は貴族政治に抑えられながら、飾り物として政治的実権を持たない時代が長く続きますが、この時代の混乱に乗じて再び力を高めていきます。その主役となったのが、後白河上皇(1127-1192)です。
今日の日本の衰えと、人々の総貧困化を招いた直接の要因は、2010年代にシステムが私物化されたことにあります。「お友達内閣」と揶揄されたように、意のままになる人々を閣僚などに固めて官僚と結びつけ、一つの国の国家運営が一つの人脈の私物のように動きました。正常に機能する国家であれば、こうした仕組みが長く続くことはありませんが、歪みを抱えた国家では、その体制が歴代最長の期間にわたって維持され、現在の衰亡に至りました。この時代を日本で生きていると、かつて12世紀中期頃に、後白河上皇がシステムを私物化した歴史と重なるように思えるのです。
一昨日は、ちょうど道元(1200-1253)の生涯から、現代母国論を考えた記事をリリースしましたが、同日に高市首相が安倍晋三の遺影を持って、伊勢神宮を参拝する姿が報道されていました。一国の首相が故人の遺影を携え、天皇の祖神を奉祀する伊勢神宮に参拝する光景に、政治と祭祀の境が溶けていく時代の相を感じます。この演出を喜ぶ支持者もいれば、国際メディアが一括りに極右と規定する見方もありますが、どちらも現象の表面をなぞるにとどまっているように思えます。まさに昨日の記事で書いたように、仏教で言うところの末法の時代です。いや、正確に言えば、末法の時代は今始まったばかりなのです。
今後、日本は恐るべき姿で衰亡していきますが、歴史をサイクルと見て中長期的に考えるならば、貴族システムから武家システムへ転換する激動の時代を迎えていた12世紀から13世紀の動きと、その渦中における信仰の変様を見極めておくことは未来のためにも重要でしょう。ここからは、昨日の記事を前提に進めていきます。
12世紀中期頃は、従来のシステムの守護者であった「貴族・皇族・延暦寺」の構造が崩れて、「上皇・延暦寺・平清盛」へと転移する過渡期でした。昨日の記事で触れた通り、元々この構造は「後白河上皇・信西・平清盛」という三本柱によって形成されていました。後白河上皇は皇族の権威を掌握、信西は政治の独裁者となり、平清盛は軍事で圧倒的な功績を上げたことから、言い換えれば「祭祀・政治・軍事」の統合をたった三人の人物で私物化したということです。これは当時、かなりのインパクトを持っていました。
しかし、後白河上皇と親友・信西(1106-1160)の独裁体制の樹立によって、従来の利権を持つ旧勢力の貴族が猛反発。これによって、朝廷を二分する内戦が勃発します。この時、敵対勢力は平清盛(1118-1181)の留守を狙って京都を襲撃し、呆気なく信西は死去します。昨日まで政治の独裁者として君臨していた信西が、翌日には京都市中で首をさらされている光景は、当時の京都の人々に衝撃を与え、末法がいよいよ深刻な段階を迎えたことを察します。ここで信西を失ったことは、独裁体制を維持しようとする後白河上皇にとっては強烈な痛手となります。ですが、一度手にした独裁という権力を簡単に手放すことなどできません。こうして後白河上皇のシステムの私物化は、より強度を高めていくことになり、このたった一人の独裁者の私欲に塗れた言動によって、人々は翻弄されていき、やがて解決策がないほど事態が悪化していくのです。
後白河上皇が権力を維持するためには、当時貴族や皇族以上の見えない権力を保持していた比叡山延暦寺と、新たに台頭してきた平氏を率いる頭領の平清盛の動きを抑えなければなりません。同時に延暦寺や平清盛にとっても、皇族からのバックアップがあることは大きく、容易に破棄できないことから徐々に三つ巴の権力闘争へと陥っていきます。ただ、なぜ比叡山延暦寺がここまで絶大な覇権を握っていたのかについては、中々見え難いかもしれません。今日は、そこを重点的に見ていくことにします。
最澄(767-822)が開いた密教の一派である天台宗の総本山・比叡山延暦寺のルーツは、794年の平安京遷都時に、平安京(京都市)という新たな首都に侵入する厄災や邪気を防ぐための、最重要要衝に位置付けられたことに始まります。簡単に言えば、比叡山は聖域として位置づけられ、貴族も天皇も手出しすることはできませんでした。理由は宗教的恐怖心を煽ることによって、比叡山に手出しすると、見えない脅威が襲いかかると信じられたからです。つまり、比叡山は平安京を維持するための最重要拠点であり、逆に言えば、比叡山の覇権が崩壊すれば、平安京は終わると信じられていたため、一心同体だったと言えます。
特に、天皇の健康や執政の安定は、比叡山の加持祈祷にかかっていると信じられていたことから、もし比叡山側が祈祷をやめると言えば、天皇は病になり、国は滅びるという恐怖が、当時の貴族たちの心に深く刻まれていました。これは迷信ではなく、平安京遷都が行われる時代背景を考えると、非常に現実的な問題だったのですが、今回は触れずに進めていきます。
また延暦寺を考える時に重要なことは、比叡山を滋賀側に降った琵琶湖付近に建立している日吉大社と一体化していることです。この日吉大社とは、2100年前に鎮座した歴史を持つ古い神社の一つで、全国3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本山と位置付けられて今も深い信仰を有しています。そして、ここが平安京の表鬼門と位置付けられていました。つまり、比叡山の表鬼門で厄災を防ぐ最前線防衛機能が日吉大社、その絶対的守護が比叡山山中の延暦寺と位置付けられたということです。ここで比叡山という一つの山の配置において、最前線の山麓側に神を奉祀する日吉大社、その守護を担う山中側に仏を奉祀する延暦寺があることを掴んでおけば、後述する神仏習合において仏の神格が神を上回ると捉えられた当時の事情が可視化できます。
どういうことかと言えば、当時の平安京の人々にとっての「比叡山」とは、山の名前ではなく、事実上の権力構造の実態の名前だったということです。実際、今も日本人は延暦寺とは言わず、比叡山と言います。これは最澄と同じ時代に空海(774-835)が開いた密教の高野山の金剛峯寺も同様で、私たちは金剛峯寺とは呼ばずに「高野山」と呼んでいます。この呼称は山名というよりも、言葉にできない幻想の実態のように感じます。
比叡山の実態とは、仏の延暦寺と、神の日吉大社が一体化した神仏習合(神と仏の混淆)の最前線であり、仏教・神道双方の最高格式を有する拠点でした。仏教だけでなく、神の力も併せ持っていた比叡山の力はとてつもなく、彼らが持ち出す神輿は神そのものとされ、これに逆らうことは神の敵になることを意味しました。現代は見える世界だけを奉祀し、見えない世界を奉祀しませんが、当時は真逆で、見えない世界に全ての厄災の原因があると信じられていました。ゆえに、仏教と神道を掌握した最高権威を持つ比叡山に対して、平安京の貴族も皇族も手出しできませんでした。
また、貴族や皇族が比叡山に手出しできなかった理由は、信仰の側面だけではありません。当時の社会において、延暦寺は全国に数千ヶ所の荘園という領地を保有しており、そこから年貢を巻き上げて莫大な収益の自動化を実現していました。しかも延暦寺は税金を払わなかった上に、役人の立ち入りを拒否する力があったことから、好き勝手にマネーロンダリングなどが可能でした。
この集約した豊富な資金力を前提に、比叡山は物流を支配します。何しろ比叡山は、古くから日本海側の物流拠点である福井や石川から、滋賀の琵琶湖を経由して京都へ入る物資ルートの最後の関門に位置していたからです。この地の利を利用して、首都に運ばれる物資を比叡山が一元的に集約し、関所を作って通行料などを徴収していました。これら莫大な儲けを利用して、さらに彼らは高利貸しの金融業を展開しており、山を降った先に居住する首都の皇族・貴族・商人などを広く顧客に抱えて、平安京の経済を裏で支配していました。つまり、延暦寺は国家財政から完全に独立した巨大な経済王国として君臨していたのですが、正確に言えば、平安京という表の首都を握っていた裏の首都です。面白い点は、この歪な名残が今も形を変えながら京都で続いていることです。
現在も日本国内では、寺院などの宗教団体は税金を払わなくて良いことになっているのですが、ゆえに、今日のように京都に大量の観光客が来て寺院などを来訪しても、寺院は税金を払わないため、寺院だけが儲けて、京都市内は財政破綻寸前に陥っている奇妙な現状があります。つまり寺院の儲けは京都市民に還元されず、京都市民が疲弊する一方で、一部の宗教組織が優遇されている状況が続いているのです。
次に重要なことは、延暦寺が貴族にとって出世の最短ルートと位置付けられていたことです。ゆえに、貴族の子弟たちは次々と出家して比叡山に入ったのですが、実は当時の有力者たちの間で、政略結婚が決まる秘密の場所として知られていました。つまり、朝廷と寺院を血縁関係で結ぶための隠れた本拠地として比叡山は暗躍していたのです。この結果、平安京の朝廷が比叡山を攻撃することは、自分の親戚を攻撃することと同じになり、手出しができなくなっていったのです。
こうして比叡山は、信仰・金・血筋などの最高権威を獲得し、首都・平安京の運命を握る存在となったのですが、それ以上に最大の力は武力です。今では考え難いことですが、当時の延暦寺は、日本最大の巨大な武装組織でした。何しろ権力と金が潤沢にあることに加えて、比叡山は延暦寺の権威によって手出しできない聖地と見做されていたため、山自体が巨大な要塞として機能していたからです。つまり、首都機能は平安京という現・京都市内の一部区画にあったのですが、裏の覇権機能は比叡山という一つの山が掌握していました。比叡山自体が巨大な都市だったということです。この観点が重要です。
道元が登場する前後の12世紀から13世紀頃の時点で、平安京の人口は10-15万人程度でしたが、何と比叡山には1万から数万人もの人々が居住していました。実際には素性不明の人々も多数居たため、正確な数は不明ですが、当時、巨大な山に三つのエリアが設けられており、比叡山の16の渓谷を利用し、何と3,000もの僧侶の住居兼寺院が立ち並んでいました。重要なことは、この比叡山の住人のうち、延暦寺の正式な僧侶は3,000-5,000人程度だったことです。だとすると一体、残りの人々は何者なのか。そこには僧侶に仕える使用人や職人などもいましたが、実はその大半は、素性不明の「堂衆」と呼ばれた集団です。
比叡山には階級制度があり、全員が仏教の修行に励む僧侶ではありませんでした。大きく言えば、「学匠」「堂衆」「その他」に分かれます。学匠とは、貴族の子弟などのことで、主に学問や祈祷を行うエリート集団。堂衆は、寺の事務や儀式運営を担う実働部隊。その他は、薪割り・食事作り・土木作業などです。ただ、この中の実働部隊を担った膨大な数の堂衆が、やがて延暦寺のもとで統率されていき、武装した僧侶となって登場します。これが「僧兵(僧侶の兵団)」と呼ばれた集団ですが、要するに比叡山の閉鎖された環境と豊富な資金を利用して、軍備を調達、軍事演習を行なっていた延暦寺直属の専門軍隊です。この僧兵は、当時の日本では「悪僧」と呼ばれていたのですが、この意味は「強い僧侶」や「荒々しい僧侶」といった具合です。
個人的に謎の多い僧兵の実態は、主に延暦寺直属の堂衆が中心となりながら、各地から集まった荒くれ者を束ねた現代で言う軍事組織だと考えています。何しろ、彼らは琵琶湖経由の物資ルートを掌握していた上、役人が手出しすることを許さなかったため、日本海側経由で流入するあらゆる軍備を集約することができたからです。また平安京で生きていけない荒くれ者や、各地を追い出されて故郷のない人々などを利用すれば、怖いもの知らずの軍隊が完成します。
そして比叡山はこの軍隊を、独自のネットワークを介して傭兵として各地に派遣しています。事実、比叡山で訓練された僧兵は、各地の延暦寺が有する無数の領地に次々と派遣されており、領地に隣接する敵対勢力や役人から延暦寺の利権を守る武装組織として躍進を始めます。ここで比叡山を中心とする軍隊システムが僧侶によって組織化されていき、さらに無数の領地で軍事訓練・演習が行われて拡大するのですが、この結果、寺院同士が軍事力を持って、他の利権を略奪しようと内部抗争が活発になります。
つまり、比叡山という一つの山自体が、宗教・経済・軍事の全ての機能を持つ都市であり、少なくとも1万人以上の人々が暮らしていたということです。これだけでも、比叡山が当時の真の首都だったことが見えてくるはずです。それほど絶大な力を誇っていました。
僧兵自体は、10世紀後半頃に組織化されたと考えられていますが、末法の時代が進む過程で、この僧兵が暴走を始めます。実際、延暦寺中興の祖と知られている第18代座主(天台宗の最高の位)の良源(912-985)が、970年に延暦寺の僧侶に対して規律を正すための条項を出しているのですが、この中で武装して争ってはならないと警告を出しており、座主直々に暴走する僧兵を危険視していたことが見えてきます。
ですが、良源の言葉も時代には抗えず、やがて比叡山の僧兵は拡大の一途を辿り、何と仏教の修行を放棄して、武装した僧兵を生業とするようになります。ここで比叡山だけで数千人規模の僧兵が登場するのですが、彼らは強訴と呼ばれる政治手法で朝廷に圧力をかけ始めます。この強訴とは、数千人の僧侶が大軍勢を形成して神輿を担いで一気に比叡山を降り、平安京の入り口である鴨川の河原などに陣取り、自らの要求を主張することに始まります。要求とは、朝廷が取り上げた延暦寺の領地の返還、気に入らない役人の解任など無数にありましたが、この要求が通らない場合、神輿を皇族の住む御所の門前に放置して引き上げるのが強訴の手段です。
前述の通り、比叡山の神輿は神そのものですから、神輿が御所の門前に置き去りにされることは、比叡山側が祈祷を行わない宣言となり、天皇が病にかかったり厄災が起きると信じられていたため、政治を担う朝廷の貴族はパニックに陥ったということです。この結果、貴族側は暴走する僧兵の要求を飲むしかなくなり、どんどん僧兵がつけ上がっていきます。
強訴とは要するに「ゆすり」ですから、一度成功すればエスカレートするものです。当時の延暦寺側の強訴は、寺院の領地に対して朝廷の役人が税金を取ろうとしたり、他の貴族が略奪しようとすることへの抗議、延暦寺の僧侶を朝廷の高い位につける要求など様々でした。この強訴は延暦寺だけが行なっていたのではなく、延暦寺の動きに便乗して、平安京遷都以前の奈良に首都があった時の最大寺院の一つである興福寺なども行なっていました。つまり、この時代は仏教の僧侶が信仰などの宗教的側面ではなく、もはや軍事化した政治結社になっていたということです。
時代の覇権を掌握しつつあった延暦寺にとっては、既に比叡山に屈服した朝廷は敵ではなくなりますが、ここで意外なところから最大の天敵が現れます。それが、同じ天台宗で分裂した園城寺の存在です。簡単に言えば、歴史的な天台宗の座主を巡る派閥争いが、比叡山の延暦寺と、滋賀県大津の園城寺との間で激化するのですが、これが100年以上も続く激しい抗争となり、やがて貴族や皇族や朝廷を巻き込む時代の震源地となっていきます。この争いの起源自体は9世紀後半頃に始まりますが、11世紀に入ると、互いに僧兵が軍事衝突を繰り返すようになり、圧倒的な武力と軍事組織を有する延暦寺側の僧兵は、園城寺を焼き討ちにし、大勢の人々が死ぬ事態に陥ります。そして、この延暦寺と園城寺の天台宗における内部分裂による派閥の存在が、やがて源平合戦の主軸となる武家の源氏と平氏、中世には北朝と南朝に分かれて戦う原因となります。
つまり、京都の歴史における分断の背後には、実は天台宗の派閥争いが深く関与しているということです。この構造は今も日本の政治に強く残っています。
こうして比叡山延暦寺の暴走は、平安京の治安悪化やシステムの不安定を招く動因となりますが、それでも旧勢力の貴族や皇族は厄災を恐れて比叡山を抑えることはできません。ここで台頭したのが、平安京のシステムにおける利権を持たず、システムの外で生きてきた新たな武士という存在だったのです。特に、武士の中でいち早く朝廷の中枢に入り始めた平氏の頭領である父・平忠盛(1096-1153)と子・平清盛(1118-1181)は、この比叡山僧兵の横暴に対して我慢の限界に達し、遂に自ら比叡山の僧兵と対峙する激動の時代へと踏み込みます。
これまで、僧兵が比叡山から担ぎ上げてくる強訴(脅し)のツールである神輿に対して誰も手出しできませんでしたが、平清盛は「神輿に矢が当たっても後で修理すれば良い」と言い放つ新たな態度の持ち主で、貴族や皇族は厄災を恐れているが、現実は既に仏の末法ではないかと堂々と考えます。この新時代に相応しい強い武士の登場によって、一気に比叡山僧兵の「神の威光を悪用した脅し」が効かなくなり、平忠盛と平清盛という親子の登場が、そのまま比叡山の宗教権威の失墜となり、徐々に平安京の人々は数世紀作り上げられた虚構から目を覚まし、次の時代の主人公を武士に見出すようになります。
ここから、かつて「もののふ」と呼ばれた武士が、平安京の事実上の運営者として独裁体制を続けてきた「比叡山の幻想」を消失する時代が始まります。圧倒的な覇権を掌握する比叡山にとって、最も恐れたのは「神や仏を政治や経済から切り離して考える人物」の登場です。
一体、平氏を率いる親子は、いかにしてこの宗教を装った怪物を破壊したのか。ここまでで察しがつくでしょうが、私は平氏が比叡山の幻想を消失させたからこそ、法然や親鸞の浄土宗が興り、それに対抗する形で道元の禅が登場したと捉えています。
この辺りの歴史は難しいでしょうが、もし興味があるなら、1955年に公開された溝口健二の『Shin Heike Monogatari』という映画は参考になります。もちろん、これは原作が吉川英治という歴史小説ですが、少なくともなぜ武士が平安京において台頭したのか、そして比叡山とは何なのかを理解する上での基礎にはなるでしょう。
To be continue.