新年に、目標の先へBeyond the New Year’s Resolution
読者の皆様、新年あけましておめでとうございます。
2026年という新たな一年を迎えた今、新年の目標を立てる人は多くとも、その目標を年末まで覚えている人は少なく、ましてや達成する人はなお少ないことは、誰にでも経験あることでしょう。目標を立てることが目的となってしまい、目標を立てて満足してしまい、結局は何のための目標か分からなくなる。それは、本来の「志を立てる」こととは遠く離れており、私利私欲の介入によって迷いに翻弄されるからですが、年明け早々に、日本では大勢が神社や寺院に出向いて一年の祈願を行う習慣がありながらも、どうもその祈願が私利私欲となってしまっている人が大半なのが実情です。神や仏は、人間個人の私利私欲を聞き届けるほど、馬鹿ではありません。
こんな迷いが社会全体に広がっている今こそ、清々しい心で先人の教えに目を向けて、真摯に向き合い、新年の一歩を始めることが必要に思えます。私たちは、一日一日を忙しなく過ごしてしまい、真に生きることを見つめる機会を持つことが貴重となっていることは、今や誰もが共通して感じていることでしょう。このような状況下では、生きる上で軸となる志を立てることができず、志がないがゆえに、修養もできずに迷走に陥るばかり。お金の大小に貧富の差はあっても、24時間という時間は人類全員に平等な唯一の資産です。誰もが0.1%の億万長者になれるのではないのですから、だからこそ唯一の資産である時間を如何に使うかということに、現代人のセンスが表れてくるのではないでしょうか。
この時間の使い方を効率化と同一視することは誤りで、それよりもまず最初に「志を立てる」ことにある。志を立てることをなしにして、学問もなければ仕事もない。だが、現代は志を立てることなく学問があり、仕事があるというように転倒してしまっており、しかもそれが一般化してしまっている。志を立てることは、キャリアへと変換されてLinkedinのプロフィールとなって形骸化してしまいましたが、本来の志を立てることことの本義は、社会的評価とは一切無縁です。2025年を通じて痛感したことは、あまりにも全てがズレてしまっており、一つ一つの問題に足を突っ込んでいては、何も解決しないということ。全体が問題と言うことは容易いが、その全体が文明の地盤自体、もっと言えば現代人が思考を行う地盤自体にあることは見抜かれていない。この昨年の気付きを通じて、2026年は一つ一つの問題を見直す視座ではなく、この地盤自体をdisplacementすることへ全力で集中しようと決意を固めています。
さて、このグローバルな時代においては、一人一人が各々に異なる思想や主義、信仰や考え方などを多様に保持しており、従来のように一概に何かを言い得るものはありませんが、それでも誰もがそれぞれに生きる上で大切にしていることや考え方は、それなりに人生を生きてくれば見つかるものであり、それが真心から生まれたならば、表面的には人それぞれに差異はあっても、内実は同じと言い得る場合が多いはずです。
私自身、あまり一つの考え方に固執する性格ではなく、むしろその時に自分にとって必要なものを必要な分だけ学ぶというスタンスを取ってきました。そのため、一年中一つのテーマを軸に学問に励むことはできず、昨日のフォトエッセイを見て頂ければ理解できるように、同時に複数のテーマを抱えて動く方が性に合っています。ただ、それはあくまでも表向きの話であって、内面の軸となるものに関して言えば、以外と私に限らず誰もが、かなり限定的な思想や信仰を信じているのではないでしょうか。そしてそれは大概、最近新しく提唱されたものではなく、既に古典の中に答えがある。このことは、時代に翻弄されず、自分自身と真摯に向き合って生きる人ならば、同意頂けるでしょう。
実際、私は表面上は多様なテーマを同時にミックスしながら生きていますが、生きる上で志の軸となる根幹、言い換えれば源泉の原動力は、かなり限定的な思想というか信念に立脚しています。もちろん、その底には私個人の強い情熱と探究心があるわけですが、年々、これまでの人生で多種多様に学んできた装飾的要素が除去されていき、最終的に特定の思想だけが残るというイメージを実感しています。誰もが経験あるでしょうが、20代で確固たる軸を据えるなどあり得ず、30代も軸があるようでない微妙な状態が続き、40代になってやっと軸が定まり、50代になって本格的にその軸がブレなくなる。そして60代でその軸からやっと真の仕事ができるようになるという具合に、人生の軸とは、中々容易には定まり得ないものです。しかしそれでも、暗中模索で軸を探り続け、どのような境遇であっても諦めずに前進し続けた者のみが、気付けばブレない軸を獲得するのが人生の妙理でしょう。
34歳の私にとっては、このブレない軸を獲得したとは到底言い難いのですが、ただ最近の経験を経て、私にとっての人生の軸が僅かに見えた感覚を得ました。というのも、2025年後半から年末にかけて、個人的には人生最悪の日々が続き、非常に強いストレスに翻弄される苦悩の時間が続きました。ただこれまでとは異なることは、この翻弄される渦中において、これまでならば我を見失い、感情に全てを移譲して爆発していたのですが、今回はこの渦中で感情の動きを観察することができ、かつこのような最悪の出来事の渦中においてこそ、これまでの学びが真に意味を為す時だと強く自覚し、経験できたことです。
つまり、学問の本義とは、人生において予期せぬ形で誰にでも訪れる想定外の出来事に直面した時、それまでの学びを実践的に使い、その窮地を乗り越えることができるか否かにあると確信したのです。これは最悪な状況の渦中でストレスを抱えながら過ごす私にとって、非常に重要な気付きと確信でした。
特に面白かったのは、最悪の状況に陥った時、これまで様々なことを独自に学んできましたが、その大半は平穏な時には時間潰しや知識の拡充としては使えても、実際の危機や最悪の状況下においては、全く役に立たなかったことです。つまり、ほとんどの学問は、人間が実際に陥る様々な出来事に対しては、実用的ではないことに気付いたのです。実用的ではないということは、人生において真の学びにはなり得ないということ。この苦悩を抱えていた11月中旬頃に、突然知識は使えなければ意味がないのではないかと想起し、それをShitsuraeを通じて実験的に試みてみたのも、振り返ってみるとこの気付きが生まれていた瞬間だったと言えます。
何より興味深いことは、この状況下でも、たった一つだけ非常に実用的な学問があったことです。事実、私はその学問の修養を通じて、この最悪の期間を何とか崩れずに持ち堪えることができ、どうすることもできない状況に潰されずに、何とか乗り越えることができました。それが、直近で少しずつメンションし始めていた明代の儒者・王陽明(1472-1529)だったのです。昨年末頃から、王陽明の陽明学について触れてきた背景には、このような個人的な心理における日常の実際経験がありました。
ここで同時に気付いたことは、日本と言えば、神道、禅、その他仏教の諸宗派、あるいは美学などのイメージが強すぎるためか、儒教が日本人の精神や文化の根幹を形成していることが知られていないということです。さらに、こうした実際の窮地における経験を通じた今、宋代の朱熹(1130-1200)の朱子学と、王陽明の陽明学の考え方の相違ではなく、自ら心の底から、なぜ朱熹の朱子学ではなく、王陽明の陽明学に心酔する人々が歴史的に日本で反動的に登場したのかということを、単なる知識としての理解ではなく、自らの実際経験の中で自覚できたことは、おそらく今後の人生において転換点となります。
世の中には、人生に実用的な学問がほとんど存在しないという実際経験からの理解は、私にとっては驚愕的な出発点となりますが、逆に言えば、すると大半の学問は、一体何をやっているのかと疑念が生まれてきます。この実際経験から生まれた批判軸が、日本で儒教の時代と呼ばれた江戸時代(1603-1868)から現代に至るまで、陽明学派の人々による形骸化した朱子学派への批判意識として顕現していることを、歴史知識ではなく、現実の生活において掴み取ることができました。つまり、2025年後半から2026年の始まりにかけて、私の個人的な人生を通じて掴み取ったことは、「知識は使えなければ意味がない」という確信です。そしてこれは、まさに王陽明の態度そのものなのです。
王陽明は、自らの門に入って学問を為す人に向けて、最初に学問の心構えを4つ説いています。この4つの教えは「四言教」と呼ばれ、学問の基本中の基本として、陽明学で重視されてきたものです。この四言教を日本側で広める先達となったのは、江戸時代の儒者で陽明学を日本に広めた先駆者である三輪執斎(1669-1744)という人物です。三輪執斎は、京都生まれで十代後半で江戸に移動して以降、江戸で幕府直轄の官学であった朱子学を極め、20歳頃の時点で講師を任されるほど才覚が優れていました。ですが、20代前半で朱子学の限界を悟り、新たな学問を求めて奔走した結果、三輪執斎が生まれる前に没していた日本陽明学の開祖・中江藤樹(1608-1648)の著作と運命的に出会い、中江藤樹が遺した陽明学の著作を通じて、王陽明の思想に傾倒します。
こうして、当時の朱子学礼賛の風潮に疑念を抱いた若き三輪執斎は、朱子学は江戸幕府を中心とする体制の統治哲学としては確かに有効だが、それはあくまでも体制が比較的強固な時に限定され、一度不安定な動乱を迎えると、実際には何の役にも立たない、単なる知識の戯れであるという朱子学の性格を見抜きます。一方、当時はまだほとんど知られていなかった陽明学は、全体統治を目論む幕府・藩の政治を担う体制側の為政者にとっては不都合だが、一方で人間が真に生きるという真っ裸の状態を見つめるならば、陽明学ほど実用的なものはないと考えます。
そして1603年に江戸幕府が樹立して以来、既に1世紀が経った18世紀前半を生きた三輪執斎は、このまま学問が朱子学一辺倒を極めれば、未来は極めて危ういものとなるだろうと予感し、孤軍奮闘で陽明学という新たな軸の創成に生涯をかけます。これは朱子学がダメ、陽明学が良いという二元論的観点ではなく、朱子学だけに依存し過ぎる当時の風潮では、朱子学が持つ非実用的側面が露わになった時、統治不能となって為す術がなくなることを危惧した三輪執斎が、陽明学を同時に立てることによって、そうならないようにバランスを取ろうと画策したということです。個人的に、三輪執斎は非常に先見の明があったと感じます。特に注意が要されるのは、三輪執斎の態度に見られるように、日本の陽明学者は、実は反朱子学を標榜していたのではないという視点が重要です。
というよりも、当時はいきなり陽明学から学ぶ人はおらず、例外なく朱子学から入り、朱子学を極めて限界を理解した一部の者だけが、新たな可能性を求めて陽明学に傾倒したということです。そのため、陽明学派の人々ほど、二元論には陥らない性格を持っています。ただ一方で朱子学派の人々ほど、朱子学が幕府公認の官学という絶対的地位への自惚れが強かったため、強固な一元論を掲げており、朱子学以外に学問はないという有様でした。
とは言っても、三輪執斎が生きた時代は、幕府の政治が比較的安定していた時代でしたので、この朱子学が唯一絶対の学問(真理)と見做されても致し方がない側面もありました。そこで三輪執斎は、自分の時代で陽明学が広がることはあり得ないと判断し、後進の育成を考え、朱子学一辺倒に陥らないように異なる選択肢として陽明学を教え始めます。これは講義の形で行われたのですが、その時に筆録されて1727年に刊本が成立したのが、前述の王陽明が最初に門人に授けた四言教を講義の形で教えた『四言教講義』です。
ただし、この1727年には刊本が僅かに出版されたようですが、18世紀の江戸時代の幕府主導の体制システムは強固に安定していましたので、陽明学のような実用的学問への要望がそこまで高まりませんでした。むしろ、この時代は「天下泰平」という言葉が流行ったことに象徴されるように、かなり安定した状態です。実際、同著は幕府の体制が不安定となり、時代変動の不穏な雰囲気が広まる江戸時代後期の1827年になって出版が広まっており、さらに明治維新を終えて日本が軍国主義に邁進する1899年にも広まっています。つまり、為政者の体制が安定している頃には陽明学は注目されず、不安定となって不穏な時代に陥ると、陽明学が注目されるサイクルを日本は繰り返しているということです。
なぜならば、安定の背後には必ず腐敗があり、その腐敗は着実に歳月をかけて露わになるからです。しかし、この安定は体制哲学の朱子学の力と結び付けられて考えられてしまうことは避け難いため、さらに朱子学信奉の傾向が高まっていきます。この状況下では、陽明学の真価に関心を持たれることもなく、むしろ若い学者は現代同様にキャリアの出世ばかりに頭を使いますので、知識拡充を主とする朱子学に傾倒して絶対視する傾向を高めます。実際、18世紀は三輪執斎が危惧した朱子学一辺倒の時代を迎えることになるのですが、ここでは知識の扱いだけが問題となり、実用は問題外となるため、陽明学が評価されるには至らず、思わぬところから反朱子学の動きが勃発します。それが、国学という新たな学問の台頭です。現に、国学の大成者である国学者・本居宣長が1730-1801年を生きたことを考えても、国学の台頭が18世紀の朱子学一辺倒と呼応して反動的に生まれた時代事情が見えてきます。
儒教は中国の精神であって日本固有の精神ではない、仏教は大陸の精神であって日本固有の精神ではないという、強い外来精神への反発から登場した本居宣長を筆頭とする国学者は、反朱子学的態度を強く持っていましたが、ただ国学者も、総じて実用的な学問という観点を持っていなかった点を見逃してはなりません。むしろ私の目には、朱子学という外来の知識主義に対して、国産の知識主義で対抗する国学という印象を強く受け、知識主義に停滞しているという意味では、18世紀における朱子学も国学もさほど差異はないと考えます。つまり、朱子学も国学も体制維持が可能な時代においては注目される傾向を有しているが、実際に激動の時代を生き抜かなければならない状況に陥った時、いずれも大して役に立たないということです。そしてこの役に立たない学問の実態は、19世紀に入ってどんどん暴かれていきます。
実際、平穏な時代に社会的キャリア形成には役立つ知識の戯れでしかない朱子学や国学は、激動の時代に実用性は皆無なため、18世紀を終えた19世紀に入ると、抜本的に既存の朱子学や国学の知識主義への反動が起きます。特に、朱子学も役に立たないが、国学も結局は朱子学同様に単なる知識主義の一種ではないかという強烈な批判から、国学を実用化する動きが生まれたことが重要です。それが、江戸から少し離れた水戸藩(現・茨城県水戸市)の武士の動きです。この水戸藩の学問は、江戸時代を通じてブランドとして知られており、独自の学問を持つことから水戸学派とも言われます。
水戸藩は、徳川将軍家の一族に由来にする尾張(現・愛知県西部)・紀伊(現・和歌山ー三重県南部)・水戸(現・茨城県水戸市)の諸藩で藩主を世襲する三家が、江戸の将軍家に次ぐ家格を有する存在として、江戸時代を通じて特別視された藩の一つです。藩主は、水戸徳川家と呼ばれて代々世襲されていましたが、水戸藩では藩主主導で古くから学問教育への関心が非常に高く、優れた人材が次々と登場していました。特に、朱子学だけでなく、神道や国学も積極的に取り入れており、独自に様々な学問をミックスする精神創成の一大拠点でした。私は、この水戸藩による水戸学の精神が、やがて19世紀に入って実用的学問への希求が高まった時、当時の二大学問である朱子学と国学が抱える非実用的性格を、どのように解決するかを真剣に問題に据えて、実用化する原動力となった存在だと見ています。
実際、この水戸藩の中で育まれた水戸学の学問や精神は、かなり直接的に江戸末期の革命運動の精神的支柱となっており、尊王攘夷運動(天皇を尊び、外国人排斥のイデオロギーの実践)の先鋒として、水戸天狗党という武装組織が立ち上がる拠点ともなっています。
知識によって理解する学問の限界と、実際経験によって体得する学問の限界。
この差異を2025年後半の経験から自覚できたことを苗と考えるならば、ここから数年でこの苗を生育することが一つの責任なのかもしれないと、新年早々に御節を食べながら考えていました。